第80話 順調に進む大会への準備

 5月はじめの合宿が終わって間もなく、部室内での野球部ミーティング。整列する1年生を前にして、2年3年の先輩が前に並ぶ、という定番となった立ち位置で、山崎はいつもの腕組みポーズを取って、こう言った。


「夏大会を目前に控えて。君達に、あらためて自覚してもらいたい事があります」

 1年生は、落ち着いて耳を澄ませる。教官の言葉は、まず受け入れる事から始まるのだ。


 もちろん2年3年の上級生組も黙って耳を澄ませる。訓示を垂れようとしているのが副主将の山崎であり、主将でも監督でも無いのだが、何も問題は無い。もうみんな慣れた。

 選手の列の脇に控えるマネージャー達を含めて、今年から野球部に加わった1年生が次第に慣れ、理解してきた事は【山崎先輩こそが現場における指揮官である】という事だ。平塚先生はあくまでブレーン担当であり、練習における実務はあまり行わない。練習においてノックのひとつも行わず、主に裏方業務を行う事から、それは何となく理解できている。一昨年までの弘高野球部が全く実績を残せていなかったのも、理論を実践するために必要なトレーナー、コーチの役割を担う人間がいなかったという事なのだ、と理解している。弘高野球部はKYコンビという優秀なトレーナー兼プレイヤーが入部した事により、大きく変わったのだと。そのため山崎が実務における大きな権限を持っているのだ――と。


 大体だが実情と合っているので、特に弘高野球部の上級生組も否定する所ではない。利害に不具合がなければ、別に問題視する事でもないのだ。平和がいちばんである。


「ところで……そこの芹沢くんでいいや。君、将来はプロ選手になるつもり、ある?」

「いえ、そこまでは考えていません!!」

 返事は素早くはっきりと。教育が行き届いているな。


「野球をやっているのはなぜ?」

「野球が、好きだからです!!」

 うんうん、と頷く山崎。


「それでは、次の質問には、少しだけ考えて返事を。『高校球児をやっている』のは、なぜ?」

「……甲子園に、行きたいから、です!!」

 よろしい、と山崎は満足げに頷いた。


「野球が好き、にも色々あるわね。ただ『スポーツとしての野球が好き』なら、野球の試合を観戦するのでも、グッズ集めをするのでも何でもいい。我々のように実際にプレイヤーとして『野球をする』のは、プレイする楽しみや、それに付随する何らかの目的や野望なんかもあるのが自然だものね。そして今年というタイミングで弘高野球部に入部してきたからには、そのくらいの野心があって然るべき。けっこう、けっこう」


 山崎は、目の前の1年生を見渡して言う。


「今年の弘高野球部は、まずは夏の甲子園大会――高野連の、夏の全国大会出場権を得ることを目標として試合を勝ち抜きます。最終的な目標は全国大会の全日程の消化。あわよくば真紅の大優勝旗をGETしてやる事よ。これが上期の野球部の主なる目標ね」


 ごくり、と。1年生の何人かの喉が鳴った。脇に控えるマネージャー達からも緊張した雰囲気が伝わってくる。


「――さて、そこで勘違いしないでもらいたいんだけど、我々こと弘高野球部の運営方針、野球部としての【目的】は、『真紅の大優勝旗を得ることなどではない』、という事。全国大会優勝、というトロフィーは副賞みたいなものよ」


 1年生から、若干だが戸惑った空気が伝わってきた。


「前にも言ったけど、あたし達の【目的】は、【高校野球をプレイヤーとして存分に楽しむ事】に他ならない。全国大会の出場権も、甲子園大会日程の全消化も、そのための手段ね」


 山崎の言葉が頭に染み渡っていったのか、1年生の戸惑いの空気が消えていった。


「野球の経験者の中には、『練習は辛いだけだった』とか、『試合に勝てなければ意味がない』みたいな事を言う人もいるわね。ま、そういう人は【目的】が、【野球をプレイヤーとして楽しむ事には無かった】可能性もあるんじゃないかな……と、個人的には思ってる。野球をする『目的』が、相手チームを叩きのめしてマウントを取る事そのものだったり、優勝旗を持ち帰る事だけだったら、そりゃ勝利という結果しか意味がないでしょーよ。できるだけ楽をしたい、っていうのも理解できるしね。プロ野球選手として稼ぐつもりの人間にしても、プロスカウトの目に留まるためには実績が欲しい……当然ね。さて、この中で、職業として野球で稼ぐつもりの人は……まあ、ほとんどいないでしょう」


