第2話

赤い傘はどこに行ってしまったのでしょうか。


みっちゃんたちが戻る数十分前のこと。傘置き場から、息を切らせながら出ていく、歳の頃は十二、三程の少年がいました。 彼は急ぐあまり、自分が持ってきた傘とみっちゃんのものを取り違えていることに気づいていません。少年の頬はその傘のように赤く、ほてっていました。


駅に着くと、彼は目を皿のように丸くしながら、行きかう人々を見回しました。すると改札口から同じ年ごろの少女が現れ、彼の様子を遠目から面白そうに眺めています。


いたいた、右も左もわからない、生まれたての子犬みたいにきょろきょろして。


彼女はそう思いながら、少しいたずら心を起こし、彼の背後にゆっくりと近づくと、川中君、と声をかけました。


後ろから突然、柔らかな声を投げかけられて、少年の肩が一瞬跳ね上がりました。振り向くと、爽やかな笑みを浮かべた、彼女が立っていました。少年は少しほっとしたように表情を緩め、前に学校で借りた傘を返そうと思って、と傘を差しだしました。


すると彼女はお礼を言いながら、伏し目がちに、必要だったらいつまでも借りてくれてもいいのに、と付け加え、でも赤い傘じゃ、男の子には似合わないね、と言いました。


「男だって、赤い傘を差すこともあるよ」と少年が夢中で返答すると、そうなの?と首をかしげる少女の口元がほころびます。

「引っ越し先は、どう?」彼の聞き方がいつもより、おずおずとしているようで、彼女には不思議でした。

「ここよりも田舎で静かなところ。でもまだなかなか、学校に慣れなくて」彼女は答えます。

「女子って友達付き合い面倒そう」

「男子だってそうじゃない?学校ってとにかく人間関係が色々、窮屈だし」

「学校だけが人と付き合える場ではないのに」

「ほんとうに、そうよね」彼女が強く肯定する様子から、目に見えない波長がそこでぴたりと合ったような気が、二人にはしました。

「いじめとか、仲間外れにされたりとかない?」少年は心配そうにまた聞きます。

「それは大丈夫、本当にまだ、慣れていないだけだから」

「もし、いじめをする奴らがいたら、僕が学校に行ってぶん殴ってやる」

川中君、相変わらず言い方がおおげさ。でも彼女は悪い気がしませんでした。


「引っ越し先でも、会えるかな」少年は何気ないように、でも本心はあらん限りの勇気を振り絞って、つぶやきました。

「難しいかも」相手を傷つけないよう、ためらいがちに、彼女はその言葉を口にしました。

「前のように学校の後は、ピアノのお稽古もあるし、転校した今では、塾にも通っているの。お父さんもお母さんも、最近は用事もなく人と会おうとすると、色々口うるさくなって」

そっか、といって彼は下を向き、足元の灰色の地面を見つめていました。

それだけ?彼女は肩透かしを食らった気がしましたが、うつむいている彼を眺めているしかありませんでした。



やがて少女はさよならをいうと、改札口に戻ろうとしました。

その時、彼は彼女の背中越しに、不意にこう呼びかけました。

「その赤い傘、また借りに行っていい?」

彼女は振り返ると不思議そうに「どうして?傘が必要になったらクラスの友達から借りれば良いじゃない?」

彼は少しまごつくと、彼女の眼を見てきっぱり、「君」のものだから借りたいんだ、と答えました。


彼女の胸の辺りにぽっと灯がともりました。

通う学校が二つ先の駅前に変わっただけなのに、どうしてかしら、川中君まるで別人みたい。君のものだから借りたいって、それはつまり……

すると彼女は急に恥ずかしさのあまり急に何も言葉が出てこなくなり、そのままホームへ駆け出してしまいました。



そのまま電車に乗った少女は、長椅子の端に腰かけて、脇の手すりに赤い傘を掛けました。

一息つき、まず彼女の頭に思い浮かんだのは、

傘を借りに?もう少し、家を訪ねるのにましな言い訳なかったのかしら。男の子って、見た目は格好つけていても、突拍子もないことをいうものね。


窓の外は次第に明るさを失い、闇に沈んでいきます。いつもより身体が重く、このまま床に沈んでしまいそうに彼女は感じました。

私の方も、返事もできずに、あの場を去ってしまった。川中君、きっと傷ついただろうな。私は携帯を持っていないないし、このままでは彼と分かれてしまう……それもいや。

そのようなことをとりとめもなく考えているうちに、いつのまにか彼女は華奢な体をわずかに揺らし、うつらうつらしていました。


ごとん。突然電車の扉が閉まる重い音に、はっと気が付くと、脇にかけていたはずの傘がありません。


なくしてしまった、もう川中君にあの傘を貸せない。

胸の奥が、鋭い針で刺されたように痛みました。彼女はしばらく喪失感から立ち直ることができませんでした。

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