起
目玉を探して歩く。しかし、こんなに歩くことが困難なことがあるだろうか。
この空間には繋がった地面というものがない。どれもこれもふわふわと浮かんでおり、その中の多くは俺が触れると避けて飛んでいく。大きく、かつ質量のあるものに降り立たないと、小さなものはどこまでも沈んでいってしまう。この調子だと、時間的にも手段としても、アマネがいた場所まで戻ることが出来るか不安だ。
なんとか歩き続けているうち、とあることに気がついた。浮かんでいるもののなかに、かすかに光っているものがある。いや、光ではない。赤い、陽炎のようなもやを纏ったものが、ところどころにある。
目玉を探すとはいったものの、なんの手がかりもない。俺は赤い浮遊物を集めてあるいた。
そのうち、俺は一軒の家にたどり着いた。どこにでもありそうな普通の一軒家だが、この家は他とは比にならないほど陽炎に包まれている。
どうにかして玄関前のポーチにたどり着く。周という表札がかけられていた。
ノブを捻る。扉はすんなり開いた。
「おじゃましまぁす…」
室内にはいる。人がいる気配はない。まぁ、アマネのオネイロスなのだから当然か。
暗い廊下がまっすぐ続いている。左手に扉が二つ。右手には階段がある。真正面には、薄暗くて見えにくいが、また一つ扉がある。
とりあえず、もっとも手前の扉を開いた。
リビングルームだ。テーブル。二人がけのソファ。薄型テレビ。包み込むような黄色い光。
一見ありふれた普通の部屋のようだが、なにかがおかしい。それはすぐに気がついた。
生活感がないのだ。だれかが住んでいて、どうしても出てしまう汚れや気配をがんばって消している…ように見せかけている。そう感じる。
テーブルの上に無造作を装った雑誌がおいてある。手芸のものだ。開いたページはタオルをもとにしたポーチやリストバンド、ペットボトルホルダーが紹介されていた。
壁際に背の低い本棚が設置されている。その上に、いくつかの写真立てがあった。家族写真だ。きちんとした写真館で撮られたものだろう。映っている四人には表情がなかった。その他にも入学式、卒業式、賞状を持った写真などがあるが、どの写真でも被写体の人物が表情をくずすことはない。ただ、一枚だけ、母親と少年が笑顔でピースをしているものがあった。少年は青いユニフォームに身を包み、赤いリストバンドをしている。口元がよく似ていた。
リビングを出る。廊下に踏み出した一歩が沈みこんだ。家の中まで崩れてきている。いよいよ時間はないのだろう。
他の部屋を覗いていく。ダイニングキッチン、風呂場にトイレ…。どこも綺麗に掃除されてる…風を装っている。この居心地の悪さはなんなのだろう。オネイロスは人の夢想だ。しかし、ここで暮らす人々はここが夢の中だと気がつかないという。実際、俺も全く気がつかなかった。アマネのオネイロスは崩壊しかけて他とは違うとはいえ、ここまで違和感があるとは思えない。つまり、この奇妙な家はアマネの現実の家のそのままなのではないだろうか。
階段を上がる。扉は三つあった。その中の一つから、かすかに赤い光が漏れている。なにも考えることなく、その扉を開けた。
部屋は全体的に青を基調としているが、赤い陽炎で充満しているせいで奇妙な色合いになっている。勉強机に青い掛け布団のベッド。サッカーボール、スパイク、先程見た青いユニフォームが壁にかかっている。隣にはサッカー選手のポスター。ずいぶん古いものだ。
勉強机のうえに、目玉はいた。瓶のなかには収まっておらず、赤い粘液が机上に垂れ流されている。粘液は糸を引きながら床にボタボタと落ちている、
「こうカ…」
赤い瞳が俺の姿をとらえた。
「よう…どうしてアマネのそばにいない?」
尋ねると、目玉は瞳をそらした。
「オレはジブンのイシでウゴけるワケじゃナイ。タマに、キがツくとココにイル」
「そうか…」
目玉はこいつ自身が言っていたように、このオネイロスで正体不明の存在だ。しかし、もしかしたらこいつは…。
「お前、アマネを助けてくれって言ったよな。あいつが死にそうだって、知ってたのか」
「あア。ナンドもチュウコクした。デもアイツはキカナかった」
目玉に表情はない。声のトーンもたいして変わらない。そもそも、目玉なんて体の一部にすぎない。感情なんてないのだ。
それでも、この赤い瞳の目玉からアマネを思う気持ちが痛いほど伝わってくる。
「アマネが心配なんだな」
「…オレはニンゲンじゃない。オレのモちヌシでアるニンゲンがモノをミるタメにアるだけだ。シンパイ…ココロなんてナイ。ダカラ、オレがアマネをシンパイしてイルようにミえるナラ、ソレは…」
目玉はそこまで言うと黙りこんだ。
俺は目玉を潰さないようにそっと持ち上げる。
「一緒に、アマネを救いにいこう。あいつには、お前が必要だ」
「…あア」
このまま手に持っていたら、握りつぶしてしまうかもしれない。俺は目玉をフードに放り込んだ。
