第1章
ジリリリと、何かの音が聞こえる。意識がゆっくりと浮上してきて、私はゆっくりと目を開いた。ベッドサイドのテーブルの上で、目覚まし時計が鳴っている。どうやら、これが音の正体らしい。
頑張って布団の中から手を伸ばして、時計を止めると、私はゆっくりと体を起こした。カーテン越しに、外からの光が部屋に差し込んでいる。
ベッドを降りる前に、日課を始める。名前は
そこまで口に出して言うと、私は目覚まし時計の前に置いているノートを開き、今まで言ったことが全て合っているかどうか確認した。うん、問題ない。最低限必要なことを思い出せることを確かめて初めてベッドを降りる。ハンガーラックには制服がかかっている。ほとんど一年半ぶりに袖を通すそれは、私のサイズにぴったりだった。
姿見の前に立つ。小柄で、ゆるくウェーブした栗色の髪に、南の海のような青い瞳の少女が、こちらを見ている。私は彼女を、私自身だと、三石ありすだと、認識することができる。
髪をハーフアップにして、お気に入りの水色のリボンを飾った。よく似合っている。
約一年半前、中学一年生の七月、私はちょっとした事件で階段から転落したらしい。らしい、というのは、私にその事件当時の記憶が無いからだ。頭を強く打った私は、それから十ヵ月ほど昏睡していて、病院で目を覚ました時、自分の来歴一切に関する記憶を失っていた。記憶は徐々に戻り始め、今では日常生活に全く支障のない程度まで思い出しているけれど、それでもまだあやふやなところがある。その当時のクラスメイトの名前を聞いて、聞き覚えはあるけれど、顔が思い出せない、ということがある。それに、どうやら私は「図書部」という部活に所属している(現在、私の扱いは休部となっているそうだ)らしいのだが、その部活に関する記憶は一切思い出せない。それがどんな部活なのか、どんなメンバーがいたのか、頑張って思い出そうとしたけれど、駄目だった。
勉強机のフォトフレームには、私が入部した時の記念写真が入っている。それを見ても、見覚えのある人は一人もいなかった。名前を聞いても分かる人はいなかった。それが、とても悲しいのだ。中学一年生の五月に入部したというから、私が活動していたのはおよそ二ヵ月。たったそれだけでも、共に過ごしただろう部員たちのことを何も思い出せないという事実が、記憶が戻り始めてから、私の胸に深く突き刺さっている。
朝食を食べて、鞄を持って、両親に行ってきますと言う。たったそれだけのことなのに、約一年半ぶりにその私の姿を見る両親は、涙ぐんでいた。駅まで送る、という父の厚意を私は断った。駅までの道は分かるし、それに、少し心構えをする時間が欲しかった。
今日は四月六日、始業式だ。約一年半の間、昏睡と目覚めてからのリハビリ、そして自宅療養で休学していた私は、今日をもって復学することとなった。そんな私に、私の最寄り駅から学校まで一緒に登校しないか、と声をかけてくれた人がいた。私と同じ、中学三年生の
私が記憶を失くす前、彼女は私と仲が良かったらしい。一度家に遊びに来たことがある、と母が教えてくれた。先日、彼女は今日のことを話しに家に来た。だけど、私は彼女に会わなかった。突然の来訪で、どんな顔をして会ったらいいのか分からなかったから。仲が良かったという彼女のことを、思い出せないのが申し訳なかった。だけど、怖がらずに一歩進みたかった。だから、母を通じて、一緒に登校したい、という希望を伝えてもらった。
もう駅前についてしまった。階段を上れば改札口だ。彼女とは改札口前で待ち合わせている。一つ、深呼吸をして、私は階段を上った。
「ありす」
落ち着いた、心地よいアルトが私の耳に届いた。私と同じ制服を着た学生が、改札口の脇に立っていた。
黒いショートヘアに、中性的な顔立ち。男物の服を着ていたら、男性と見間違えてしまいそうだ。その姿は、毎日見ている記念写真の中の誰とも一致しなくて、私は戸惑ってしまった。
私の戸惑いを察したのだろう、彼女は申し訳なさそうな顔で学生証を出しながら、私の方に近づいてきた。
「困らせてしまったみたいで、ごめんね。ボクが吉永零です」
「え、ボク⁉」
学生証と彼女を交互に見比べる。学生証には「吉永零」と書かれていたし、性別は「女」となっている。顔写真とも同じだった。所謂ボクっ子なのだろう、と私は考えた。
「さっきは驚いてしまってごめんなさい。私、三石ありすです。えっと……」
初めまして、と言いそうになって、私は慌てて言葉を切った。きっと、この言葉は吉永零を傷つけてしまう。
「今は、初めまして、でもボクは構わないよ」
優しい目で、吉永零は私を見ていた。
