修二会
つんたん
中編小説・修二会
「頼子、どうしても…」
「ええ、お別れね」
「最後にいいか」
「何かしら」
「今年の修二会、一緒に行ってくれないか」
「いいわよ」
彼女はいつも青い服を着ていた。最初に会った時、友人の結婚式で彼女は薄いブルーの色留袖を着ていた。隣には彼女の夫がいた。その夫はその結婚式の後、海外で行方不明になったという。彼女は嘆かなかった。冷たい女とは思いたくはなかった。今年の修二会で彼は帰国する。だからこそ彼女と見たかった。あの炎の行を。
修二会を意識したのはいつだったか解らない。日本の名前を持っていることに気付いてはいたけれど…彼は英国人のままでいた。外見は日系の血を思わせるものだったが。
「高階…ってどんな血筋になる…」
「それ、天武天皇の第一皇子、高市皇子の子孫になる、かな」
「古代日本史の本、あるかな」
「あるけど」
差し出された英文の本。
「長屋の王、ね」
「謀反起こして処刑…一族全員、生き残った子の子孫が高階氏」
「…そうか」
「吉備内親王の血もあるから高階氏は普通なら天皇家になってもおかしくはない」
「へ」
「それだけ高貴なんだよ、アブナイ血筋ではあるけど」
「知らなかった」
「何、それが」
「俺の日本の名前は高階朝陽って言うんだよ」
その言葉に日本人留学生は驚いていた。
「もっとも父は小さいころに亡くなって今の父は英国人そのものだけどね」
彼は母親の苗字を名乗っていた。東大寺の英語のリーフレットを彼は見ていた。
「声明って何」
「仏教のコーラスだよ、ユニゾンだけどね」
「ユニゾン…」
「あるよ、見てみるか」
コンサート形式のそれを動画サイトで見た。
「何…」
「観音菩薩に帰依し奉るという意味」
「そう…」
それがあってから彼は日本に留学してきた。奈良に住まいを移し、暮らしている。彼の留学の目的は美術品の修復技術だった。浮世絵などの紙の作品の修復は和紙がいいと言う。取り扱いについて彼は学んでいた。日本語を学ぶのは苦労した。文脈がつかめない、曖昧な表現が多すぎる、微妙な言い回しの差、男女差での語尾の変化、それに尊敬語と謙譲語。四苦八苦しながら学んだものだ。
「半分はこの国の血なのに…」
そうぼやいても日本語と接点がなかったのだから仕方ない。ルームメイトの学生はあるシンガーソングライターの歌をよく歌っていた。
「それ」
「さだまさしがどうかした」
言葉を妙に大事にし、メロディーラインは弦楽器奏者の癖がある。
「バイオリン、やっていたんだってさ」
「へえ…」
バイオリン、か。
「俺のじゃあかんから、これにしよ」
動画ソフトからライブ録画を彼は取り出した。
「何」
「修二会っていうの」
ハードなリズムだが、何かおかしい。
「四拍子、か」
「四泊目をぬかす四拍子、修二会の習わしそのままに作ったらしいよ」
普通のレコーディングのものも彼は聞かせてくれた。
「ストリングスか」
「ロンドン録音のね、そして、この独特の音は本物の五体投地の音に手を加えたものな」
「五体投地…」
彼は辞書を引く。
「あ、祈りの…か」
大地に身を投げ出して祈る東洋の祈り。カイラスのそれを彼は思い出す。動画サイトからルームメイトが修二会の五体投地を見出していた。
「痛くないのか」
「ないんだろーねー」
宗教って怖い…そう思った。
英国にいた頃、カンタベリーの大聖堂で彼は不思議な人物に話しかけられていた。
「トマス」
「確かにそうですが、人違いですよ」
「ビーチャムのトマス」
「そうだけど、俺はあなたを知らない」
その人はふわりと微笑むとそうか、と呟いた。彼は背を向けると歩き出そうとし、ふと振り向いた。白いマントのようなものをかぶった男の姿は消えていた。
「…寝ぼけたんだよな」
「そうかな」
男の声が聞こえた。その類はごめん被る、彼はそう思って溜息をついた。夕べ、カンタベリーの安宿で彼は意味不明の声をあげたと言われ、宿屋の主に嫌味を言われたばかりだった。たぶん、その類のものだろう。その声も、また。
