第2章

 目の前で、少女が階段を転がり落ちていく。その動きは、まるでスロー再生のようにゆっくりとしている。だけど僕は、指先一つ動かせないし、声も出ない。

 最後に一度、目が合ったような気がした。踊り場に落ちて、そのまま動かなくなる彼女の体。

 僕は彼女の名前を叫びながら、階段を駆け下りる。呼びかけても反応はなく、目は虚ろに開かれたままだ。その表情のない人形めいた顔を見て、得体のしれない恐怖がせり上がってくる。

 突然、わずかに開いたままだった口が大きく開けられた。眼球がぎょろりと動き、僕を凝視する。

「ねえ、るい、どうして逃げたの?」

 ぱちん、と、テレビのチャンネルを変えるように、視界が切り替わった。

 中吊り広告が、吊り革が、列車の振動に合わせて揺れている。

 心臓が早鐘を打っている。気持ちを落ち着かせるために、僕は窓の外の景色を見た。自宅の最寄り駅まであともう少しだ。

 一年半ほど前から、僕はこの悪夢をよく見るようになった。最近では、毎日のように見ている。原因は分かり切っていた。

 この夢はきっと、あの時君を放って逃げてしまった僕への罰なんだ。


 ぎぃ、ぎぃと音を立てて、ブランコがきしむ。僕と吉永よしながれいは、制服のまま、公園のブランコに無言で腰かけていた。

 零は僕の幼馴染で、いとこで、同級生だ。この公園は小学校の頃は僕たちの遊び場で、中学校に入ってからは、話をする時にここに来るようになった。

 今日、零をここに呼び出したのは僕だ。なのに僕は話を切り出せなくて、かれこれ十分以上はこうしている。

「類、今日避けてただろ」

 沈黙を破ったのは、零の方からだった。誰を、とは言わずとも、お互いに分かっていた。零の口調に非難めいたものはなくて、ただ事実を確認したいだけのようだった。

「うん」

 今朝、昇降口の人混みの中に、見間違いようのないあのきれいな栗色を見つけた時、僕は反射的に逃げ出していた。始業式のために教室から体育館に移動する時も、なるべく人の間に隠れるようにしていた。最も、零には気付かれていたようだけど。

「今朝も、また夢を見たんだ。さっきの帰りの電車でも」

「うん」

「ありすがっ、僕に、どうして逃げたのって、聞いてくるんだ」

「うん」

 三石みついしありす。僕の好きな人。初恋の人。一目で恋に落ちた人。でも、僕はその名前を口にするとき、震えるようになってしまった。今ではもう、その恋慕の上に、色々なものが積み重なってしまった。あの人形めいた顔への恐怖、僕のことを覚えていないという絶望とわずかな安堵、そしてあの時何もできず、ありすを放って逃げ出してしまった罪悪感。

「ありすは、事件当時のことを憶えていないよ」

「それは分かってる、僕も頭では分かってるんだ、でも」

 顔を合わせた時、あの人形めいた顔で、僕を詰ってくるんじゃないか。その妄想に絡めとられて、僕は動けないでいる。

 要するに、僕はずっと逃げ続けているのだ。夢を見るたびに罪悪感を抱き、逃げ出した自分の弱さを突きつけられ、これ以上それを突きつけられたくないと思っている。

「類、君はそれを弱いと言うけれど、でも当然のことじゃないかな」

「零……」

 零は僕の弱さを否定しない。昔からずっと、僕が泣いたり落ち込んだりしていると、姉のように僕の心を優しく抱きしめてくれる。僕はずっと、それに甘えてここまできてしまった。

「類」

 零が柔らかい声で僕を呼んだ。慈しむような眼で、僕を見ている。

「類は、ありすに会いたくない?」

「僕は……」

 ありすは僕にとって、今や罪悪感の原因であり、弱さを突きつけてくる存在だ。でも、一目見たその時から、例え昏睡し、目覚めても僕のことを憶えていないと聞かされたとしても、恋心を消すことができなかった相手だ。

「会いたくないけど、会いたい……」

 相反する二つの感情が、僕を揺さぶる。顔を合わせたら、僕はきっと辛い思いをする。でも、また昔のように好きな本の話をしたり、一緒に遊びに行ったり、笑いあって過ごしたい。

