第3章
復学して初めて図書部に顔を出してから、私は毎日のように図書館に通った。理由は二つ。一つは他の図書部員と顔を合わせるため。もう一つは、
人見知りな私にとっては珍しく、異性の中でも類は話しやすい相手だ。あの日、類が私を案内しながら図書館と図書部について語ってくれた時、私はその姿に、憧れのようなものを抱いた。自分の好きなものについて、本当に楽しそうに話す類。時間をおかず、類への憧れのようなものには、「あなたの話を聞きたい」「楽しそうなあなたの姿が見たい」「もっと話をしたい」といった思いが重なり始めた。
記憶を失う前の私と、類がどんな関係だったのか、私は知らない。でも、私に挨拶をした時、類の声は震えていた。私が類、と呼ぶと、口元が少し緩んだ。一体、私と類は、どんな関係だったのだろう。ただの同じ部の仲間、というわけではなさそうだ。
私は、彼にどんな感情を抱いていたのだろう。
それが分からない。思い出せない。もう一度やり直しているけれど、今の私は、昔の私とは当然違うのだろう。
類は、それを、どう思っているのだろう。
それを聞きたくて、でも聞いてしまえば類はすごく悲しそうな顔をするのではないか。そう思うと、聞くことはできなかった。
復学してから二週間近くが経った。私は相変わらず、レイと学校に通っている。
学校生活にも慣れてきた。一年生の時、共に昼ご飯を食べていた女子生徒たちは全員違うクラスだったけど、廊下で会えば、話しかけてくれた。
今日も私は図書館へ行く。レイや類以外の部員とも、少し仲良くなった。部室はなぜか様々な銘柄のコーヒーや紅茶が揃っている。どうやら、部員がそれぞれお気に入りを持ってくるようだ。そしてそれを本人以外も好きなように飲んでいる。私も正式に戻ったら、家からお気に入りのアールグレイの缶を持って来ようと思っている。
類は三階にいた。窓辺でぼんやりと外を見ている。まだ放課後になったばかりで、閲覧室にはほとんど生徒はいない。
「類」
小さく呼ぶと、類がこちらを向いた。ぱっと表情が明るくなる。
「何を見ていたの?」
「海」
図書館は山の上にある上に、ここは三階だ。だから、海の様子がよく見えた。浜辺に、のたりのたりと波が寄せては返している。
「のどかね」
「そうだね」
とても穏やかな午後だった。ゆっくりと時間が過ぎていく。
「菜の花が見たいわ」
「どうしたの急に」
「なぜかしら。なんとなく、菜の花が見たくなったの」
「菜の花畑の向こうに海が見えたら、それはとってもきれいだろうね……。あ、もしかしてありす、春の海を見て与謝蕪村を連想したの?」
「そうかもしれないわね。与謝蕪村と言えば、『菜の花や 月は東に 日は西に』だったかしら」
「そうそう」
特に面白いわけでもないのに、私は類と顔を見合わせて、くすくすと笑いあう。なんでもないようで、輝きを詰め込んだ宝石のような、そんな大切な時間。
ふと、類の方を見てみた。類は海を見つめたまま、何かを思い返すような顔をしている。
その瞬間、何かが私の中を走り抜けた。一瞬頭をかすめたのは、海に落ちていく夕日。私はそれを誰と見たのか、思い出せない。でも、もしかして、私は、記憶を思い出し始めているのだろうか。
それは、私をどんな風に変えてしまうのだろうか。
「ありす?」
私が不安そうな顔をしてしまったからだろう。類が心配そうに、私を覗き込んできた。
「……ううん。なんでもない」
なんでもない、なんてことはない。ただ、私は自分でも、この不安をうまく言葉にできる自信がなかった。
「類、今日部活終わるの何時まで?」
「閉館は六時だけど、別にそれまでずっといなきゃいけないわけじゃないから、いつでも帰れるよ」
「分かったわ。じゃあ、類が帰るときになったら、私を呼びに来てくれる?私、一階奥のソファーにいるわ」
「……うん」
私の様子に不審感を覚えたのだろう。類は変な顔をしながら、頷いた。
返却作業をしたり、生徒に本の場所を聞かれて案内する類の様子を遠くから見ながら、私はぼんやりと考えていた。
未だに夕日を共に見た相手を、思い出すことはできない。なのに、なぜか私はその相手が類だと、分かっていた。類であってほしい、という希望ではない。確信だ。
根拠は、と聞かれても答えられない。根拠のない確信、というと、信憑性に欠けるように聞こえるけれど、こればかりは「そう」としか言いようがないのだ。
「ありす」
顔を上げると、レイが立っていた。
「随分と悩んでいるようだね。ボクでよければ、話くらいは聞くよ」
手が空いてるしね、とレイは両手をひらひらと振った。
私はレイに、夕日の記憶について話した。
聞き終えて、レイは私の目を見た。
「ありす、君、記憶を思い出そうとしているの?」
「ええ。でも……不安なの」
「記憶を思い出すことで、今の自分がどう変わってしまうのか、ということかな?」
「そうよ。もう、真っ白な紙に思い出したことを書いていくのとは、違うの」
私はもう、真っ白な紙に「今の」私のレイや類との関係を書いてしまっている。
「『前の』私と『今の』私、どれだけ違ってしまっているのかしら」
言うつもりのなかった言葉が、口からこぼれだしてしまっていた。はっとして、レイの顔を見る。
「大して違わないよ」
レイは気にした様子もなく、そう言った。
「昔と比べて、ありすはちょっと背が伸びて、きれいになって、後読む本のジャンルがちょっと変わった。それくらいかな。ボクはありすがボクや類に対して今どう思ってるか、なんて分からないけど、接し方はそんなに変わってないよ」