「その手のことかな」
そう思う。意味不明の言葉が意味を持って彼に迫ってきていた。
「おのれ、藤原め、この恨み、覚えておれっ」
恨み、と言ったのだ、と気付いた。誰を恨んでいたのか、この自分は。
「フジワラ…あ、日本の権力者の…か」
フジワラを恨む魂は何人もいた。それが日本の黎明期の歴史だった。
「誰だ…いったい」
カンタベリーからまた歩き出す。日本留学の前に行ってみたいところがあった。
ウォリックの城は変わりなく建っていた。千年の歴史を誇る城。彼の先祖が城主だった時もあった城。ビーチャムの一族はこの城から離れていった者が生き延びた。それが彼の先祖でもあった。爵位もナイトの称号も彼には手に入るようなものではなかった。貴族の血筋にあっただけ、というものに過ぎなかった。それでも、彼はこのウォリックの城、セントメアリーの聖堂になぜか懐かしさを覚えていた。
「藤原め、この恨み…」
口をついて出た言葉。誰だ、とまた問いかける。誰が恨んで…と思ったところで、恨みつらみを言っているのは自分自身だと気付いた。その感情に寒気がした。怖い、と思う。セントメアリーの聖堂に入り、修復の後があるビーチャム一族の中でも勇猛果敢で知られた騎士の墓に目をやった。妻と手を取り合って眠っている。その時、気付いた、前はそんな埋葬は許されなかった、と。
「何だ、この感情は」
コノウラミ、オボエテオレ…。古代日本の衣装をまとった男が形相凄まじく脳裏に立っていた。
「あなた、どうかお静まりくださいませ…私がすべて…」
「言うな」
青い衣装の美しい女人が泣いていた。古代の髪型、美しい細工の簪。不思議な化粧を施した顔。
「皇位をいつ望んだ、それが何になる、父上もそう申されていた、何故信じぬ」
何故、信じない…。カンタベリーのあのマント姿の男が微笑む。
「私はお前を信じている」
その言葉のために、私はこの国に生まれなおしたのか、そう思った。そして、またあの国に行く。
「帰ってくるよな、トマス」
あの男が囁く。彼は頷かなかった。生まれなおしても、なお残る恨みの向こうに東洋の姫がいた。青いドレスを身にまとって。炎の行の中、彼女は名を決して明かさない。
そして彼は出会った。東洋の、あの姫に。
「吉川頼子と申します」
結婚式に招かれて座った席の隣に彼女はいた。薄青の色留袖を着ていた。胸に背中に袖の後ろ側に丸い模様がある着物。裾は幾何学模様だが、どこか花のようにも見えた。
「その丸い模様は」
「家紋ですわ。日本人は誰も持っています」
紋章は身分のある人間の証だが、この国の人間は誰もが持っているという。
「これは実家の家の紋章ですの」
「そうですか」
「カタバミの花です」
そう言えば、花に見える。
「聞いてもいいですか、では天皇家は」
「菊の御紋になります」
「菊…」
見たことがある、と思った。
「そういえば、ガーター騎士の中のたった一人の異教徒で西洋人でもない騎士がいるとご存じかしら」
「え」
世界でも古い歴史を持つ騎士団の中にそんな人物がいただろうか。
「天皇陛下ですわ」
「この国のエンペラーが…」
最古の王朝の帝であり、世界でただ一人皇帝の号を有し、なおかつ法王でもあるという人間。不思議な、宗教に生きる日本という国の皇帝。
「美しい御后ですね、この国の」
「あら」
「そうだ、友人が見せてくれた動画で危険な目に天皇が遭いそうになったとき、さっとかばったしぐさがとても立派で毅然していた…」
「美智子様はそういう御方ですもの」
ガーデニングに凝っていた隣人が植えていた薔薇は確かプリンセス・ミチコと言った。エンプレス・ミチコというのも植えていたな、と思い出す。プリンセス・ミチコの華やかさに隠れてはいたが、彼はエンプレス・ミチコと呼ばれる薔薇が好きだった。白に近いほど薄いピンクのつつましやかな薔薇だった。薄青の彼女の着物は列席者がほとんどがカクテルドレスだったためか、とても目立っていた。
