断章3

 期末テストが終わって一週間が経った。終業式も済んだが、私立航わたり中学・高等学校は終業式の後も一週間程度、補講という名目で短縮授業があるため、夏休みの開始はもう少し後になる。

 終業式の日の夜、ありすは自室で机に向かっていた。頭を悩ませ選び抜いた便箋を前にして、ありすはペンを握ったまま、動きが止まっていた。

 一緒に夕日を見て以来、ありすのるいへの想いは日に日に膨らんでいった。そして、遂にありすは自分の中でその想いをうまく制御できなくなり始めたのだ。

 その解決策としてとったのが、「手紙を書いてみる」ということだった。別に、本人に渡すつもりはなかった。ただ、想いを文章にして書いてみることで、気持ちを整理しようとしただけだ。しかし、それなのに便箋を選び抜いてしまった自分に、ありすは苦笑した。

 いざ書いてみようとしても、どこから書き始めたらいいのか分からない。そもそも、書き出しはどうしようか。とりあえず、『類へ』とは書いた。まず好きになった経緯から書いてみるか、いやでもそれは恥ずかしい。そうやって思い悩み試行錯誤しながら、ありすが「手紙」を書き上げたのは、日付が変わる頃だった。

 親に見つかってしまったら恥ずかしいどころの騒ぎではない。そう思ってありすは、便箋と封筒が入っていた引き出しを開けた。そこには、イギリスの友達とやり取りしていた手紙が何通も入っている。木を隠すなら森の中、そう考えて、ありすは自分の「想い」をそっと他の手紙の間にしまい込んだ。

 

 翌日の放課後。ありすは小テストの追試を受けるために、校舎に少し長く留まっていた。

 追試を終わらせ、さあ図書館へ行こうと教室を出て、中央階段に差し掛かった時だ。

三石みついしさん」

 ありすが振り向くと、類に片想いをしているあの女子生徒が立っていた。思わずありすは一歩後ずさる。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」

 女子生徒の声は静かで、有無を言わせない迫力があった。それにのまれ、ありすは足に根が生えたようにその場から動けなくなる。

「なにかしら」

 喉の奥からしぼり出した声は、かすれていた。

「あなた、早島はやしま君のことどう思ってるの?」

「どうって、図書部の仲間として、大切に思っているわよ」

「それだけじゃないでしょう?」

 ありすは言葉に詰まった。ここで、自分の類への想いを認めてしまうのは良くないと、間が悪いと、本能的なものが叫んでいた。しかし、類への思いを否定したくないというのも本心だ。

 そんなありすの葛藤を見抜いているかのように、女子生徒は意地の悪い笑みを浮かべる。

「ねぇ、ほら、教えてちょうだい。あなたが早島君のこと、どう思っているのか。言わないと……私今日、早島君に告白するから」

 本気だ。そう気づいた瞬間、ありすは反射的に叫んでいた。

「好きよ!私、類のことが好き!あなたがどれだけ類のこと想ってるのかしらないけど、そんなので引くようなほど、私の想いは弱々しいものなんかじゃないわ!」

 ありすは肩で大きく息をした。負けてたまるか。そんな感情が芽生え始める。

 女子生徒は面食らっていた。挑発してやろうとちょっかいをかけた相手が、予想以上に反撃してきたからだろう。そして同時に、彼女は自分の不利を直感的に悟ったようだった。

「なんで……なんでよ」

 女子生徒の口から言葉が漏れる。

「あんたなんかが、早島君のこと、好きじゃなかったら良かったのに」

 それは、呪いだった。

 ありすは昨晩書いたばかりの手紙のことを思い出していた。引き出しの中に、大切に大切にしまい込んだ手紙。それが今、引きずり出されて、バラバラに引き裂かれたような、そんなイメージをしてしまうほど、その言葉は衝撃的だった。

