第36話 少年、自習と菓子

 僕はオスカー。オスカー・ビスマルク。

 現在、ピーナッツバタートーストを齧りながら師から承った課題に勤しんでいる。


 吸血鬼──切り裂き魔事件から数週間。帝都ロンドンはいつもの明るさを取り戻し、社交期シーズンの賑わいを取り戻しつつあった。


 過去の僕に、今に至るまでのことを話しても、信じてはくれないだろう。

 それもそうだ。


 自殺し、吸血鬼になってしまった少女ジゼル嬢。


 哀れな当事者にされてしまった画家、ウォルター氏。


 妻子の悲しい死によって魔術の虜となってしまった魔術師。



 でも一番強烈だったのは僕の師エヴァン・ブライアン。

 何せ彼の正体は死神だ。

 おそらくもとは、僕たちと同じ人間。

 魔術師ドラクル──ヒューゴの工房での一件以降、エヴァン師はどこか遠くを睨むことが多くなった。魔術師たちとの争いが過去にあったことを、彼から直接話してくれたことはない。


 モーリス・ガードナー。


 工房の油彩魔術で覗いてしまった過去の人物。優しそうな黒人の男性だった。彼はヨアンという魔術師に魂を奪われた。

 奪われたのは、モーリス氏だけじゃない。


 エヴァン師の右腕と右目。




「……」


 思考がこんがらがって手を止める。集中が途切れてしまった。

 万年筆を机の上に放置し、リビングへ。ほとんど売り払ってしまったので、リビングを彩るのは四人がけのテーブルと椅子、最低限の食器棚。それだけしか、ビスマルク家の残り香は遺せなかった。


「課題は済んだかな、オスカー」


 もともと僕の部屋だった、そこから、エヴァン師が顔を出す。漆黒の革手袋の右手には作りたてのマドレーヌ。貝殻の輪郭から甘くて香ばしい匂いが鼻に届く。


「いいえ。まだよく分からなくて……。そのマドレーヌ、レイチェルさんが焼いたものですよね?」

「そうだ」甘いものが滅したいほど嫌いだと言うエヴァン師が、マドレーヌを口に放り込む。「むぐ……彼女の作るものは素晴らしい! 砂糖を馬鹿の一つ覚えみたいに大量に入れて甘けりゃいいという奴とは大違いだ! しかもオレンジとレモンのピールを入れてあって食べやすいぞ」


 濃い隈をこさえたアメジストとルビーの瞳がうっとりと細くなる。……ルビー色の右目は確か義眼の筈なのだけど。時々感情を孕むのでドキッとする。


「僕のぶんってあります?」

「手を洗ってきたらあるとも」


 僕は急いで手を洗いに行った。

 エヴァン師がリビングで紅茶を入れて待ってくれている。意外と彼の入れる紅茶は美味しいのだ。


 彼と同居して分かったこと。


 師は生活態度があまりにも緩慢で怠慢に更ける。

 物に対しての執着が薄い──ただしテディベアは別のようで名前がついている。

 面倒な面倒くさがり屋で、風呂上り後裸で過ごすことが多々ある。

 僕と色の好みがほとんど合わない。


 最後の項目はとんでもないストレスだった。飴一粒、チョコレート一欠片さえ、目にした瞬間顔を顰めるので、母の形見の小物入れが菓子専用の収納に成り果てた。しかも僕の慣れない手料理に対してのダメ出しは容赦がない。味が濃い薄いはよく言われ、失敗したらドブから拾ってきたのかと散々酷評された。キューカンバーサンドイッチを二日に一食出さないと菓子を捨てるだの……。


 同居の破綻の危機に現れたのが、レイチェル嬢だった。たまたま料理を作りすぎた、と彼女が僕たちの部屋にやってきた。毎日の献立を思案するのに疲れていた僕は大喜びで受け入れたよ、だって美味しいんだ、彼女の料理は。

 幸運なことに、師の舌に、レイチェル嬢の料理は素晴らしく合っていたのだ!

 以来僕たちは彼女をシェフとして拝んでいる。勿論材料費などはエヴァン師が払っている。

 でもまさか、食べたときにあんなに師が泣くなんて……よっぽど僕の料理は不味かったのかな?


 さらに幸運なのは、救世主がレイチェル嬢だけではないということ。


「遊びに来たよ、オスカーくん!」


 ベランダから笑顔で部屋に侵入するベンジャミン氏。


「扉から入ってこれないのか、お前は」


 呆れた顔で師がベンジャミン氏を見る。ベランダからの侵入者の右手にはジョウロ──しかも可愛いピンク色──を持っていた。

 僕が退院した日に、ベンジャミン氏はこのフラットの四階に越してきた。

 曰く、死神機関からの要請で僕たちの近くで滞在することになった。シャーロット嬢も来たのだが、あまり顔を合わせることはない。よく寝ているらしい。

 それにしても四階にはまだ住人がいたはずなんだけど、どうやって入れたんだろう……。いや、まあ、前の住人は性格の悪いゴシップ記者だったから別に心配しなくてもいい。それにベンジャミン氏が来て良かったと思う。

 四階で僕は夜な夜な師の妖しい講義を独り占めできるからだ。


「仕方ないだろう? 紅茶の匂いがしたんだよ? 飲みたくなったんだ」

「ノン! これはベビーへ捧げるのさ」

「ベビー?」首を傾げる僕。

「ベランダの雑草たちだろう? レイチェル女史から貰ったっていう」

「ハーブというんだ、エヴァン。雑草と一緒にしちゃいけない」


 さり気なく、自然に、ベンジャミン氏は僕たちの食卓に混じった。

 さっきまで寝ていたアーネストも騒がしさに起きる。器用にキッチンの戸棚からオレンジを取り出した。普通の犬と違うということをアピールしているみたいで、僕に自信満々に笑うのが見えた。わかったよ、あとでたくさん撫でてあげるよ。


「また今日も講義をするんだろう?」

「勿論だ」


 二人の会話に僕は頬が熱くなるのを感じた。

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