STORIA 99
「そうですね、空気も清んでいるし。こんな日は朝から晩までここに座っていても悪い気はしないくらい。……見て下さい。今まで雲一つなかった空に、あの大群の鱗が押し寄せて来ようとしています。その迫力が自分の頭上に落ちて来そうな感じがしませんか。そんな瞬間を絵に出来たらと想うんです。秋の……」
話を続け様として、僕は慌てて言葉を呑んだ。
急に頬が熱くなる。
僕は絲岐さんに何を言っているのだろう。
すると彼は、"いーね" と優しく笑った。
絲岐さんは僕の言葉をさらりと受け流したりなんかしない。
彼が親身になって聞いてくれる度に、僕は自分の吐く言葉の一語一語を大事にしたくなる。
その感情は美しい自然を眼前にする度に想う物と酷似する。
植物がはだく瞬間を見落としたくないと乞い願う様に。
瑣末の葉擦れによって聴覚に引き起こされた変化の内容なんて、きっと誰も気にも止めない物なのだろう。
それでも日常の囂々しさから仄かな自然の動きを読み取りたいと想うのは、漆黒に眠る優しさに気付いたからだった。
風が草木に変化を齎す僅かな間が愛しい。
どうか誰か気付いてよ、と健気にその躰を風に戦がせている。
本来なら留まる事なく通り過ぎてしまう些少の刻。
他愛のない事だと、誰が軽く偶っても僕は、僕だけは二度と訪れぬ現象を確りとこの目に焼き付けていたいんだ。
生きて歩んで行く路が淋しさで埋め尽されるなら、一瞬にして迎え入れる事の出来る小さな幸福を浅はかな物だと流したくはないから。
だから足を止めて、彼の言葉の中だけに秘められた優しさを見付けるよ。
気付けば一瞬、一時を宝物の様に掴み離さず受け入れたいと願っている自身がいる。
彼の中から生まれ来る、吐き出された言葉を、淡くも掻き消す様に重なる新しい言詞を大切にも疎ましくさえ想いながら。
どの言葉も大事なんだ、本当は。
ただ新しい一語が古い一語を薄める度に、記憶として植え付けられた物が褪色を増していく……、そんな些細な事に抵抗を感じているんだ。
僕は慣れていなかった。
直接向けられる、偽りのない優しさと瞳に。
日々、何気ない言葉に傷付いていた自分が、今は何気ない優しさ溢れる他人の想いを掬い落としたくないと願っている。
痛みを背負って来た人間だけが知る有難さ、という物かも知れない。
僕はずっと待っていたんだ。
誰かと自身が生み出す"穏やかな風"。
異性を恋慕う強い感情でもなく、絆で結ばれた頑な友情でもなくて、最も確かな繋がり。
彼との繋がり。
そう信じているのが僕自身だけなら、そんな物はなくてもいい。
あなたが、僕という人間を目に足を止め寄り道をしてくれた。
それだけで穏やかな風は生まれていたから。
今居る、あなたの存在が当然の物ではなくて、当然の物がいつ失われても不思議ではない現実なのに。
その姿は自然で、まるで遥か遠い過去から感じ受けている様な気持ちにさえなるんだ。
あなたが言葉を零す瞬間、僕の心に深く染み付いた声がいつまでも色褪せずに残ってくれればいいのにと想う。
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