 ありすの目の前が、暗くなる。手から、鞄が落ちる。

「どうしてそんなひどいこというの」

「どうしてって」

「私が類のこと好きで、何が悪いの」

「そんなの、もうわたしに勝ち目がないからに決まってるじゃない!」

「そんなのでっ、そんな理由で!私の気持ちを勝手に否定しないで!」

「うるさい!」

 激昂した女子生徒が手を振り上げる。バタバタと誰かが廊下を走ってくる音。手が勢いよく振り下ろされ、ありすの頬に痛みが走った。


 その日、類は部室でレビューを書こうとしていた。

「あ」

 筆記用具を持って来忘れた。カウンターを出て荷物置き場に行き、鞄の中を漁る。

「しまった、筆箱教室に忘れちゃった」

 近くにいたれいに一声かけて、図書館を出て校舎に向かう。類の教室は二階の東端にあるので、東階段を上っていった。

 机の中に入っていた筆箱を無事回収すると、類は教室を出た。その時、類の耳に、叫び声が飛び込んできた。

「この声……ありす?」

 音源は中央階段のようだ。反響して何を言っているのか聞き取れない。類は廊下を走ってはいけないということも忘れて、中央階段に向かってダッシュした。

 そこで類が目にしたのは、女子生徒の平手がありすの頬に命中したところだった。

「えっ……?」

 状況が飲み込めず、凍り付いてしまう。よろけたありすが一歩後ろに下がり、階段を踏み外し、落ちていく。

 金縛りにあったように、類には指先一つ動かすことさえできず、声も上げることができなかった。ただ、類の中の時間の感覚が狂ってしまったようだった。ありすが落ちていくのが、ほんの一瞬のようにも、まるで永遠に続くようにも思えた。最後に、ありすと目が合った、そんな気がした。踊り場にありすの体が落ちて止まった、その直後、類はやっと金縛りから解放された。

「ありす!」

 足から力が抜けて崩れ落ちる女子生徒には目もくれず、類は階段を駆け下りた。

「ありす、ありす」

 呼びかけても反応はない。目は虚ろに開かれ、口はわずかに開いたままだ。

 その表情のない人形めいた顔を見た瞬間、類の中に得体のしれない恐怖がせり上がってきた。

「あ、ひ」

 気が付くと、類は階段を駆け下りて、校舎を飛び出し、図書館に向かって走り出していた。保健の先生を呼ばないと、そう思っているのに、足は真逆の方へと類を連れていく。足がもつれ、類は地面に転がった。

「類!」

 誰かが類に駆け寄ってくる。零とその一つ上の先輩、和気鈴也わけすずやだった。

「あ、あ」

 うまく口が動かせない。零を呼ぼうとするのに、類の頭は真っ白になってしまって、零のことをいつも何と呼んでいたのか、それさえ分からなくなってしまった。

「類、どうしたの」

 零が類を抱きしめて、背中を優しくなでる。それで類は少し落ち着いた。しかし、未だに言葉がまとまらない。

「類がそんなに慌ててるってことは、もしかして、ありすのこと?」

 落ち着きのあるアルトが、耳にすんなりと届く。類はこくこくと頷いた。零と鈴也が、顔の色を変える。

「落ち着いて、何があったのか、教えて?」

 零が類と視線を合わせ、焦りを殺した声で類に問うてくる。

「ありすが、ありすが、うご、うごかなくて、おちて、め、ひらいたままで」

 頭の中がまだぐちゃぐちゃのまま、類は、必死で言葉を発する。二人は類の言いたいことを汲み取ったようだ。

「どこであったの?」

「かいだん、あの、まんなかの」

「さっき筆箱取りに戻ってたわね。ということは中央階段二階!」

「俺は先生を連れてそこに行ってくる。零、お前は類を見てやってくれ」

「はい」

 鈴也が校舎に向かって走り出した。

 類は零の腕をぎゅっと掴んでいた。体中の震えが止まらない。

 零は類の背中をずっと撫でていた。次第に、類の震えは治まり、落ち着きを取り戻し始めた。

 冷静になり、類は自分の行動を思い出し、愕然とした。

「ゼロ、僕、どうしよう」

「どうしたの?」

「僕、逃げちゃった。ありすを放って、逃げて来ちゃった。ありすのこと、好きなのに、ありすの顔が、怖くて、僕、気が付いたら体が勝手に動いてて……」

 ぼたぼたと、類の両目から涙がこぼれ落ちる。

「類、大丈夫、大丈夫だから」

 零がぎゅっと類を抱きしめる。零にしがみつきながら、類は想い人を放って逃げ出してしまった己の不甲斐なさと、何も出来ない未熟さと、動かないありすへの心配と刻みつけられた恐怖で滅茶苦茶なまま、ただ涙を流し続けていた。

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