AFTER STORY 番外
微動する風が宥める様に頬を掠った。
朝未だきに閑かに映える雪景色は煥然と照らす陽の存在とも重なって、口さがない世間の現実さえも薄めてしまう。
緩く、持ち上げた視線が清み切らない彼方に続く空路を見付けた気がした。
左手に携えた ふ冬色(ふきいろ)の花束が風塵の様に軽やかにそよぐ。
守るためにこの胸に引き寄せた寂しげな花の在り処が鼓動を繰り返す腕だけなのだと囁いているかの様にも想えて。
何もない、この風景を愛しく感じている。
遮る物のない大地は生まれながらにしてそうであったかの様にしんと、奥底に眠る地温を直隠しながら。
冬が訪れる度に、区切りの様な物を感じていた。
冷たく壅ぐ世界は可変的な時の刻みを覆い隠しているかの様だったから。
道すがら、通り去った普段の海岸沿いも夏の海が引き起こす水衝の気配も乏しく、余波を薄めている。
あの日の午後もこうして雪の中に足を運んでいた。
この腕に眠る花束は、僕の記憶に優しく息衝く人の為のもの。
あれから、一年。
流れる景色は行き交う人の姿など構いもせずに一様にそこに在り続けている。
その一途さが今は居心地がいい。
いつも 想っていた。
何気なく立ち止まる場所が、遥か遠い過去に自身とは伏在する空間の広袤で哀しい記憶や拭い去れない悼みを刻んでいたとしても。
その仔細を知らなければ、大地は緩やかに揺れ動く優しい世界でい続けてくれる。
何事もなかった様に。
周縁を取り巻く空気は絶えず時が止まったかの様に佇んでいるだけ。
時間など初めから存在していないかの様に。
刻という物は 無なのだろうか。
「時」という物を都合良く考えていた自分がいた。
嘆きに溺れてしまえば、不安定な未来に寄り添う様に未だ見ぬ指針に願った。
逆ならば、その時間を愛しく想った。
だけど、それらは自身を宥める為以外の他ではないのかも知れないと。
感情の流れと、時の推し移りは近いけれど、どこか交わる事のない場所で存在している様な気がしていたんだ。
手に落ちる事のない刻限は、その不確かさが時に何かを嘲笑う様な姿を覗かせる一面を見せる事もある。
眩しい位に照らす日差しが煩わしい程に孤愁の輪郭を極める瞬間、僕は大気を厭う。
本当はこの気持ちを汲み取って欲しいのだと、拭う事が出来ない大量の涙を感情の奥から抑える事の出来ない日には、添うように大粒の雨を降らせて欲しいと願ってしまうんだ。
常に平行線で、それは人に例えるならば、冷静ともいうべき物かも知れない。
だから、交わる事のない様な気がしていた。
人と時の流れなんて物は複雑に絡み合っている筈なのに、人間の感情の流れと交錯する接点を残さず縦横無尽に張り巡らせられた迷路の様な存在なのかも知れないと。
けれど、その曖昧さが傷付いた心を慰めてもくれ、疵痕から救ってもくれる。
痕も残さず、時だけは揺蕩う様に傍らにいてくれる。
環境は殊のほか、強かだ。
大気は全てを渫う役割も持ち備えているのだろう。
目に映る景色は何一つ変わっていないのだとしても、去年見た雪景色と今年、目にする光景とではあからさまに違いがあった。
景観が生み出す 抑制された美しさではなく、僕自身による心境の変化なのだと。余すことなく得た親としての愛情を紛れもない形で感じる事が出来たからなのか。
ただ、それだけの事で世界は変わってしまう。
あれ程 苦しんだ想いを忘れ様としている訳じゃない。
また、忘れた訳でもなく。
あの頃の僕は体の芯で今も根付いている。
他人の優しさも単なる懐柔策でしかないと想っていた。
ただ、この瞬間 重なる想いの中で哀しみに耽っている人が片隅で涙しているのかと考える度に、申し訳ない気持ちにもなってしまうんだ。
自分だけが満たされた渦にいてもいいのかと。
それでも。
もう 迷わずに歩いて行くから、どうか この肌に触れる大気が優しい物である様にと。
そう、奥底から願っている。
縋り付く様に想い続けている あの愛しい人の面影も生きる希望へと変わる。
ふと、顔を上げる。
見落としてしまいそうな位に秘めやかに流れ込む音色に。
歌……?
冷たく、殺風景な気風の大地の彼方の果てから柔らか旋律が届く。
どこかで耳にした覚えのある記憶に染みる構音。人の柔らかな喉元から零れる物だろうか。
こんなにも遠く離れているのに確かに伝わって来る。
美しい音色は、この僕に届くために響いているかの様にさえ想えてしまう。
誘われる様にまだ跡形もない地に歩を進める。
緩やかに地平を渡る奏でに一歩、また一歩と温もりを秘めた軌跡を辿り残して行く。
この体温が引き起こす形跡が美しい大地を穢してしまいそうで微かに心が震えた。
一滴の素雪に歓迎され、後退する事なく僕自身も染まりゆく。
隻影が浮かぶ。
幾つかの物が一定の箇所に集まって、ただ一つの居場所を象っている。
閑かにその存在を漂わせながら。
道標も何もない、遥か彼方に映る目的を目に留めて離す事もなく、見えぬ何者かに導かれる様に歩を進めていた。
手が届きそうな位、近くに感じている対象物も本来は遠く、何もない地平線が距離感をまやかしているのかと惑う程に心淋しく足元を急かす。
遠巻きに届いていた、あの音色も今は風に掻き消されてか、伝う物は残らない。
記憶が呼び寄せた余韻だけがこの胸で優しくこだましている。
目を瞑り、大きく息を吸った。
"あなたにはこの花の色が似合う"と、腕に抱えた花束を降ろす。
温かな燈色の供え物。
菊の花だ。
こうして向き合う事に何処かで躊躇いを覚えていた。
あの日、訪れた死に無関心でいる事が出来ない現実に。
彼の気魂が最期に遺した余力を伝えるほど、あなたの石塔と向き合う事はあなた自身と対面する様な錯覚を起こしてしまう。
手元を離れた花の一絡げ(ひとからげ)が本来、在るべき場所に辿り着いたのだと優しくその花唇を揺るがせていた。
プレゼンス 孔雀 凌 @kuroesumera
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