第37話 少年、術式と困難
「浮かべ!」
フラットの四階に移動して、僕は紙一枚と睨めっこしている。
正確には、質素なテーブルの上に「浮け」と書いた紙一枚。僕とエヴァン師がそれを挟むように、向かい合って座っている。
「浮かべ!」
紙はびくともしない。
「オスカー」
師が僕を右手で制す。口を閉じると降ろした。義手の動く音が静かに鳴った。
頬が熱い。
アメジストの瞳が紙へと動く。
恥ずかしい気持ちと落胆。
ヒューゴの一件以来、僕はずっとこうだ。あの時、僕が万年筆で書いた文字がヒューゴを拘束した。あれは完全に死神の持つ術式の一部なのだと、師が言った。
僕には筆跡術式の才能がある。退院してすぐに告げられた言葉にとても興奮した。けれども今はどうだろうか。全く反応しないラテン文字。せめて紙がほんの少し浮いてくれたら良かったのに。
集中して書く。まずはこれを基本にしなくてはいけない。
一文字でも間違えたらアウトだ。術式は発動しない。
改めてテーブルの上の紙を見る。綴りに間違いはない。
ならどうして。
思わずため息をして眉間を揉む。集中して書く、を繰り返し行うことは精神的にも体力的にも辛い。しかもなんの成果もないのだから。
「ふむん」
師は黒革の手袋の指を顎に擦って思案に耽る。
「君はまだ死んでいない」
死神の宣告に顔を上げる。
「だから死神ではないから、術式は発動しない」
「で、でも、この前の僕は、発動させたんですよね?」
「そうだ。おそらく、死にかけたことで発動したんだろう。君の魂の存在する境界線が曖昧になったんだ。白か黒かはっきりしない灰色にね」
師は立ち上がり、部屋の隅に置かれたオブスキュラのスイッチを押した。シャッター音がして途端に外からの騒音が耳に入ってくる。
ベンジャミン氏の写真術式のおかげで、僕は色んな講義に大いに驚くことができる。この前、師の音楽術式で溺れかけた時だって、音は漏れることなどなかった。
オブスキュラに師が触れるのは、講義の終わりの合図だ。
「今日はゆっくりしたまえ、オスカー。ラテン語翻訳と教本の課題はしなくてよろしい」
「えっ」
「明日、遠出する。一泊ぐらいはするからそのつもりでいてくれ」
突然の旅行に目を丸める。
どこに、どうやって、など全く言わずに師は部屋を出て行った。無責任にもほどがある。
テーブルを片付け、大慌てで遠出の準備をする。とりあえず必要なものとラテン語の本を詰め、僕は課題から解放された今日を満喫しようと決めた。
甘い甘いチョコレートを頬張り、ホットミルクで流し込む。
それからアーネストの柔らかな毛並みをブラッシング。──その前にお風呂だ。お風呂を嫌がるアーネストを無理矢理押し込んで綺麗にする。よほどのことがない限り吠えないから室内飼いを許されているとはいえ、清潔にしないわけにはいかないのだ。お風呂とブラッシングが終わるとアーネストは疲れたようにベランダ近くの大窓の前で不貞寝をはじめた。
僕は満足げに頷いて部屋に戻る。
遠出といっても、どこに行くのだろう。
休日を堪能し終えた僕はベッドに身を委ねた。
朝が僕の日常に顔を出す。シャワーを浴びに出るとすでにエヴァン師は起きており、優雅にミルクティーを飲んでいた。
「おはよう」
左手には新聞が。羅列している言語はやはりラテン語だ。死神たちの新聞なのだと、朝食の準備をしていたベンジャミン氏が教えてくれた。これで天使や悪魔、魔術師たちの行動を共有しているらしい。
「フランスで調香魔術師が死んだらしい」
とうとうか、と師が無表情に息を吐いて新聞を置いた。
「調香魔術師?」気になってシャワー室へ向かう足が止まる。
「匂いで対象の嗅覚を刺激し、それを媒介に干渉する術式を身につけた魔術師だ。元はエジプトで生まれたが、後にフランスで完成した魔術で、この術を調香術式と呼ぶ」
三角形に切ったトーストに苦いマーマレードを塗って食べながら師が言う。
調香と聞いて真っ先に思いつくのは香水だ。母も父もよく使っていた。大家であるマーサ夫人はベルガモットを好む。レイモンド氏も香水を嗜む。
レイチェル嬢はどんな香りだったろう。
フラットの住人の香水について思いを馳せていると、エヴァン師がデーブルに指をトントンと鳴らす。
「シャワーを浴びてから朝食にしなさい」
僕は慌ててシャワーを浴びに行った。
朝食にはベンジャミン氏とシャーロット嬢が新たに参加していた。
甘いベリージャムをこれでもかとトーストにのせて齧り付くシャーロット嬢。横では師が真っ青な顔でそれを見ている。ベンジャミン氏は二人の様子に目もくれないでトーストを堪能していた。
「ベネトナシュが死んだのは大きいわ」
行儀悪くジャムのついたスプーンを舐め、シャーロット嬢が明るく言った。
「
シャーロット嬢の向かいに座る。
「さっき死んだっていう魔術師よ」
トーストの甘い方のマーマ・レードを塗り、かじる。
「だが安堵はしてられない」
「どうしてです?」
紅茶でなんとか気を持ち直したエヴァン師が僕を見る。
シャーロット嬢の様子を見るに、ベネトナシュという魔術師は死神たちと敵対していたのだろう。
「奴は殺されたんだ」
「殺された……? 誰にですか?」
「エヴァン、大事な部分を端折り過ぎだよ。──彼女は寿命で死んだ訳じゃないだ。しかも我々死神の手ではなく、魔術師の誰かに、魂ごと消されたんだ」
「魂ごとって、ヒューゴの時みたいに?」
ヒューゴの最期を僕は思い出す。彼の魂は砕かれてしまった。エヴァン師たちが言うことが本当なら、彼にはしかるべき処置があったはずだ。
彼を殺したのは誉高き
現在その騎士は片手で数えられるぐらいしか存在しない。
女帝の息子バーティ皇太子殿下。
軍医の騎士マーガレット・アン・バックリー。
看護の騎士フローレンス・ナイチンゲール。
公ではこの三名しか顔を出さない。あと二名いるけれど名前も顔も発表されていない、今も。
エヴァン師たちはその二人のことを知っているらしい。僕には一切話さない。そこが少し寂しい。ううん、実は言うとかなり寂しい。
僕だって未熟だけど、少しは役に立てていると思っていた。
師が言うヨアンと言う魔術師のことも、モーリス氏のことも、深く話さないことに苛立ちを覚えている。
僕の燻った苛立ちを知らないエヴァン師たちは話を続ける。
「それについて何かしら機関でも動いているはずだ。昨日アーネストが受け取った」
テーブルの上に一枚の手紙が静かにおかれる。僕もベンジャミン氏もシャーロット嬢も覗き込んだ。真っ白な封筒に真っ黒な交差する二枚の葉がデザインの封蝋が施されていた。差出人は書いてあっても、宛先や住所は全く書いてない。
「この封蝋……統括の
シャーロット嬢が封筒を奪うように手に取ってエヴァン師を見た。彼は一切表情を崩すこともなく深く頷いた。
「事態は深刻のようだ」
少年オスカーと死への旅路 本条凛子 @honzyo-1201
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