「君が、図書部のことを思い出せないのは、顧問の先生から聞いているから」
「ごめんなさい……」
申し訳なくなって、私は目を伏せる。吉永零と私の間にあったはずの繋がりが、今は切れてしまっているようで、辛かった。でも、吉永零は私の何倍も辛いと思う。だけど、
「謝ることないって!今から、また積み上げていけばいいんだよ。生きていれば、何度忘れたって、何度だってやり直せるんだからね」
吉永零はにっこりと笑いながら、私の手を取った。
「行こう、ありす。もう電車来ちゃうよ!」
「ええ!」
改札を抜ける。私は一歩、進みだすことが出来たんだ。
繋がれた手は、温かかった。
「ボクのことは、レイと呼んでね」
電車に乗って、座席に座って吉永零……レイが発した第一声がそれだった。
電車の中で、私はレイのことを色々訊ねた。どこに住んでいるの、とか、家族は、とか。
レイが住んでいるのは、私の最寄り駅よりも三駅西側だった。今日はわざわざ、いつもより早い電車に乗って、途中下車して待っていてくれたらしい。
「明日からはいつもの電車に乗ってもらって大丈夫よ。この車両でいいかしら?」
私がそう言うと、レイはたちまち嬉しそうな表情をした。
「ということは、明日からも一緒に登校していいの?」
「もちろんよ。元々、そのつもりで声をかけてくれたのではなかったの?」
「そのつもりだったんだけど、君にも都合があるだろうと思って……」
こうして話してみると、レイはまるで男性みたいだった。
レイの家は母子家庭だそうだ。今は親子二人暮らしで、仕事で帰りの遅い母に代わって、レイが家事を一手に引き受けているのだ。
レイの今の姿が、私の手元の記念写真と一致しなかった理由も分かった。その当時、レイの髪は長くて、ツインテールにしていたからだ。私は今のレイの顔を若干幼くして、ツインテールにした姿を想像してみた。確かに、記念写真の中で、私の隣に並ぶ少女の姿がそうだった。髪型のせいか、それとも約一年半という時の流れのせいか、今のレイは写真の中のレイとは随分印象が違って見えた。
『間もなく
車内アナウンスが流れる。周囲の同じ制服を着た生徒たちが、降りる準備を始めた。
ドアが開く。人の流れに流されるように、私とレイは電車を降りた。ホームから、輝海町の景色が見える。南の方には、水平線。
「懐かしいわ」
「覚えてるんだね」
「ええ」
駅前の煙草屋や小さな喫茶店など、おおむね私の記憶通りだ。ところどころ、変わっているところはあるけれど。
「ね、レイ、あのお店あった?」
私が指差したのは、一軒の土産物屋だった。
「最近出来たんだ。一昨年の秋だったかな、公開された映画のロケがここの海であってさ。それ以来観光客がよく来るようになったし、ドラマの撮影とかもしょっちゅう来てる」
「そうなのね。私も、海に行ったのは覚えてる。確か、夕日を見に行ったの」
誰と……?
景色がゆがむ。
「大丈夫⁉」
レイがふらついた私を支えてくれた。
「ちょっと休んでから行くかい?まだホームルームまでに時間はあるよ」
「ありがとう、レイ。でも大丈夫よ。ちょっと目まいがしただけ」
不安そうな表情のレイに笑いかけ、私はまた歩き始めた。
町の東側の山の麓にたどりつく。目の前の校門を抜けて長い坂道を上り、山の上の学校に行くのだ。校門には、「私立航中学・高等学校」のプレート。
「覚えてるわこの坂道……」
「ボクもこの坂ほんとやだ」
二人で文句を言いつつ、坂道を上る。
「今日が始業式でよかったよ。授業ある日だと死んじゃう」
「うう……坂道を上る練習もしとくんだったわ……」
やっと校舎の前にたどりついたときには、私の息は上がってしまっていた。レイは何事もなさそうにしている。
「流石ね、レイ」
「まあ、二年もあそこ上ってたら鍛えられるよね」
かつてとある資産家が有していたという土地を買い取り、そこに建てられた白亜の学び舎は、私の記憶そのままだった。
昇降口に、生徒達がひしめき合っている。
「レイ、あれは?」
「クラス分けの掲示だ。行こう」
わいわいがやがやと騒ぐ生徒たちの間から頑張って首を出し、私は中学三年生の掲示の中に、自分の名前を探した。三年二組だ。同じクラスに、ちらほら見知った名前を見つけた。そして、私の数段下に、レイの名前を見つける。
「レーイー!私たち一緒のクラスよ!あれ?レイ?」
きょろきょろと辺りを見渡すと、レイは少し離れたところで明後日の方を見ていた。見ていた、というより、見つめているような、そんな目つきだ。
「レイ、レイ」
呼びかけると、レイははっとしたような顔で私を見た。
「ごめん、ありす。ちょっとぼーっとしてた」
「あのね、私たち同じクラスよ。三年二組」
