人間の消失
@hidaryu
全てを失った男
6月の小雨が降る夜、クリスはたった1つのスキャンダルで全てを失った。
13年間、無垢な働き蟻の様にせっせと積み重ねてきた実績。そして7年間言い争いも無くムーミン谷さながら平和に暮らしてきた家は、まるで小川の水泡の如く儚く消えていった。「悪いのは俺だ。」と、頭ではわかってはいるものの溢れ出る憎悪と後悔の感情を抑えることは出来きずにいた。
クリストファー・マッカートニー、彼の事を知らないニューヨーカーはきっとモグリと言われるに違いない。クリスは若くして地位と名声を手にした男であった。22歳で小説家として文壇に登場し、デビュー作「空の声を聞け」は、若者達の間で流行しベストセラーになった。続く二作目、三作目は鳴かず飛ばずではあったが、ヨーロッパの人狼伝説をベースに書き上げた四作目「狼の消滅」は再び大ヒット。特定の人間「呪われしもの」が噛まれると人狼に変化してしまうという設定ーーー被害者から加害者にはいとも簡単になれてしまうといったインターネット社会への鋭い風刺は人々の心を強く打った。後に映画化し、監督、俳優陣、そして宣伝にも恵まれアカデミー賞にて作品賞など4部門を獲得。劇中のセリフ「お前さんは人狼を知っとるかい?」は、時の流行語にもなった。
クリスの活躍は執筆だけに留まらない。「狼の消失」のヒット後はテレビ番組にも精力的に出演し、活動の場を広げていった。彼が特に好んだのは討論番組であった。戦闘スタイルはいつも決まっており、まず相手に言いたいことを全て言わせ、その間反論もせずにただ黙って聞いているだけである。相手の銃撃の雨が止むと猫科の大型獣のようにさっと身を翻し相手の論弁の急所を的確に噛み付いた。彼は最低限の数少ない言葉で敵をバッサバッサと打ち負かす。クリスの弁論術の巧みさは学者や弁護士も舌を巻くレベルであり、結局番組内でこの美しい肉食獣を言い負かした者はとうとう現れなかった。知識階級の中年・壮年をエレガントかつインテリジェントに叩き伏せる姿は若年層に熱狂的な迎合を受け、彼のトレードマークであった黒のシルクハットはアメリカのティーン・エイジャーの間でお洒落なファションアイテムの一つとして認知されることになった。
25歳の時、「狼の消失」のヒロイン役を演じたメアリー・パーカーと恋に落ち、3年の交際の後に結婚。2人の子宝に恵まれ、生活も順風満帆。社会的な成功と良妻賢母の妻、そして天使の様な子ども達、絶頂期のクリスは誰もが羨むアメリカの若きスターであっただろう。
一見、誰もが羨む出世街道を突き進むクリスにもマリアナ海溝にも劣らない深刻な苦悩があった。それはスランプである。創作活動は金の鉱脈を掘る行為によく似ている。クリスは生まれながらの才能があり、地面を少し掘るだけでも万人をアッと言わせるだけのストーリーやメタファーがこんこんと湧いてきた。が、全ての事象は有限である。クリスの持っていたものは徐々に失われ、いつしか掘っても掘っても凡庸なアイデアしか発掘出来なくなっていた。掘り進める程硬くなる岩盤、なのに出てくるものはどこにでもあるような粗悪品。ここで踏ん張り切れればまた違ったのだろうが、順風満帆な人生を送ってきた彼には、そのスランプを耐え切るだけの力が備わっていなかった。
2019年6月、35歳のクリストファー・マッカートニーは、ヘロインの所持及び使用により逮捕された。
多額の保釈金を積み、刑務所行きを回避したクリスに蝿のように集るマスコミはあれど、愛すべき家族は最早その帰りを待っていなかった。妻メアリーとは離婚、子ども達の親権は母親のものとなっていた。マスコミすらも次の死肉の臭いを嗅ぎつけると蜘蛛の子を散らすように誰も居なくなった。幼少期に事故で両親と死別し、兄弟もいないクリスはこの時、天涯孤独となったのだ。
一人ぼっちになったクリスはその喪失感をあるイメージとして提示するとことが出来た。
①とある山奥に存在する初夏の高原の花畑。そこには黄色や白の高山植物が咲き乱れており、後ろにはどっしりとした山々の姿を見ることが出来る。
②それが突然真っ白な霧に覆われた。前方に手を伸ばすとその形すら視認出来ない。それくらい濃く深い霧。