「そうなのね」
それを聞いて、私は少し安心した。多分レイは、私の気持ちに気付いている。
きっと私は、類のことが好きだった。そしてまた、私は類のことを好きになろうとしている。
そんな類との思い出の中に、忘れてしまっていることがあるのが嫌だと思った。思い出したいと、強く思った。
「レイ、私、もう少しで全部、思い出すと思うわ。あなたのことも、類のことも、この部活のことも、全部」
「そうか」
レイは逡巡した後、
「ありす、ボク達は君の側に居るから、大丈夫だよ」
そう言って、私の手をぎゅっと握った後、行ってしまった。
類が私を迎えにやって来たのは、それからしばらく後のことだった。
私と類は並んで、学校の坂を降りていた。
校門を抜けて、しばらく行くと、海へと向かう道と駅へと繋がる道に分かれる。私はそこで、海へと向かう道に進んだ。
「ありす?どこ行くの?そっちは駅じゃないよ」
「分かってるわ。海へと向かう道でしょう」
類は目を見開いた。
「ありす」
「夕日を見に行きたいの、あなたと。いいかしら」
いいよ、とだけ類は答えた。
海へと向かう道すがら、私達はお互い、一言も発さなかった。私は何度か、類の様子を盗み見た。類は苦しそうな、でも、どこか安心しているような、そんな表情をしていた。
類がどうしてそんな表情をするのか、私には分からない。もしかしたら、私がしようとしているのは、類を苦しめることかもしれない。だけど、類は大丈夫だ、と私は思っていた。レイが私を止めなったからだ。レイなら、私がすることが類を立ち上がれなくさせるようなことなら、絶対に止めるだろうという、信頼があった。だって、レイは類の「姉」だから。この十日、二人と過ごしていて、私がずっと感じていたことだった。レイと類は、友人というより姉弟だ。
レイは、私を信じてくれている。私に、類を傷つけ苦しめる意志がないことを。
レイは、類を信じている。類が、もし苦しい思いをしてしまったとしても、そこから立ち上がる力を持っていることを。
海に着いて、私達は波止場から砂浜に降りた。
太陽は随分と、水平線に近づいている。かすかに思い出せる記憶の中の情景と、目の前のそれは、似通っていた。
「私、誰かと一緒にここで夕日を見た記憶があるの」
私は類に話しかけた。
「その『誰か』を思い出すことはできないのだけど、私、それがあなただって、確信しているわ」
ひゅっ、と、類が息をのんだ。
「類、私ね、あなたのことを思い出したいの」
類の目を見て、私は自分の思いを告げた。
類は少しの間黙って、ずっと下を向いていた。私はその様子を見守っていた。類は今、何を思っているのだろう。苦しいのか、悲しいのか、それを私は聞くことができない。聞いてしまえば、類はもっと辛い思いをしてしまうかもしれない。
やがて、類は顔を上げた。まるで決意したかのような、強い意志の籠った目が、私を射抜く。
「ありす、僕はここで、君と二人で夕日を見たんだ」
その一言に、私の心臓が大きく高鳴った。
その瞬間、強いオレンジ色の光が私達を照らし出した。
私と類は、二人同時に西の空を見た。燃えるような日が、水平線に落ちていく。
期待を込めて、睨みつけるように私は夕日を見た。何かが起きる、起きてほしい、いや、起きるに違いない、そんな思いが体中を駆け巡る。
けれど、日が水平線の向こうに沈んでも、私が記憶を思い出すことはなかった。
海を後にしてから、私が自宅の最寄り駅で降りる時に「またね」と言うまで、私達は何も話さなかった。話せなかった。
私の頭の中は、失望と、悔しさと、類に対する申し訳なさでいっぱいだった。考えもうまくまとまらない。私は結局、何がしたかったのだろう。
母の作ってくれた夕ご飯の味も、今日はよく分からなかった。情けなくて、涙が出そうになる。それでも必死でそれを隠して、私は自室に戻った。
ベッドに寝転がる。私の頭の中はぐちゃぐちゃだ。こんな時、どうすればいいんだっけ……。そうだ、部屋の掃除だ。母はいつも、考えがまとまらなくなると掃除を始める。そうしているうちに、ふっと頭がすっきりするんだそうだ。
手始めに、私はしばらく使っていなかった引き出しを開けた。中には、色々な種類の便箋や封筒、イギリスの友達とやり取りをした手紙が入っている。最後に手紙をもらったのは、中学校に入学したあたりだったと思う。それ以降は、お互い電子メールでやり取りするようになり、便箋と封筒の出番はなくなっていた。
引き出しの中身を全部出して、整理していく。その中に一つ、封をされた、私の持っている柄の封筒を見つけた。ひっくり返して表を見た時、私は、悲鳴を上げた。手から封筒が落ちる。
『類へ』
私の字だった。私の字で、見間違いようもなく、しっかりと、その二文字が記されている。
頭の中で何かが弾けた。そこからまるで勢いよく手繰り寄せられていく、記憶の数々。連鎖的に、私の頭の中で、情景が次から次へと浮かんでは流されていく。
「あ、あ、まって、いや、いや……」
いやだ、いやだ、と心が叫んでいる。思い出したくない、思い出したくない、つらい、つらい、つらい、やめて、やめて、やめて、やめて……。
私の最後の記憶、階段の上で凍りついている類の映像が浮かんだのと、ドアを開けて両親が飛び込んできたのは、同時だった。
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