 ありすの、笑顔が見たい。

 そう思った時、僕の中の天秤が、傾きとしてはほんの少しだけど、それはとても大きな力で傾いた。

「会いたい。ありすは当時のことは憶えてないから、僕は動けなかったこと、逃げ出したことを謝ることはできないけど、ありすは僕のことさえも憶えてないけど、それでもまた、友達をやり直したい」

「そうか。じゃ、明日の放課後だね」

「え?」

「ありす、明日図書部見に来るって」

「……うん。気持ちの整理はしておくよ」

 僕の返答に、零は満足そうに笑った。

 その晩、僕はまたあの夢を見た。でも、一つだけいつもと違うところがあった。夢の中で、彼女は僕に何も問いかけてはこなかった。

 

 翌日の放課後。帰りのホームルームを終えた後、僕は図書館へと向かった。

 図書部の部室は、図書館の一階カウンター奥にある小部屋だ。元々は物置きとして使われていたのを、四代前の部長が整理して、部室として使えるようにしたそうだ。

 部室に入ると、高校一年生の上道じょうとう先輩が長机で新着図書のレビューを書いているところだった。

「こんにちは」

「こんにちは」

 挨拶をして、僕もパイプ椅子に座った。零とありすは、まだ来ていないのだろうか。

「上道先輩、今日って先輩以外に誰か来ていますか?」

和気わけ君だけね。後のみんなも、もうすぐ来るんじゃないかしら」

「そうですか」

 心臓がどくどくとうるさい。僕はそれをなだめるように、深呼吸をした。

「類君、ジャスミンティー飲む?和気君が今日、ティーバッグを一箱持ってきてくれたの」

 上道先輩が小首を傾げてこちらを見ている。

「あ、じゃあお願いします」

 給油ポットからお湯が注がれる音がした。独特の良い香りがふわりと広がる。

 一杯分飲みきった時には、僕は随分と落ち着いてきていた。

 ガチャ、とドアノブが回る。

「こんにちは」

「こんにちは……」

 入ってきた人物を見て、僕は息をのんだ。あら、と上道先輩が声を上げる。

 零の後ろから、ありすがそろそろと入ってきた。

「こんにちは、ありすちゃん」

 上道先輩が立ち上がり、ありすに近づく。

「高一の上道じょうとうつづりです。よろしくね」

 上道先輩の物腰の柔らかさに、安心したのだろうか。緊張で若干こわばっていたありすの表情が、緩んだように僕には見えた。

「三石ありすです。その……また、色々と教えて下さい」

「ええ、もちろん」

 零が僕の方を見ている。大丈夫そう?と目で問いかけてきた。大丈夫だよ、という風に頷いてみせる。

 さあ、いよいよ僕の番だ。

 またあの悪夢が蘇りそうになる。大丈夫大丈夫、と僕は自分に言い聞かせる。逃げ出したいと、また叫び始めた心を必死で押さえつけて、僕はありすの前に立った。頑張って目を合わせる。

「君と同じ中三の、早島類はやしまるいです」

 少しだけ、声が震えてしまった。

 僕の声の震えが伝わってしまったのか、ありすは一度、不思議そうな顔をした後、でも、にっこりと笑って、

「私と同級生なのね。これからよろしくお願いします」

 と、そう言った。

 約一年半ぶりに僕に向けられたその笑顔を見て、僕の中を、じわじわと喜びと幸福感が満たし始める。恐怖は少し鳴りをひそめていた。


「一階のカウンター周辺は雑誌とか新聞、視聴覚教材、新着図書、あとは人気の本かな。書架の方には、辞典とか、哲学、宗教、歴史、地理、科学系の本があるんだ」

 僕はありすを連れて、館内を案内していた。あの後、零は高一の和気先輩に呼ばれて本の返却を手伝いに行き、上道先輩は部室でレビューの続きを書いている。

「すごいわ。棚の上までぎっしり!」

 ありすが書架を見上げて言う。

「蔵書数は約九万五千冊だって。二階に技術、産業、芸術、言語、文学系があるから、それと地下書庫のも合わせたら、それくらいするんじゃないかな」

「地下もあるの?」

「うん。僕は行ったことないんだけどね。地下書庫は二つあって、一つには論文集とか和雑誌が入ってる。ここを使うのは先生達くらいかな。もう一つには、稀覯本が入ってて、そこは閉架式……自由に出入りできないんだ。月替わりで、鴨方先生が地下から稀覯本を持ってきて、展示してる。それが、あそこ」