未来が見えないこと、そして家族を失った孤独感にクリスは苦悩し、恐怖した。クリスは心の不安を埋めるため、かの杜子春のごとく豪遊した。その結果、手持ちの資産も半年と経たずに底をつき、それと同時に彼に集まっていた知人らも1人、また1人と徐々に消えていく。事件発覚から1年も経った頃にはホームレスの様な無精髭が生え、ミイラに負けないくらい痩せ細った中年男の事を、誰もかつての新鋭作家クリストファー・マッカートニーだと気付く者はいなくなってしまった。
「ねえ、おじさん。あのシルクハットのクリスでしょ?」
スキャンダルから年が明けた7月の蒸し熱い夜、クリスがなけなしの金を持ってBARのカウンターで飲んでいると一人の若い女が話しかけてきた。クリスが彼女に対して真っ先に抱いた印象は「黒」であった。癖のない真っ直ぐな黒髪に夜の闇を思わせる黒い瞳と濃いアイシャドー、首には瞳と同じくらい真っ黒なチョーカーを着けており、服装はこれまた同じくらい漆黒のワンピースであった。黒ばかりを身に纏うのはいささか気味が悪かったが、顔立ちそのものはかなり美しい部類だったし、体型もファッションモデルの様にスラリとしていた。
最初、特異な服装に気味の悪さを感じたクリスは聞こえなかったフリをして無視しようとしたが、女はしつこく声を掛けてきたのでとうとう観念した。
「ああ、そうとも。かつてイカレ爺さんどもをテレビでスーパーマンみたくバッサバッサとぶっ倒しまわった薬中小説家クリスとは俺のことだよ。」
それは声にならない声だった。ちゃんと相手に聞こえていたのかさえ怪しい。長いこと人と話さないと口の筋肉が衰えて思うように喋れなくなるというのは本当だったんだな、とその時クリスは思った。
「なら良かった。私はミカ、あんたの小説の大ファンなんだ。1人酒なら一緒に飲まないかい?」
少し考えた後、クリスはこの真っ黒な女と一緒に飲むことにした。ミカと名乗るこの女が若くて美人であったというのもあるが、それ以上に自分の小説のファンと言ってくれたことが素直に嬉しかったし、彼自身誰かと喋りたかったというのもあった。どうせ話すのなら自分の作品を評価してくれる人間の方がありがたい。
クリスはウイスキーのオンザロックを、ミカはビールとツマミ代わりのパスタを食べながら、彼の小説についてや好きな音楽や映画、応援する野球チーム(どちらもニューヨーク・ヤンキースのファンだった)などについて談笑した。ミカの話はユーモアとウィットに富んでおり、感嘆させられる場面ばかりであった。また、彼女は聞き手としても極めて優秀で、クリスのトークに対するリアクションは常に適正であった。会話という行為から長いこと離れていたクリスもかつて討論番組で老人らを叩きのめしたいた頃の様にスラスラと喋ることが出来た。話が終盤に差し掛かった頃、ミカがボソリと言った。
「ねえクリス。もっと話したいからさぁ、良ければ私の家で飲み直さない?」
一瞬、別れたメアリーの事が頭に過ぎったが、クリスはミカの誘いに乗っかった。単純に目の前の黒い美女ともっと話してみたかったし、心に去来するこの孤独感を埋めたかったというのも理由にあった。「メアリーと俺はもう関係無いんだ。」、己に向けてスポンジに水を染み込ませる様に何度となく言い聞かせた後、クリスはミカとBARを出た。
二人が出会ったバーから歩いて15分程度の距離にある4階建てで赤レンガ造りのマンション。その1階の一室がミカの住処であった。家に着いてからの彼女はかなりリラックスした様にクリスには見えた。(最も初めから緊張感の欠片など毛頭も見えなかったのだが。)居間は広く、黒い木製テーブルと3人掛け出来そうな黒の布製ソファー、ソファーの反対側には黒色のデッキがあり、その上には80インチはあろう大型TVが設置されている。テレビを正面に見て左後ろには黒縁の大きな鏡が壁に取付かれている。部屋を眺めながらクリスは「家まで真っ黒なんだな。」と、思わず関心してしまった。ミカはソファーの右端に腰掛け、缶のビールを片手にテレビを点け、音楽番組のチャンネルに合わせた。番組ではMaroon 5の「Sunday Morning」のサビの部分が流れている。クリスはミカとの間に一人分開ける形でソファーの左端に座り、手渡されたバドワイザーのプルタブを開けた。
自宅でのミカの話は、主に自分の過去であった。幼い頃から小説が好きで本の虫であること。大学院を出た後に商社の企画部門で働いていること。中流階級の家庭に生まれ、家族は自分を残して全員死去していること。自分と同じ様な黒髪の弟がいた事・・・