 特に手を挙げろ、とは言わない。たぶん山崎と……俺?くらい、だけだろうし。


「プロにならない人間であれば、進学にしろ就職にしろ、この先野球をする時間はどんどん減っていっても不思議じゃない。もしかすると、もう野球を心ゆくまでプレイする時間は、この高校生活が最後かもしれない……そこを自覚すれば、自ずと今の時間の貴重さ、今のこの時間を『辛い』なんて、つまらない言葉で片付けるような事は出来ないと思うのよ。全ての野球時間を楽しまなければ勿体無い。いいえ、惜しくて惜しくて、楽しまずにはいられない……そう思うのよ。君達には、その事を理解して野球をして欲しい。そのために、最高の楽しさを得るために、甲子園を目指すという事を」


 少しだけ、しんみりとした雰囲気が漂う。


「――ゆえに、我々は、全日制の高校生で19歳以下しか参加できないという制限のある、高野連の全国大会という、国民的イベントに全力で飛びつく!!勝てば勝つほど派手な舞台と強敵を用意してもらえるという、高校生だけの、人生の時間からすれば一瞬とも言える時間の特権的イベント!!高校球児を存分に楽しむのなら、これを逃す手は無い!!――君達は幸運である。なぜなら去年の夏大会の準優勝メンバーのうち、交代投手を含めて8人がチームメンバーに居るからだ。この夏の大会を勝ち抜くために、とても有利だろう。そして君達は10人いる。去年の我々のように、秋季大会を見送り、春のセンバツ全国大会に予選から不参加となる事が無い。もしかすれば、来年春の甲子園にも行けるかもしれない――つまり、この3年間で最大5回の甲子園を経験する可能性を持っている!!しかし、秋からは3年生が4人抜け、君達が主力とならねばセンバツ出場すら苦しいだろう。そして君達が3年となった時には、今の2年生も卒業していて、自分達だけで最後の夏を戦わなくてはならない。諸君らは!!自分達の未来のために!!自分達が3年間の高校野球を最大限に楽しむために!!すべての野球時間を楽しみ、己の力とするのだ!!」


 1年生の背筋が、あらためて伸びたように感じる。前に立つ上級生も、脇に控えるマネージャーも、そして平塚先生も同様に。


「これより夏大会の抽選会までに、週末は可能な限りの練習試合と基礎練習、試合状況を想定した練習時間に充てる。その中でレギュラー2名を選ぶ事になるが、今も言った通り、秋からは6人が最低でもレギュラーに選ばれる事になる。そして、来年と再来年を想定してピッチャーの育成にも入る以上、余剰人員など1人もいない!!君達全員が主役なのだ!!練習で、試合における実践で、相手チームの動きから、そしてより高いレベルの試合から技術を学び、すべての野球時間を自分のために使うのだ!!さあ来るぞ、諸君らにとって最初の夏が!!野球に対する情熱を全て注ぎ込む価値のある、熱い大会が!!我々こそが、もっとも高校野球を楽しむ者となり、その喜びを伝える伝道者となる!!この夏のエンターテイナーは、我々なのだっ!!理解できたか、諸君!!」

「「「「はいっっっ!!!!」」」」

 元気な声が返ってくる。気合い充分である。


「一瞬たりとも無駄にせず、できるだけ長く野球時間を楽しむ!!やるぞぉ――!!」

「「「「ううおおおおおお――――っっ!!!!」」」」


 山崎が天へ向かって突き上げる拳に続き、1年生が、そして上級生が、マネージャーが、監督が。全員が拳を突き上げて叫ぶ。……山崎がアジテーション的演説みたいな事を言う時には、わりと男言葉で話す事が多いと思うのだが。なんだろう、あの言葉には人間を催眠状態に陥れるような何かが含まれているのだろうか。俺自身も後になって『なんであんなにエキサイトしたんだろう』とか思ってしまうくらいにテンション上がったりするんだが。ちょっと怖い。


