STORIA 98

「仕事に集中する事よりも、周りの視線を気にし過ぎていたんだよ。その気持ちの方が数倍も大きかった。それに一度に幾つもの事を覚えろだなんて、俺にだって無理だよ。ゆっくりクリアして行けばいいんだよ。いつ、また何か言われるのだろうという緊張感があった為に終始落ち着かなかったのは仕方がない事だ。佐倉君は深く考え込む気質だからなあ。家庭の方でも色々と悩みを抱えているんだろ。知らぬ間に職場の中でも公私混合してしまっていたのかもな。仕事なんて慣れだからね。会社に馴染んでくれば、広い目で物事を見て判断出来る様になって来るものさ。後は自分のそばで働いている人が何をしているのか、手元をよく見てね」




今でもこの心を苦しめる古傷に痛手を隠し切れず塞ぎ込んでいると、絲岐さんの優しい指先が僕の髪にそっと触れた。

「大丈夫。そんなに落ち込む事ないよ。失敗は必ず成功へと君を導いてくれる」

「絲岐さん……」

「言ったろ? 世の中の仕組みはバランス良く、巧みに出来ている物なんだって」

「はい……」

僕が涙ながらに声を零すと、彼は威勢良くこの心を元気付けた。

「……っと、もうこんな時間か。ごめん佐倉君」

絲岐さんは携帯の液晶画面に目をやると、鞄を片手に膝下の埃を軽く払い落とす。

「すみません、僕の話に付き合って貰っていたせいで」

「ごめんな。今日、夜勤なんだよ。今から行かないと。それから何も佐倉君のせいじゃないぞ。俺は嬉しかったけどな。こんな風に君と話せる機会が持てて。じゃ、また。俺はこれで」

そう言った後に彼は急ぎ足で踏み出そうとしたけれど、すぐにまた僕の方へと振り返った。

「あのさ、君はいつもどの辺りで絵を描いているの?」

「え……と、空港から更に西へ進んだ海岸沿いの所です。多くはその場所に居る事が……」

「それなら、俺の勤務先の近くだ。時間が空いた時には君の絵を見に行ってもいいかな?」

「え、はい。僕の絵なんかで良ければですけど……」

たどたどしく応えを返すと、彼が最後に"ありがとう!" と飛び切り優しい笑顔を見せる。

そして静寂の中、姿を消し去った。




僕は彼の優しさと、この指先が描いた物を純粋に必要としてくれる心が嬉しくて堪らなかった。

誰かが掛けてくれる言葉に、微かに震え来る鼓動と胸の奥から込み上げる、何とも言い様のない熱さを躰ごと感じている。

喉元で食い止めているのが極限だった程に。

それでも、僕はあの人の優しさに本心から想いを吐き表す事は未だ期し難いんだ。

彼もまたその真実に気付いている筈だった。

ただ絲岐さんとの出逢いを機に、少しずつ何かが変わって行けばいいと閑かに心に願い打っていた。





「今日はまた、新しい描き方だな」

「絲岐さん」

「よ」

最近では僕がこうして用紙に向かい描く時は大抵、彼が現れる。

背後から一途に覗き込むその姿は、何だかとても嬉しそうだ。

僕はと言えばいつの間にか、そんな光景を受け入れてしまっている様で。

「今日のテーマは空かい? それにしても凄い鱗雲だな」









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