 僕はカウンターの正面の展示ケースを指さした。

 ありすは目を真ん丸にしている。

「これだけの本、どうやって集めるのかしら」

「うーん、僕も詳しいことはあまり分からないけど、学校で買うほかに、寄贈されるのが結構あるらしいよ」

「そうなのね。……ねぇ、えっと、早島君」

 僕はなんだかむずむずした。名字で呼ばれる方が逆に気恥ずかしい。

「あの、僕のことは名前で呼んでもらっていいよ。うちの部ではみんな、僕のこと名前で呼ぶし」

「じゃあ、類、でいいかしら?」

「うん。君の方は?何て呼べばいいかな?」

「私?私は、そうね、ありすでいいわ。レイが私のことを、そう呼ぶの」

「そっか。オッケー」

 僕は少し、にやけてしまった。ありすと接しているうちに、段々緊張感がなくなり、余裕が出てきたのかもしれない。僕たちの関係は一度振出しに戻ってしまったけれど、また再生できるんだ。そんな自信があった。

「それで、さっき何か言いかけてなかった?」

「そう、あのね、類ってこの図書館のこと良く知っているんだなって思ったの」

「まぁ……二年間、図書部で生活してきたからね」

「それはつまり、図書部は図書館の学生版スペシャリスト、ってことでいいのかしら」

「スペシャリストってわけでもないけど。なんというか、図書部は本が好きな人が入部して、部員として生活するうちに図書館のことが好きになって、いつの間にか誰かに説明できるくらいに詳しくなってる、そんな部活だからなぁ」

 僕は入部したばかりの頃を思い出していた。あの頃は、零とありすと僕、三羽のヒヨコが本が好きで知り合いもいるからとりあえず入った、というような感じだったけど、こうして過ごしていくうちに、次第に名前だけでは分からなかった部のことが掴めてくるものだ。

「ここは素敵な場所ね」

「そう?」

「そうよ。まず内装が素敵。でも、外観や内装、大量の本は揃ってても、『中身』がないとただの空虚な場所ではないかしら。きっと、この図書館は、鴨方先生や、あなたたち図書部員がいて、利用する人たちと何らかの形で関わってるから、素敵だと思えるのよ」

「……ありがとう」

 ありすの言葉に、僕は胸を打たれていた。今まで、こんなことを自分たち図書部員に言ってくれる人は、いなかったから。図書のレビューを書いたり、返却したり、おススメ本企画をしてみたり。そういった活動がもたらした「結果」を、やっと知ることができたような気分だった。

「私、また図書部員としてやり直してみたいわ」

 ぽそりと、ありすが呟いた。

「私に説明してる時のあなた、すっごく楽しそうで、どこか誇らしそうで。なんだか、そんな姿を見ていると、いいなぁって思ったの」

「それは、休部から戻るってこと?」

「ええ。今日、ここに来る前に顧問の先生とお話ししてきたの。今はまだ復学したばかりだし、体の方も様子を見たいから、もし戻るならゴールデンウィーク明けの新入生の入部の時期にしましょうって」

「そっか。嬉しいなぁ」

 僕の口から自然と「嬉しい」という言葉が出てきていた。それは、ありすと過ごす時間が楽しかったからかもしれない。

「ああ、もうこんな時間」

 ありすが悲しそうに腕時計に目をやる。時刻は午後四時を少し回ったところだった。

「私、明日の放課後もまたここに来るわ。あなたは?」

「僕も明日、来るつもりだよ」

「それはよかったわ。ねえ、類、またあなたの話を聞かせてくれるかしら?」

「もちろん」

「楽しみにしてるわね。それじゃ、また明日ね」

「うん。また明日」

 ありすが僕に笑顔で手を振って、荷物置き場に向かう。僕も笑顔で手を振り返した。

 約一年半ぶりに再会したありすは、ちょっと大人に近づいていて、ますますきれいになっているということに、僕はやっと気づいた。

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