「同じクラス?やったぁ」
レイと顔を見合わせて笑う。
下足室で靴を履き替え、教室へと向かう。校舎の造りも、記憶そのままだ。
「ここだ!」
「中3―2」と書かれたプレートの教室のドアを、レイはガラガラと開けた。
生徒たちの数名が私たちを見て、そのうちの二、三人が「三石だ」「あ、ありすちゃん!」と声を上げた。それがクラス中に伝播し、見覚えのある顔の女子生徒が何人か駆け寄ってくる。
「ありすちゃん!」「久しぶり!」「もう大丈夫なの?」
ぐいぐいと迫られて、私は戸惑った。
「あの、ありすが困ってるから」
レイがたしなめるように言う。しかし、女子生徒達はレイを何か異質なものを見るような目で見て、レイを避けるようにして私にさらに近づいた。
レイはそんな扱いをされても、平気な顔で、まるで当然の扱いを受けているというような顔で、でも苦しそうな、あがくような表情を一瞬浮かべただけで、静かに私から離れ、黒板に貼られている座席表を見に行った。
私は唾を飲んだ。何か良くないようなものに触れているような感覚がする。そしてそれと似たような感覚を、私は味わったことがある。
……思い出すな。
私は思考を断ち切って、目の前の女子生徒たちに笑いかけた。そうしなければきっと、私はまた目まいに襲われていたに違いない。
心配そうに遠くから私を見ているレイに大丈夫、と目で伝え、私は女子生徒たちの名札と顔を見比べた。全員、一年生の時に同じクラスだったのは覚えている。
「久しぶりね。心配させてごめんなさい。でも、もう大丈夫よ」
その日、始業式が終わって帰るときになってやっと自由の身になった私が「一緒に帰ろう」と声をかけるまで、レイは私に一切近づいてこなかった。
「帰る前に、図書館、見に行く?」
そんなレイの提案を、私は快く受け入れた。
赤レンガ造りの重厚なその建物の外観は、私の記憶通りだ。しかし、その内部を、私は思い出せない。
「今日は始業式だから部活はないけど、明日からまた、活動再開だよ」
「明日の放課後、ちょっと顔出してみてもいいかしら?」
「もちろん。みんな、ありすの復学を聞いて喜んでた」
レイが大きな扉を開ける。促されて、私は中に入った。
「わぁ……」
一階から三階までの吹き抜け構造、そして三階の一部に嵌め込まれたステンドグラスを通して入ってくる光。書物特有の香り。それら全ては、今の私には初めて体験するはずのものなのに、懐かしいと私の身体は叫んでいた。鼻の奥がつんとなって、視界が霞む。
涙は一粒落ちると、もうこらえきれなくなって、後から後から頬を伝って流れ落ちる。初めてなのに懐かしい、そんな奇妙な感覚が、かつて私がここで過ごしていた時が確かにあるのだと、教えてくれた。
レイは何も言わずに、そんな私を抱きしめてくれた。
「いたのね、私。ここに」
「うん。君は一階の奥のソファがお気に入りで、そこでよく本を読んでた」
「そうなのね」
まだ記憶の扉は開く気配がない。それでも、私はなんだか安心してしまった。
この図書館に、拒絶の空気はなかった。来るもの全てを受け入れ、優しく包んでくれる、羽毛布団のよう。私が思い出そうが思い出せまいが、関係なく、どんな私でもこの場所は私を受け入れてくれる。そう確信した。
「おや、三石君」
森の奥の老樹を思わせるような声がした。一人の老人が、しっかりとした足取りで、カウンターから私の方にやって来た。
「司書の
「えっと、お久しぶりです。鴨方先生」
私が挨拶すると、鴨方先生は目をきゅっと細めて、慈しむような眼をした。
「何かあれば、いつでもここに来るといい。吉永君も、な」
「あ……はい」
レイが誤魔化すように笑う。鴨方先生は、それ以上何も言わず、カウンターの方に戻っていった。
「鴨方先生には、何でもお見通しだな」
レイの呟きに、私は何も言えなかったし、訊ねられなかった。今朝、教室に入った時の出来事に触れてはいけないという、直感めいたものがあった。
「ごめん、ありす。ちょっと暗くなっちゃったね。何か本、借りて帰る?」
「ありがとう。でも、今日はいいわ。もうお昼回っちゃってるもの。今日、お弁当の用意はないんでしょう?」
「うん、そう。実はボクお腹すいちゃっててね。図書館の中は明日ゆっくり見て回ることにしようか」
「そうね。久しぶりの学校で今日は疲れちゃった」
「帰ろうか」
「ええ」
私とレイは図書館を後にした。春の暖かい日差しに包まれて、坂道を下る。
明日から、一体どんな学校生活が始まるのだろうかと、期待と、漠然とした不安を抱えたまま、私は電車に乗り込んだ。
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