「ずっと着物なのですか」
「ええ。母の形見などたくさんありますもの、着ないなんてもったいない…それに着物は仕立て直せば多少体格の差があっても大丈夫なんですよ」
「仕立て直す…」
「すべてほどいて一枚の布に戻してまた着物の形に出来るんです」
「すごい…」
「それに私、仕事で仕立てやっていましたの、結婚してやめてしまいましたが」
「そうですか、でもおひとりで」
「主人は海外に出張中なんです」
途中で入ってきた人がいた。初老の男だ。その男がこの席に近づいてきた。
「頼子」
「あ、あなた、お帰りなさいまし。エリカちゃんにご挨拶は」
「する雰囲気じゃないな、後にするよ、とりあえず、あの子のご両親には挨拶はしてきた。間に合ってよかった」
「海外出張中では」
彼はその頼子の夫という人に思い切って声をかけてみた。
「やっと一時帰国できたところですよ、たしか美術の修繕を学ぶために留学中の御方でしたね」
「ええ」
「エリカは確か…」
「同じ研究所ですよ、新郎もそうです」
「そうですか…英国の発音ですね」
「ああ、はい、英国人ですから」
「そうでしたか、てっきり」
「父は日本人でしたが、早く亡くなり、母と英国にいましたので」
「では、日本の名前も」
「ええ、持ってますが…」
彼はポケットにいつも入れてある名刺を取り出した。
「高階、ですか、朝陽さん」
「あの、意味はアサヒの、ほうですけれど」
「知らなかったのですか」
「はい」
「朝の太陽という意味ですよ」
「朝の…太陽、ですか」
そんな意味をずっと知らなかった。太陽。
「いい名前だと思いますわ」
頼子の言葉に彼は父母に感謝していた。両方とももういないけれど。
エリカという同僚は結婚後、不定期勤務になった。夫になった青年は隣の机におり、雁皮和紙を使って古文書の修理をしていた。和歌を書き散らした色紙はかなり痛んでいた。
「やってみますか」
「え」
「汚れは洗い落としましたから、この先は修繕ですけれどね…この修繕、学んでおかないとそちらの博物館にも古文書ありますでしょ」
「あー確かに」
「この和紙を使った修繕は洋紙にも使えます。薄く剥がせば、透明にも見えますし、裏打ちとしては便利ですよ」
「なるほど…」
「油絵の修理にも使えるテクニックですよ」
破損の激しいキャンパスなどの補強にもいいとその青年は言う。
「難しいですけどね、糊は劣化しない物を開発してあります。この糊の調合は博物館の管理棟の湿度や温度によって変わりますが」
「それは」
「経験です。日本のような湿度の多い土地柄とロンドンやほかの都市では変わりますよ」
「まだまだやることが多いようですね」
スタッフの中で英語を使えるのはこの青年くらいしかいない。彼が休みの場合はたどたどしいが日本語で会話するようにしていた。
「これは」
「木簡ですね、保管用の溶剤の中に入れたままにしてありますが」
「文字が」
「ええ、長屋親王…と」
その名前に彼は驚いていた。理由は解らない。ナガヤノシンノウ。それは…不思議な響きを持っていた。
「あの意味は」
「プリンス・ナガヤ。クラウンプリンスの意味もありますね」
「クラウン…」
「天皇候補という意味ですね」
「即位は」
「謀反人として処断されましたよ、この御方は」
謀反人、処断…ずきりと胸に突き刺さった。
「一族もろともに」
「女性も」
「彼の正妃を狙っての謀殺との説もあります」
「正妃…」
「彼女の母親も姉も弟も天皇になっています。父親は天武天皇・持統天皇の一人息子で皇位を約束されながら若くして亡くなった皇子ですし」
「いつの話」
「八世紀前半の話ですよ」
「それはずいぶん昔ですね」
「そうでもないと思いますよ」
奈良地方の歴史はもっと古いと言う。斑鳩の寺を創建した太子は七世紀前半に亡くなっていたというがその頃にはもう天皇の先祖が国を治めていたという。