※※※※※※※※※※※※※※※


 そんなミーティングを終えて数日の後。週末は予定通りに練習試合がメインに組まれる事になった。基本的には上級生の対外試合の勘を取り戻すための試合だが、1年生の誰をレギュラーに入れるかどうかの試験的なものも含まれている。

 当日は同じ学校と2試合の練習試合を行うという事もあり、1試合目は上級生メインチーム、2試合目には1年生メインチームにて試合を行ったのだが、弘高野球部の実情ゆえに、少々奇妙な事にもなった。


 スパァ――――ン!!『ストライク!!バッターアウッ!!』

 ミットから快音が響き、見送り三振した打者がアウトになる。


「山崎バカおまえ!!1球を大事にしろ!!」

「練習試合だぞ!!貴重な練習だぞ!!真面目にやれ!!」

「北島てめー、ちゃんと制御しろよ!!」


 味方のベンチから俺達に罵声が飛ぶ。ピッチャー山崎、キャッチャー北島という状況。山崎がときどき遊び球を投げる度に飛ぶ、味方からのブーイングである。もっとも、観客からは歓声が沸くのだが。


「だってさあ、たまにはファンサービスというか」

「1年生の育成を考えると余裕ないんだぞ、俺達は」

 などと、弘高の新造バッテリーの会話に対し、相手チームの反応は。


「いえいえ、お気になさらず」

「こっちの方が嬉しいですよ」

「「「勉強になりますからー」」」

 などと、好意的な反応。味方と対戦相手の温度差がひどい。


 ちなみに2試合目の1年生メインチームによる試合である。球速は不明だが、さっき投げたのは山崎の高速ジャイロ。おそらく速度は150キロを超えているだろう。

 ――基本的に2軍相当のチーム同士、特に弘高1年生の練習としては、実戦における守備練習が必要なため、勝敗を無視して適度に打たれる事が望ましい。しかし連続試合だと川上先輩や前田を連投させる訳にもいかない上、ピッチャーの練習を始めたばかりの1年生2人だけで投げさせる訳にもいかないので、山崎と俺の新バッテリーがほとんどのイニングを担当するのだが……山崎が時々、『ストレス発散的に本気で投げてしまう』と、相手の2軍チームではまともに当てられない事が多いため、こういう事になってしまうのだ。味方からは『適度に手を抜いて打たせて1年生に経験を積ませろ』と言われ、相手チームからは『来年のためにも本気で投げてきて構いませんよ』と言われる。相手チームも2軍とはいえ、準レギュラーとか来年のレギュラー候補とかがメインだろうし、ベンチで山崎の投球を見るレギュラーメンバーとしても、できるだけ本気の投球を見たい事だろう。対戦相手と味方の利害が逆転する、謎の状況である。相手チームも弘高野球部の実情が分かっているから問題にならないものの、下手をしたら両ベンチから罵声が飛びかねない。相手が紳士的で良かったと思う。


「人材不足って、色々な不具合を引き起こすもんだなあ」

「人材っていうのは育てるものよ。文句を言うべきじゃないわ」

 この状況で山崎に正論を言われると何だか理不尽を感じる。納得いかぬ。


 現状において、1年生野手の成長は順調である。硬球の弾みやゴロの球速にも慣れ、基礎練習の成果もあってかエラーがほとんど無い。打撃能力も順調に伸びており、当てるだけなら速球にも変化球にも対応できるようになってきた。遠投能力や打撃の飛距離などには改善の余地が多く残されているが、今後少しずつ改善されていくはずだ。現状は守備力強化の方針でのビルドである。


 ――結局。その日の試合、1年生メインチームは接戦の末に負けた。試合内容的には、ほぼ乱打戦。育成中の1年生投手が打たれまくった末の敗北という事になった。ちなみに山崎が投げている時は内野から外野手前までの打球を、1年生投手が投げている時は全て外野への打球を打たれるという分かりやすさである。


