閑話 ずぶ濡れの女

 私はその日も、いつもの通りをゆっくりと流していた。


 私が個人タクシーの運転手の資格を得てからもう10年にもなる。収入は世間の好不況にも左右されるし、安定しているとは言い難い。だが、雇われのタクシードライバーよりも収入はいいし、今のように深夜時間帯に入る時間にお客を拾えば、いい稼ぎになる。

 それに何より、私はこの仕事が好きなのだ。色々なお客さんの中には問題のある人もいることもあるが、多様な人と出会い、会話を楽しむのは私の生きがいとも言える。

 もちろん、楽しい事ばかりではない。乱暴な客もいるし、強盗未遂に遭った事もある。


 そして、その日も。良い気分になれない客を、乗せてしまった日だった。


 ――手を挙げている。

 駅前へ向けて、ゆっくりと、いつもの通りを流していたところだった。

 この辺りは駅へ向かう人も歩いているため、ときおりこうしてタクシーを止めようとする客もいる。この人もそういう人なんだな、そう思って車を止め、ドアを開ける。


「……すみません。少し、濡れているのですが…よろしいでしょうか」

「…ええ、いいですよ。ビニールシートが足元にありますので使ってください」


 少し変だな。


 そう思った。今日は雨が一度も降っていないはずだったからだ。それとも、私の知らない間にゲリラ豪雨的なものでもあったのだろうか。


 ビニールシートを座席にかけて座ったその客は、全身ずぶ濡れだったからだ。

 夏ものの薄着を着た、少し背の高い、肉付きのいい、若い女。

 一見すると、そんな感想が出る。


 だが、そこまでだ。うつむき加減な上、長めの髪を顔の前に流しているため、顔はよく見えない。そして、胸元にかき抱く、何かの包み。黒っぽいビニール状の光沢があるが、もしかしたらあれは産着の防水カバーか何かで、抱いているのは赤ん坊だろうか?

 …だとすると、寝ているのか。泣き声も、むずかる声も聞こえてはこないが。


「…あの…『不朽苑』という温泉旅館…分かりますか」

「ああはい、分かりますよ」

 そこそこ古い温泉旅館だ。何度か客を送った事もある。


「ここからだと少し遠いので、ちょっとかかりますけど」

「――よろしくお願いします。向こうに知り合いがいますので、持ち合わせが足りない時は、知りあいに借りる事になりますが…かまいませんか…?」


 本音を言えば、あまり有り難くはないが。一度は乗せた若い女性を、放り出すわけにもいかない。私は「だいじょうぶですよ」と応え、車を発進させた。


 車を出してすぐ、私は女に話しかけた。タクシードライバーの常だ。

 しかし。女はまともな応対をしてこない。

「ええ」「まぁ」「はあ」など。ただの相槌とも取れるものばかり。

 出身地はどこなのか、どんな用事で出かけていたのか、などという質問には、「ちょっと…」などと言葉を濁して答えない。

 私は次第に話題にも詰まり、会話が無くなった。


 …そして、私は次第に、この若い女性客に不気味さを感じるようになった。


 なぜ、あんなところを歩いていたのか。

 もう深夜だ。若い女性が一人歩きする時間ではない。

 もちろん夜遊びする若者はいる。だが、それにしてはおかしい。

 遊び歩く派手な服装でもない。手荷物は、あの謎の包みだけ。

 あの包みは何か。普通の手荷物ではない。なぜバッグを持たないのか。

 もしかして赤ん坊か。では、なぜ少しも声が聞こえないのか。

 そもそも濡れているのは何故だ。雨など降ってはいなかった。


「……濡れているのが、きになりますか……?」


 心を読まれた?!


「…川に、落ちてしまって……」


 それはいったいどんな理由だ?!

 あの近辺の川?じゃあその抱えているモノはいったい何だ?

 ………犯罪的な理由しか想像できない。でなければ……

 バックミラー越しに、女性客の姿を覗き見る。と。


 前髪の奥から、覗きこむような、女性の、暗く鋭い眼と目が合った。

 ぞくりと。見てはならないものを見たような恐怖が全身を這う。

 冷や汗が背筋を伝う。…私は、もうバックミラーを見ることは無かった。


「…不朽苑です」

「………ありがとう、ございます」

 女性の手持ちは女性が予想した通り、乗車金額に足りなかった。女性は知り合いを呼んでくるのでそのまま待っていて欲しい、と言い残し、旅館の正面ドアを抜けていく。


「ずぶ濡れの紙幣か……」

 心なしか、手入れの悪い洗面台のような、かび臭い匂いがした。


【 ウアァァァ―――――ッ!!! 】

【 いぎゃああああ――――っ!! 】

【 ひぃあああ―――!!! 】


 旅館の中から、叫び声が聞こえた気がした。

 ここまで聞こえるとなれば、相当な叫び声。私は、逃げるか、このまま居残るのかを、必死に考える。犯罪にしても、この世のものではない何かにしても、逃げた方が正解なのではないかと、逃げる事を選択しようとした、その瞬間。時間切れとなった。

 旅館の正面ドアが開き、一人の痩せた男が歩いてきたからだ。

 男は私に近づくと、財布から紙幣を取り出し、私に差し出す。


「…タクシーの、料金です」

「あ、は、はい。ありがとう、ございます」

 私は震える手で、釣銭を数えて、男に手渡した。


「…あのう……何か、聞こえましたか……?」

 男が私に問いかける。覗きこむような、暗い視線。ここで選択肢を誤ればどうなるのか、想像するまでもなかった。


「い、いえ、なにも」

「……そう、ですか。それなら、よかった」

 私は、不自然でない程度に素早く車を出すと、その場から逃げだした。


 その夜はもう、バックミラーを見る事はなかった。バックミラーを覗いたが最後、降りたはずのあの女が、そこに座っているような気がしたからだ。

 その夜はもう家に帰り、酒を飲みながらぎりぎりまで起きて、夜が明けてから眠った。


 ―――あの女は、何者だったのか。いや、何だったのか。

 しかし、それは考えてはいけない事なのだと。

 思い出してはいけない事なのだと、自分に言い聞かせる。

 この仕事を長く続けていれば、こういう事もあるのだと。

 私は、テレビのスポーツニュースを見ながら、そう思ったのだった。


『――弘前高校の記録的な試合を、もういちど振り返ってみましょう』


 テレビでは高校野球のダイジェスト特集をやっていた。

 世は事も無し。一夜明ければ、平和なものだった。

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