うつろ

桜々中雪生

うつろ

 死体 死んだ人間や動物のからだ。死骸(しがい)。〔類義の語に「遺体」があるが、「遺体」は人のなきがらを人格性を込めて丁寧に言う場合に用いる。それに対して「死体」は死んだ人・動物のからだを客観的に言う意を表す〕(三省堂大辞林第三版)

 死骸 死んだ人の体。死体。しかばね。(三省堂大辞林第三版)


 友人と大学へ向かう道すがら、道路の真ん中に茶色い塊が落ちているのに気づいた。私の両手から少し溢れるくらいの大きさだ。髪を巻き上げる強風でもちっとも動かない様子を見るに、風で飛ばされるような軽さではないらしい。誰かが落としたゴミかな、危ないな……なんて思いながら目線を前に戻そうとした。けれど、隣で友人が呟いた言葉に、私はそれが勘違いだったことに気づかされる。

「やだ。あれ……ネコの死体? 撥ねられちゃったのかな……」

「あ……あれ、死骸だったんだ」

 言われてみると確かに、生々しい内臓のような赤茶けて砂利を纏ったものが零れているのが見える。行き交う車は、それを気にする素振りもなく、そこに何もないかのように走っていく。

「野良かな。夜、死んじゃったのかな」

「そうかも。昨晩は雨だったから、車の視界も悪かっただろうしね」

「痛かったろうなあ……家族もいたかもしれないし。かわいそう……」

「……そうだね」

 なんとなくそう言わなければいけない気がして、私は友人に迎合した。彼女の言葉に頷きつつも、かわいそうなんて言葉、下に見ているからじゃないの、そう思っていた。けれど、涙ぐむ友人を見て、私は自分がわからなくなった。


 もしかしたら、言葉で線引きをしようとする私の方がずっと下に見ているのかもしれない。


 死体と死骸。どちらも同じものを指すのに、私は、ヒトに死体、それ以外に死骸という言葉を当てはめる。以前辞書で調べたことがある。意味に違いなんてなかった。それでも、それを知っても尚、私はそこに区分を設けてしまうのだ。言葉の響きに、清濁を、あるいはあたたかさと冷たさを見出だすのだ。死骸という文字にどうしても虚ろさを感じ取ってしまう。なんて浅ましい。なんて独善的。

 ヒトと、ヒトでないもの。

 そこに差異を見つけようとしてしまう。


 私が死んだとき、周りの人間は私の抜け殻を見て何と呼ぶのだろう。死体だろうか、死骸だろうか。遺体、と呼んでくれる人も、もしかしたらいるかもしれない。

「ねえ、私が死んだら、美佳は私の身体を何て呼ぶ?」

 友人へは一瞥も遣らないで、まっすぐ前を見たまま言葉だけを放った。まだ少し濡れたままの道路を、したりしたり音を立てながらタイヤが滑る。ハンドルを握った人達が行き交う。誰も、今日自分が死ぬかもしれないなんて憂慮している素振りもない。


「何でそんなこと言うの? 何か辛いことでもあった?」

 首が捥げるんじゃないかというくらいの勢いで私の方を向き、友人は今にも双眸から滴を落としそうだった。あんまり必死の形相だから、却って脱力してしまった。薄く開いた唇から、薄く笑い声が漏れた。

「違う、違うよ。例えばの話。あの猫を見てね、美佳なら、何て呼ぶのかなって、ふと気になっただけ」

「唯は唯だよ。魂とか心とかよくわかんないけど、そういうのがなくなっても、身体だけになっても、その身体は唯のものでしょ」

 間髪入れずに答えが飛んできた。直球ストレート。ずがあん、と耳の奥で音がした。

「そうかあ」

 死んだら、名前が変わるわけじゃないんだ。美佳はすごいな、目から鱗だ。

「そうだよ」

 いつもより半分くらい低いトーンで答える。「もしかして怒ってる?」茶化して聞く。「当たり前じゃん! 冗談でもこんなこと聞かれるのやだよ」本当に怒っているらしい。語気が強かった。

「本当に何もないんだよね?何かあるなら、絶対にすぐ言ってね」

「わかった。わかったってば」

 尋問されるみたいに詰め寄られて、身体までぐいぐい近づけられて、おけらみたいに降参ポーズで立ち止まる。

「そうかあ」

 私はもう一度呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うつろ 桜々中雪生 @small_drum

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