「グラウンド整備が終わったら、まずは反省会だからね!!」

「「「「はいっ!!!!」」」」

 試合後には反省会。問題点を確認し、後日の個人訓練の方向を決める。


 打たれまくった育成投手の2人は少々しょげていたが、ピッチャーを始めたばかりだから仕方ない。死球が無かっただけでも上々だろう。

 なお、弘高野球部の伝統という訳でもないが、投手は投手専任ではない。選手の状況がどう変わるか分かったもんじゃない、という過去の経験より、投手としてのトレーニング比率が多く取られているだけで、野手としての練習も行っている。現実は厳しいのだ。


「黒木くん。清水さん。この後、残ってちょうだい。少し指導をするから」

「「はいっ!!」」


 1年育成投手の2人が、反省会の後で山崎に声をかけられていた。弘高野球部の専属トレーナーである山崎の指導があれば、彼らも今年の秋からは立派な戦力になれるかも知れない。ほぼ同じような条件から叩き上げられた前田という前例があるのだから、期待はできる。尤も、前田の場合は甲子園のマウンドという極限の実戦トレーニングを積んだ経験、という違いもあるので一概には言えないが。


 すべては順調である。このまま大会までに練習をこなせば、今年の夏を戦う戦力に不足は無くなる、気がする――まあ去年も、全国大会の舞台で訓練を積んでいたような気もするから、ともかく地方予選、県大会を勝ち抜く事だ。

 もちろん県内にも強敵は居る。去年の決勝を戦った野球名門の明星高校、毎年安定したチーム力を発揮してくる飯坂工高、そして山崎が個人的に仲良くなってしまった雲雀ヶ丘女子。この辺りは春大会でもベスト16以上……明星に到っては優勝している。参加校数次第では、これらの学校すべてがシード権を獲得して上位へと間違いなく上がってくるし、今年から頭角を現したと思われる学校も存在する。

 とは言っても、自分の所の戦力を整えるだけで精一杯な弘前高校野球部としては、行き当たりばったりで勝負をするしかない。そろそろ今回の県大会でのスケジュールも発表されるはずだから、そのスケジュールに合わせて仕上げるだけの事だ。


「あ、ところで先生」

 俺は少しだけ気になった事があったので、平塚監督に声をかける。


「なんだ北島」

「今年は大丈夫ですか?」

 俺の言わんとするところを察して、ベテラン数学教師は重く頷いた。


「連中も今年は受験生だ。真面目にやってるよ」

「それを聞いて安心しました」

 どうやら今年は実力テストの結果で試合に出られない選手は出なさそう。ここら辺は大会日程にもよるので、心配しすぎな気もするが。


「あとは食中毒対策と……健康管理に関する教育ですかね」

「これから県大会終了までは、定期的に繰り返し教育を行おう。関係者各位への連絡も必要だな。家族からの伝染病感染の可能性もある……」


 うんうん、と互いに頷く選手と監督。あと交通事故とかにも気をつけたいですよね。これも心配しすぎな気もするが、梅雨時から夏場にかけては、食中毒には特に気をつけないとね。


 まずは実力以前に、試合ができる状態を保つ必要がある……。そのためには学業における義務の達成と、健康状態の保全が必要なのだ。我々は去年のトラブルから、それを学んだのだ。現在のところ、野球の訓練に関しては問題の無い進捗を見せている。あとは野球をできる状態を保つ事だ。それが出来れば、たぶん問題は無い。少なくとも悔いが残るような事は無いはずだ。今年の夏の魔物の牙は、少なくとも県大会で弘前高校野球部に突き立つ事は無い。人数的な問題をクリアし、資金的、設備的な問題すらもクリアして練習環境も格段に向上した我が校野球部。今年の弘高には……何も問題はない!!


 そう、何も問題は無く、順調に事は進んでいる。このまま順調に夏大会を迎えよう。対戦相手の事を気にする前に、まずは自分達の状態を最良に保つ事が必要である。そうすれば何も心配する事はなく、気楽に試合を楽しめるのだ。そしてきっと、最良の結果を得る事ができる。


 今年は夏の魔物の牙が、弘高野球部に突き立てられる事は無い――根拠こそは無いが、俺はそう、確信していたのだった。

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