「この国の王朝は世界一古いのか」
溜息とともにそう呟く。ナガヤという名前だけが奇妙に彼の心に引っかかっていた。
頼子が人妻であることは解っていた。なぜ一人の女性として意識したのか解らない。彼女と夫は不仲には見えなかった。いや東洋人は感情を露わにはしない。泣くことも怒ることもほとんど見せない。特に日本人という民族は極端に露わにはしなかった。不思議な微笑で煙に巻いてしまうのだ。最初それに慣れなくて戸惑ったが、段々慣れてきた。感情を露わにして波風を立てる事を彼らは好まないのだ、と理解した。
「不思議ね、あなたと会うとまるで少女にでもなったみたいよ」
頼子はそう言って頬を染めた。そして告げた。
「私の夫、どう思いまして」
「ご主人ですか」
「ええ」
「随分年齢が離れていますね」
「正確にはあの人は私の後見人なんです。私の持つ土地や財産を管理するためにいるような」
「後見人なら結婚する必要はないのでは」
「そうですね…実はあの人、愛人がいます」
「離婚は」
「考えたことありません」
「なぜ」
「結婚していた方が便利だからです」
意味が解らなかった。
「独身者は軽く見られます。ですから結婚しているんです。一緒に暮らす事も少ないですけど、悪い人ではないし」
「利用しているということですか」
「お互いに、です。政略結婚で回りが決めたことですし」
「否やはないと」
「言ってどうなります」
彼女の言葉が少し荒れた。
「私の財産を守るという約束です。他人に譲るつもりはありませんもの。あの人も結婚していた方が社会的にもいい待遇でいられますし」
「感情は」
「好きにすればいい、それが決まりです」
契約だ、と言うのか。
「あなたが私の愛人とみなされてもあの人は何も言いませんわ」
「しかし」
「あの人は愛人のところで暮らしていますのよ」
「解らないな」
「もしかしたら…離婚することはありえますけど…夫の事業が軌道に乗るまでは結婚しています」
「あなたの財産を使って、ですか」
「そうですね」
軌道に乗ったのはそんなに経たないうちだったらしく、頼子は完全に別居することにした。その彼女の住まいに彼は何度も通った。書道などのたしなみがある彼女から教わることがあった。書道を覚えることにしたのは、古文書の修繕上、必要だと感じたからだった。どうやって暮らしているのか不思議なほど彼女には生活感がなかった。契約結婚だと、政略だと言い切った癖に奇妙に彼女は夫に対して細やかに接していた。電話での受け答えがそうだった。
「いつまで留学を」
「ああ、三月末には帰ります」
「そうですか、なら」
別離を彼女はあっさりと口にした。男女の仲になっていたのに、あまりにもあっさりとしていた。そういえば、この女から愛の言葉を聞いたことがあったか、と思う。そして…愛の言葉を囁いた記憶があまりない自分にも彼は驚いてもいた。
「お水取りには…」
「行きましょうね」
にっこりと笑ってそう言った。必ず身に着ける青い物。今日はストールだった。
修二会。それがまさか月がかりの長い儀式とは彼は知らなかった。知らずに二月堂のそばに入ってしまっていた。
「ここは俗人は立ち入ってはなりません。即刻立ち去りなさい」
外に出された。彼のいた場所を僧侶たちが清めていた。俗世と聖域。それがくっきりとわかることだった。知らなかったでは済まないのか、と彼は思った。走りと韃靼の儀式、五体投地などしか彼は知らなかった。知らないことが多すぎた。自宅に戻ると彼は文献を開いてみた。
「七百五十二年っっっ」
西暦に直すとその年代だと言う。それが修二会の始まりの年だ、と。七人の王の時代、伝承が多すぎてよく解らない。が、この国にはしっかりと記録が残っている。
「あ、ナガヤはもう死んでいる…」
妃の吉備内親王も。東大寺創建を担った天皇、皇后…。
「しっかし、この国の皇族は…」
