第3話

赤い傘はどこに行ってしまったのでしょうか。


少女の目が覚める数分前、赤い傘をほっそりした手首にかけた一人の女性が、駅のホームを足早に駆けていきました。彼女は傘を見やると、思わず目を丸くしてしまいました。てっきり自分の傘かと思いきや、よく見てみると、子供用であったからです。


そのままにもしておけず、彼女は傘を駅員に預けようと、周りを探しましたが駅員は見当たりません。駅の窓口も覗いてみましたが、用事で出払ったためか、人影はありません。

いっそのこと傍のごみ箱に捨てようとも考えましたが、闇夜に浮かぶ傘の鮮烈な赤色に、自然と見入ってしまい、それができません。

女性はため息をつくと、仕方なく傘を小脇に抱えて自宅に帰りました。



華やかな都心から郊外へと伸びていく在来線の途中にある、小さな町。その一角にある汚れの目立つ古びた白いマンションの一室に、女性は一人で暮していました。


彼女にとって、今日は珍しく早めの帰宅でした。昨日勤務先から帰ったのは午後十時、その前日は時計を確認もせず、布団の上に倒れこみ、途中に夢を挟まず、深い眠りに落ちていました。


彼女は化粧を落とそうと、洗面台の鏡を覗きました。久しぶりに顔をよく見ると眉間の小じわが、前よりも増えただけでなく、より深く落ち込んでいるように見えます。

「照明のせいかしら」気休めにつぶやいてみましたが、あと数日で三十六回目の誕生日がめぐりくることを思い出し、下を向いてしまいました。


彼女はシャワーを浴びると、冷蔵庫から冷えたレモンサワーを取り出し、台所のほの暗い照明の下で飲みながら、携帯の画面を見ていました。

突然、笑い声が開け放したベランダの方から起きました。それはまだ幼そうな女の子の声と男性の声が入り混じっています。

女性の疲れた顔からふっと、穏やかな微笑みが広がりました。

そして彼女は去年の冬の出来事を思い返しました――



このマンションに越してきたばかりの彼女が、隣の家にあいさつに行くと、戸口からTシャツ姿の細身の男性が顔を出しました。


彼は面長のどこか幼い顔立ちで、女性よりも少なくとも十歳ほどは年下に見えました。年齢のわりにはぶしつけなところは少しもありませんが、目だけは、どこか常に一点を凝視しているふうで、こちらと視線が合うこともありませんでした。

「子どもがまだ小さいので、お騒がせしてご迷惑をかけてしまうかもしれませんが」

「構いませんよ」と女性は優しく応じました。

すると彼は、引っ越しでお忙しいでしょう、余りものですがもし良ければ、と断って、タッパーに入れたビーフシチューを、女性に差し出しました。寒さで冷えた手で触ると、まだ出来立てのように暖かいままでした。


それから女性はその男性と朝方に、しばしばマンションの廊下やエレベーターですれ違い、時には挨拶を交わすこともありました。


二度目に会話を交わしたのは、彼と並んでエレベーターを待っていた時でした。お互い目もろくに合わせられず、よそよそしさもまだ拭えませんでしたが、彼の職業が漫画家であること、夜勤でアルバイトをしながら生計を立てていること、そして五歳になる娘がいることを、その時に知りました。


それを機に彼と話をする機会は次第に増え、暖かさが増してくる頃には、公園で、遊んでいる娘さんの様子を二人で眺めながら、ベンチに座って話し込むこともありました。


ある日男性の仕事に話が及ぶと、彼はいつになく饒舌になりました。子ども向けでありながら、古今東西の神話も織り込んだ、幻想的なファンタジーを描きたいという彼の話に、彼女もいつの間にか身を乗り出して聞き入っていました。


彼が妻と数年前に分かれたことを会話のはずみで聞いたのも、その時でした。

「やっぱり、今時いつまでも夢を追っていてもね」作品を語る時とは打って変わり、寂しい微笑みを男性は浮かべました。

彼女は、そんなことはない、私には何の取り柄もないけれど、あなたには若さも、才能もある、努力を続ければ奥さんもいつかあなたのことを見直してくれる時が来るかもしれない、といったことを夢中で伝えました。


すると彼は珍しく彼女の眼を見て、ありがとうと感謝しながら、あなたにも僕にはない、人に共感し、包み込むような魅力がある、と答えました。 

「僕みたいな偏屈な人間と、会話が続くのは編集者とあなたくらいですから」彼女の顔に、久しぶりに笑顔が戻ると共に、年下の男性からの思いがけない賞賛に、頬が紅をさしたように赤くなりました――



「まったく、年甲斐もないってこういうことね」女性は、これまでのことを思い起こしながら、一人苦笑しました。


今日もまた、いつものようにベランダの方から笑い声が起こりました。

しかし今度は娘さんとはしゃいでいるのが、大人の女性だと分かると、レモンサワーの缶を危うく落としそうになりました。


一体誰なのかしら。まさか奥さんが戻ってきたのだろうか。

ふと脳裏に、とんでもない考えがひらめきました。そうだ、今手元にある、あの赤い傘を彼の娘さんに贈れば、その時家の中も覗けるかもしれない、と。


いけない、あの傘は誰の物かも分からないのに、という自制心は、隣人に対する興味の前に、またたくまに消えていました。


目立った汚れや傷もなく新品同然であることを確かめると、彼女はその傘を持って隣の戸口に向かい、勇気を奮ってインターフォンを押しました。

玄関の戸が開くまでに、無限の時間がたった気がしました。


ようやく玄関から顔を出した彼に、彼女は、下を向いたまま、親戚からのもらい物だけれど、私は子どもがいないので娘さんに使っていただけませんか、と傘を差しだそうとしました。ふと顔を上げると、彼の肩越しに、部屋の向こうからこちらを覗く、見知らぬ若い女性の姿があります。

「別れた妻が急に戻ってきてね」男性が小声で早口に言うと、女性に戦慄が走りました。


やっぱり。内心そうつぶやくと、彼女は精一杯の笑顔を見せて祝福し、ごめんなさい、お邪魔をしてしまって、と早々に別れを告げて扉を閉めました。気づけば傘はまだ手元にありました。


好きになったわけではない、あの人はそんなそぶり一つ見せはしなかった。

そう自分に言い聞かせても、女性の頬には何故か一筋の涙が伝いました。

隣の家族、傘、もう何もかも忘れてしまいたいと思いました。


次の日、女性は赤い傘を、駅の窓口に届けました。

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