第4話
赤い傘はそれからどこに行ったのでしょうか。
傘は、駅から最寄りの警察署に送られました。
数日後、ある日曜日のお昼頃に警察署に現れたのは、七十代の女性。孫の傘を探して、方々の警察署を回ってきたと彼女は窓口で述べました。
そして預かっていた傘を一目見ると、この傘に間違いないと言ったのです。
老女が警察署から外に出ると、朝方は晴れていた空が、今は薄い雲で覆われ、小雨がしとしと降っています。
彼女はふと思いついて、手元の赤い傘を差すと、ゆっくりとした足取りで灰色の街中を歩んでいきました。
川べりにある、見晴らしの良い公園までくると、彼女はそこで傘を差したまま、しばらく川の流れを眺めていました。すると川下の方からこちらに向かって、黒い傘を差した一人の老人が歩いてきます。彼は彼女を見とめると、おもむろに帽子を脱いであいさつし、二人は並んで静かに公園に佇みました。
「赤い傘は、小さい頃よく差していましたね」ようやく老人が口を開くと、老女は、少女の頃のように、ほんの少し頬を赤らめ視線を下に落としました。
老人が「公園の場所は昔のままですけれど、風景はだいぶ変わりました」と言うと
「幼い頃、よく遊んだ遊具はもう残っていませんわ」老女は答えました。
しばらくすると、老人は老女に
「ご主人を亡くされたそうですね。風の便りに聞きましたが」
「去年のことです。あなたは」
「私も妻を二年前に亡くしました」
「お互い、色々なことがあったようですね」
「はい」
彼がなおもその場を動こうとしないので、彼女は思い切ったように、今度は自分から口火を切りました。
「覚えていらっしゃいますか。中学三年生の頃、私が東京に引っ越す時に、あなたは駅に見送りに来てくれて、私に毎月手紙を書き、きっといつか会いに行くと言ってくれましたわね」
「ええ」
「でも手紙はいつしかとぎれとぎれになってしまいました」
「そうでした。次にあなたと再会したのは成人式でしたね。お互いにもう相手との縁談が進んでいました」
「実はまだあの時、あなたへの未練がありましたの、残り火みたいに」
「そうだったんですか」老人の細い目の瞳孔が急に見開き、彼女の方に自然と体が向きました。
「でも、あなたは奥様を愛してらしたようでしたから」そう言って老女は、川岸の方を向いたまま、身動き一つしませんでした。
二人の間に沈黙が流れました。それから老女はふっと微笑むと
「おかげで亡き夫や子どもと幸せな生活を送れました。だから今の私に後悔はありませんわ」
「そうですか」老人は目をつむり、何かを飲み込んだかのように喉の辺りを動かしました。
「久しぶりにお話しできたのですから、小さい頃の思い出話でもしていきませんか。老人の一人暮らしは本当に退屈ですから」 彼は続けました。
「確かに退屈ですね」彼女もうなづきました。それから二人は、この公園で遊んでいた頃の遠い記憶を思い起こして、しばらく談笑しました。
「ではこの辺で」老女は丁寧に会釈をしました。
「またの折に」老人は再び帽子を取り、別れのあいさつをしました。 それから彼は川下へ、彼女は川上へそれぞれの家に戻っていきました。
老女が帰宅すると、久しぶりに娘と孫が顔を見せに来ていました。
「みっちゃん、探していた傘、玄関においてあるからね」それを聞くや否や、みっちゃんは、玄関に駆け込むとはちきれんばかりの笑顔を見せながら
「あたしの傘、帰ってきたよ!」と喜びました。
みっちゃんの赤い傘 からたち @tsukuba
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