崩れかかった家を出る。先程より浮遊物が減っている。代わりに、色が混ざりあって出来た暗闇がどこまでも続いて見える。
小さな欠片が遠くの闇に向かって飛んでいく。こうして、世界は終わるんだろうか。
「くそ、どうやって戻れば…」
「こう、ウシロ」
見ると、鉄道が近くを通り抜けようとしていた。最後尾にしがみつき、車内に入る。窓から周囲を見渡すが、アマネがいた場所がどこだかわからない。
「…なァ、こう」
「なんだ」
「もし、オレのコのカンジョウがアイだとしたら、オレのモちヌシは、どれダけあまねをアイしてイタんだろう」
「…俺にはわからないな」
鉄道はぐんぐんスピードを上げていく。ガラスの破片などのゴミがキラキラ輝きながら通りすぎていった。欠片は吸い込まれるようにどこかへ飛んでいく。
「…こう」
「…ん?」
「あまねを…秀一を、よろしくね」
その声は優しい女性のものに変わっていた。きっと、彼女はアマネが心配でずっと見守っていたのだろう。
「…任せてください」
答えると、フードの重みがフッとなくなった。
やがて、見覚えのある船を眼下に見つけた。なんとか鉄道から降り、船に近づく。アマネは別れたときのまま、足をぶらつかせていた。
「アマネ」
呼び掛けると、アマネがゆっくり振り向く。なんだかとても眠そうだ。まぶたは半分ほど降りてしまっている。
「こう…まだいたの」
「あとで来るって言っただろ」
アマネがゆっくり立ち上がる。俺はその真正面に立った。
「さぁ、早く帰りな。もう、ここは長くない…」
意識がもうろうとしているのか、声が聞き取りづらい。俺はもう一歩アマネに近づいた。
「なぁ、やっぱり起きる気はないのか」
「…こうも、諦めが悪いね…おれは、いいの。ここで…満足。いいことして…みんなに頼られて…起きたって、こんなに楽しいことはないよ…起きたって…抑揚のない毎日があるだけだ…。それなら、夢の中で、ずっとヒーローしてるほうが…ずっといい。おれは、そう思う。だから…おれは、起きたくない。こうがしようとしてることも、おれの助けにはならないよ」
アマネはまばたきをゆっくり、何度も繰り返しながら言った。しかし、その目はしっかり俺の方を向いている。アマネが言っていることを否定する気は俺にはない。それでも、言いたいことがあった。
「確かに、起きたって楽しいことは少ないよ。毎日、たんたんと流れていく。嬉しいことより嫌なことのほうがずっと多い。お前の言ってることは正しい…でも」
アマネを見据える。俺はフードに手を突っ込んだ。手に触れたものをアマネに差し出す。
そこには、赤いリストバンドがあった。
「これ…」
「ずっとお前のそばにいたやつだ」
「ギョロちゃん…?」
アマネの目がみるみる開いていく。かすかに震える両出でリストバンドを受け取った。
「こうやって、自分の想像を越える出来事が、現実ではある。これは、お前が夢のなかに引きこもってちゃ絶対にわからないことだ。誰かがお前を大切に思う気持ちは、お前の脳みそじゃはかれない」
アマネの目から雫がポロポロと落ちてきた。涙で濡れた目で俺を見る。
「…コウって、結構ロマンチストだね」
「うるさいなぁ」
照れ臭くなって視線をそらす。アマネがくすくすと笑った。
「あー…なんか、騙されてないかなぁ。これまで介入した人たちもみんなこんな気持ちだったのかな?」
「おい、騙してねぇから」
「ははは…でもさぁ、これはアフターケアが必要じゃない?」
「アフターケア?」
言うと、アマネは少し口を尖らせた。目を見合わせてくすくすと笑う。
世界が崩れ落ちてくる。隙間から見えるのはただの黒だ。
アマネに手を差し出す。アマネは俺の手を見つめ、握りしめたリストバンドを見た。
空が落ちてくる。頭上の鉄道が俺たちに触れる直前、アマネの手が軽く重なった。
「…い、おい。なぁ、聞こえてる?」
声が聞こえる。とても近くから。
「そろそろ起きろよ」
ゆっくり瞼を上げる。海の底のような深い黒と目があった。
「やぁっと起きた。おはよう、アマネ」
三日月型の目が遠退いていく。
「…おはよう」
かすれた声で言うと、男はにっこり笑った。
「ははは、ブサイク」
男はケラケラと笑った。以前からの知り合いのような距離感だ。
「…だれ?」
尋ねると、男は一瞬驚いたような表情をして、眉を下げた。そしてまた笑う。
「俺はコウ」
「…コウ」
コウはにこにこ笑いながらおれを見下ろしている。初対面だろうが、悪意がある人間には思えない。
起き上がる。しらない部屋だ。閉じたカーテンの向こうから光が透けて見える。朝のようだ。
コウを見る。彼は優しい表情をして俺を見ていた。
「…どうしてここに?」
尋ねると、コウはニッと笑った。
「決まってんだろ。アマネに会いに来たんだよ」
三千世界のカラスども はし @ksn8
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