財産、血筋などを守るために近親結婚が多い。ごくまれに入る血筋も藤原氏か蘇我氏かいずれかだった。その中でも皇族同士、あるいはその有力豪族との婚姻によってなされた子に皇位継承権があると言う。草壁という皇子の正妃から生まれた子で皇位につかなかったのは吉備内親王だけだった。持統天皇の孫姫に生まれながら、彼女だけ身分が違っていた。それがナガヤの死と連動している気がしてならない。吉備内親王もまた、きっと青い衣装がよく似合う女だったのだろう、彼はそう思った。その時代の青の染料もまた高価だったのか、解らないが。
「そういえば、聖母の衣も青だったな」
理由は簡単だ、青い絵の具が高価だったからに過ぎない。ラピスラズリなどの宝石を砕いて作る絵の具だったからこそ聖母に用いられただけだ。本当のマリアが着ていた衣装など誰も知らない。大工とその妻が贅沢な染物の衣装なと身にまとうわけもない。彼はそれも知っている。
「高貴な青、か」
貴婦人なのだろうか、青衣の女人は。宮中の貴婦人。
「吉備内親王もそうだな。身分から言っても貴婦人中の貴婦人だ」
その貴婦人と彼は何か関わっている、そう思えてならなかった。
その修二会の頃、頼子は着物を持ってきた。
「どうしたの、これ」
「あなたの、です」
濃紺のウール地で作られたアンサンブルだった。何枚か持ってきていた。包を開けるとそれは茶系統の大島紬、また別の包にはモスグリーンのお召しが入っていた。
「こんなにたくさん…」
「父と弟の形見です、反物で残っていたので仕立ててきました」
夏物の小千谷縮もあった。付随する長じゅばんも。
「足袋と雪駄や草履は…その足のサイズが解らなくて」
「それはこちらで」
「慣れない場合はブーツでもいいかと思います」
コートもあるらしい。
「修二会には寒いかもしれませんが、これを着てくださるとうれしい」
「あ…それはどうも」
着物は男物は簡単に着られたが、胴に何かまかないと帯が落ち着かなかった。修二会は混雑が見込まれたため、彼はブーツで行くことにした。歩きにくい草履などでは迷惑にしかならないだろう。名残雪がちらつく中、彼はストールを巻き付け、東大寺の境内を頼子と歩いた。彼女はまた青系統の着物を着ていた。
そして…当日。彼は頼子を見失った。そして、そのまま二月堂の堂内にいた。声明と走りと五体投地と…そして「青衣の女人」
「頼子」
青衣の女人との唱え文句が耳に聞こえたとき、彼は見ていた。彼女の姿が見えた。青い古代の衣を着ていた。髪を結い上げ、独自の化粧をし、手には団扇と思えるものを持ち、両腕には薄絹が長く絡みついていた。青い衣装の女。
「わが背」
その言葉の意味を彼は聞き取れなかった。
「吉備をお忘れになりましたの、長屋の君」
そう言って微笑んでいる。誘うように彼女は歩き出していた。彼はその誘いを受けて、不思議な空間へと歩み出していた。
「この恨み…覚えておれ、藤原めが」
燃え盛る館の中、彼はそう唱えていた。ぶら下がった女の死体を彼は見ていた。
「吉備…待っておれ、我も今逝く」
その後、彼がしたことは…自害だった。
「しっかりなされ」
老人に声をかけられ、彼は目を見開いた。二月堂の中だった。手にはあの椿があった。
「頼子」
慌てて堂から降りて人混みの中にいるであろう女を探した。いつもの青い着物は見当たらなかった。
「頼子」
彼女の姿は消え失せていた。炎が迫っていた。蛇のようにうねり、そして燃えて松明が走り去っていく。松明で水を清め、春を呼ぶ。雪のように降りそそぐ火の粉。ざわめきと祈りの声。青い衣の女は消えていた。彼は良弁椿の造花を握りしめ、立ち尽くしていた。
英国に帰ると日本でのことは幻のように思われた。椿を片手に彼はカンタベリーに向かっていた。ベケット廟の前の墓標。柵越しに彼は椿を差し出した。
「いらぬ。幸運は生きとし生ける者にこそふさわしい」
「ですが」
「祈りは聞いておくものだ、トマス」