「ああ、明るく振る舞うこの女もまた孤独なんだな・・・」
ビールをちびちびと飲みながら、クリスは思った。「一人ぼっちな奴は俺だけじゃないんだな。」と、思えると少しだけ気分が軽くなれた。
チャンネルを音楽番組に合わせて10曲目、ダニエル・パウダーの「Bad Day」のイントロが始まった頃、ミカはクリスの太腿を足で挟み向かい合わせの形で座ってきた。無精髭だらけのクリスの頬を両手で抑えると静かに口づけを交わす。挨拶代わりのフレンチキスが終わった後、そのままミカの顔はクリスの首元に移動する。こんな事するのは何ヶ月ぶりなんだろうか?クリスはそれを思い出そうとしたその時、首元のミカが話しかけてきた。
「ねぇクリス、なんで私が黒い服ばっかり身に纏ってると思う?」
「さあな?ミカが好きだからじゃないのか?」
「もちろん私が好きってのもあるんだけどさ・・・それ以上に・・・」
クリスが首元に鋭い痛いを感じたのはその時だった。直後にミカは言う。
「獲物の返り血を浴びても目立たないからさ。」
首筋を噛まれている・・・見えなくてもそれはよくわかった。ミカの顔が勢いよく首元から離れたと同時に、クリスが今まで見たこともない量の血潮が吹き出した。ミカの身体を突き飛ばそうとするも両手とも軽くいなされ、そのままソファーの後ろの壁に押さえつけられた。その力は女・・・いや、もはや人間のものでは無い。怪物じみた力を持つ美女に襲われる情けない中年。なんてこった、まるで自分の書いた「狼の消滅」のワンシーンそのものじゃないか。
「ま、待て・・・殺さ、ないで・・・金・・・な、らある・・・」
か細い声でクリスは懇願した。実際のところ、金銭の類なんて持っていないに等しかった。でもそう言うしか無かった。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
こんなところで訳のわからない女に殺させるのは真っ平御免だ。掻き切られた喉からは、呼吸をする度にヒューヒューと空気が漏れる音がする。ドクドクと流れる血流は留まることを知らない。致死量分流れるのもそう時間は掛からないだろう。両手の自由を奪われ、足は太腿で抑えられ満足に身体を動かせないクリスを見下ろす形でミカは言った。
「金?いや、要らないよ。私は金で買えないものがアンタから欲しいんだからさ」
そう言った後、ミカは思春期のあどけない少女の顔になった。ニコリと笑うと殺人的に尖った犬歯がクリスの目に映る。黒かった瞳はルビーを思わせる真っ赤な色に変貌していた。クリスはその赤い瞳を美しいと思わずにはいられなかった。自分がこの女に殺されそうになっているにも関わらず・・・
「もう良いかな、ここで死んでも・・・」
薄れゆく意識の中でクリスはそう考えた。どうせ俺を待ってる人間なんてもう居ないし、ここで俺が消えた所で世の中にどんな変化があるのだろうか?ミカが押さえ付けていた両手首を開放すると、クリスの身体は糸の切られた操り人形の様にへにゃりとソファに倒れ込んだ。死を実感した時、不思議と首元の痛みは無くなっていた。視界がボヤける。
「メアリーと子ども達は元気なのだろうか・・・馬鹿な父親ですまな・・・」
クリスが再び目を覚ますとソファーの上で目覚めるとミカに膝枕されていた。右手で首元を触ると先程噛まれたハズの傷は塞がっている。先程のは飲みすぎた結果見た悪い夢だったのだろうか・・・。身体を持ち上げ、テレビの横に付いた鏡の前まで移動する。鏡で自分の顔を確認するとその瞳はルビーを思わせる真紅に染まっている。恐る恐る口を開くと人を切り裂くことが容易であろう立派な牙が備わっているではないか・・・。クリスの脳裏は「狼の消失」に書かれたテーマの一つ、「呪われしもの」の事が頭に過ぎった。
被害者から加害者にはいとも簡単になれる。
呆然と立ち尽くすクリスに後ろからミカが母親の様な優しいハグをして、まるで恋人みたく優しく語りかける。
「おはようクリス、ようこそ人狼の世界へ」
【お題のキーワード】
・美人局→ミカがクリスを捕食目的で家に招いたこと
・パスタ→BARでのミカのおつまみ
・擬人化→人狼伝説
・小説家→クリスの職業
・ワンピース→ミカの服装
人間の消失 @hidaryu
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