第七章/玉響
STORIA 100
その反面、物柔らかにこの心に触れる彼の気に何処かで悖る自分自身が存在しているのは、あなたに心許そうと確信する感情の裏返しなのだろうか。
何かが変わっていく。
縦え彼が最終的に僕を裏切る事になっても今、この時だけは拵えのない優しい心の袂に身を置いていて。
幸せとは哀とも呼ぶのだろう。
傷付き、傷付けられて来た僕だからこそ、真実の至福を知る。
幸せを実感する時、必然的に襲う感情がある。
切なさという哀。
何処か悄らしくも、胸中を裂かれる様な愛しさを。
この殊勝をどう伝えればいいのだろう。
僅かな優しさがこの心を揺るがす。
失いたくない、そんな瞬間を。
穏やかな愛しさや時間なんて、僕にはずっと程遠い物だと想っていた。
けれど、偽りのない優しさを知ると、自分の存在位置を弾いてみたくもなる。
視点をずらして眺めてみたくなるんだ。
例えば鳥の視線で自身を眺め降ろしてみる。
そこには、新たな世界が見え隠れしている。
鳥達は空を存分に堪能する事が出来ても、人間だけが知る喜びを分かち合う事は出来ない。
人は感情という、他に勝る物を持ちながら、鳥の様に空を翔る事は叶わない。
だからこそ、覗いてみたくなるんだ。
自分の位置から目にする世界が一変する時、全ての感覚が解放された様な気持ちに陥るのは僕だけなのだろうか。
いや、違う筈だ。
人は皆、望んでいた。
ずっと遠い過去から。
空を舞いたいと願い、発明を繰り返しては、夢を叶えて来たのだろう。
足下を譲らないまま、感情だけを自由に羽ばたかせて。
自身以外の視野世界はきっと、幾つもの物が存在しているのだと想う。
僕はある視点からの光景に強く憧れを抱いていた。
それは成層圏だ。
何故だか深く惹きつけられる魅力があって、この心を確りと捉えて離さずにいる。
地上と宇宙空間との間の、広大な物から比べればほんの薄い層。
この空間もまた、一つの視野世界とも言える。
この場所へ心を弾く時、僕はいつも汚れない、これまで感じた事のない清々さを手に入れる事が出来るんだ。
重く押し上げられない苦しみを抱えている時だって、壮大な光景は癒し溶かしてくれる。
その至福が瞬時で儚く堕ちてしまう物でも、確かに解き放された心地良さとして名残は形を標す。
人はどうして、この碧さに気付いたのだろう。
まるで、運命的とも言える現実での美の景観に、理由もなく涙が溢れそうになる。
意思ある者が夢を追い続けなければ、得られる事のなかった宝の世界だと感じるから、切なさ故に溺れ来る感情の末なのだろうか。
僕にとって人間である事は、その大半が苦で埋め尽されている、小さな箱の中での経過に過ぎない。
どんなに幸福を全身で浴びる時間に出逢えても、そう想う気持ちに変化は訪れないのだと想う。
だけど温かさを知った時、心は少しだけ楽になる。
自分自身を閉じ込めていた狭い箱に脇道が生まれる様に、瀞にも似た閑かな裕りが現れるんだ。
それらは、様々な角度から物事を眺めてみたいという気持ちを起こさせる。
もっと、広い世界を知りたいと願える事が可能となるから。
他から与えられる優しさは新しい居場所へと導いてくれる。
縦え、微かな幸福に一切の保証抔なくても。
美しい物を見て「切ない」と感じる心が人間の本能であるなら、僕の母親も何かに心打たれる事を繰り返して来たのだろうか。
そう信じたいと哀願する気持ちが、想いの錘を確かに取り攫っていく。
きっと、あなたの為に心働かせる事は、結果の得られぬ迷宮巡りと変わらないのだろう。
だけど今は応えなど求めない。
「もう一度……」
感情を籠らせたまま、僕の隣に佇む絲岐さんにそっと意思を傾けてみる。
彼は、この右手が描く物を閑かに見据えながら心だけを譲った。
「もう一度だけ、自宅の風景を描いてみたいんです」
微かに怯える様な表情で彼の方に目を遣ると、その心は肯定も否定もせずに"君が望むなら" と笑顔だけを残し、陽の沈み始めた夕闇に優しい足音だけを響かせ姿を消した。
僕が生まれ育った、あの場所。
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