「承知いたしました、殿下」
「私はとうに受け取っている」
マントを着たその人物の手には良弁椿があった。
「どなたからの…」
聞いた時にはその人はいなかった。
「本気か」
「本気だよ」
友人たちが驚く。
「日本に帰化する」
良弁椿を手に彼はそう告げていた。
「私を置いて行くのか」
幻の声がした。
「どうかしたか」
「なんでもないよ、父方の名前になるだけだ」
「そんなもんか…」
「たいしたことじゃない…」
出生証明書の存在だけで彼には国籍を変えることは簡単だった。父親が日本人なのだから。顔も声も覚えてはいなかったが。荷物をまとめ、英国での財産すべてを始末すると彼は日本に向かった。そして奈良に住まいを求めた。パスポートも変わった。高階朝陽の名前も書きなれてきた。英国に行くことは稀になった。彼は何度か頼子を見た気がしたが、いつも完全にとらえきれずにいた。御霊神社でも頼子を見た気がした。おいかけるとそこは人が入れるような場所ではなく、着物姿の女がいる場所でもなかった。
「祭神・吉備の姫の尊…」
吉備内親王ではないかと言われる姫神。
「吉備内親王…」
ナガヤノシンノウ。その名を思い返し、彼は文献をあさった。
「自害…冤罪…」
そうあった。
「処刑されて皇位につけなかった皇子と病に倒れて王位につけなかった私…」
「もう私は帰りませんよ」
「私は信じている」
「信じている、とは」
「それだけだ…」
青い衣の女。それを彼は追いかける。吉備の姫神を。それを知っていてこの人は微笑む。
「アレは我妻…」
「それでよい」
マント姿の騎士は消えていた。
偶然、ロンドンで頼子の夫だった男と出会った。だった、という過去形。離婚を知らされたが、その男は原因は彼にあるとは言わなかった。
「消息不明だと」
「ああ、交通事故にあいましてね、入院していたのですが、家にいた者は英語が話せないので、連絡がおかしくなってしまっただけですよ」
「そうでしたか」
「日本人になったそうですね」
「ええ」
「帰国します、明日の便で」
「明日…僕もです」
「同じ飛行機かもしれませんね」
が、頼子の夫はビジネスクラスで、彼はエコノミーだったためか、機内で会うとはなく、空港の喫茶室で頼子の事を聞いてみた。
「あれなら…海外にいますよ、何せ気分やなので英国なのかフランスなのかわかりませんが」
「そうですか」
「そういえば、手紙預かってました」
開封した頼子の夫だった男は苦笑していた。
「英国、か」
彼は皮肉に笑いたくなっていた。
「英国でシングルマザーだそうですよ、誰の子か誰にも言わないのです」
「どこに」
「さあ、どこにいるのか、古い知り合いは誰も知らないのですよ」
「そうですか」
「高階さん」
「はい」
「頼子は幸せな女ですね」
その言葉の意味を彼はつかめなかった。
「昔から幸せな女だと思っていました」
その男は穏やかに微笑んでいた。彼は頼子の子供が自分の子であることは間違いなくとも、行動を起こすことは出来なかった。連絡手段が一切なかったのだ。
「ひどい女だ」
「青い衣の女…ああ、そうだ、お水取りの…」
「青いドレスの貴婦人の事ですか」
「それのようにも見えますね」
頼子の夫だった男は静かに立ち去って行った。彼は庭で頼子とかわした手紙を燃やした。良弁椿にも手をかけたが、やめた。幸運の花と聞いた。素朴な造花だ。かすかに焚かれた香が漂っていた。二月堂の熱気が、五体投地の音が幻となって彼を取り巻く。燃える松明。穢れを滅する炎。恨みはもうない。ないはずなのに、彼はナガヤの名前にとらわれていた。それはおそらく一生続くとらわれ方だった。
あの松明の炎でさえ、彼の宿業は焼いて清めることは出来そうもなかったのだ、ナガヤの時から。
終
修二会 つんたん @tsuntan2
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