Chapter 79. さらば和泉眞

 鏡が砕けるようにして東京の上空が割れた。


 キリエスとロプターの激突は、やはり次元の壁を刺激していたようだ。考えてもみればキリエスでさえエナジーの損耗なくして次元移動などできない。先程ロプターが異次元に潜行して難を逃れてみせたのも、世界の境界が揺らいでいたからなのかもしれない。


 天の裂け目からは地獄のように赤い空が覗き、そこから夕暮れ色の虚素レキウムが吹き込んできている。


 あの向こうが、汚染によって滅びたというロプターの故郷に違いない。


 そこから街へと視線を下げれば、運河を隔てた先で火の手があがっているのが見える。ときおり轟音と震動が伝わってきて、ロプターがSSS-Uトライエス・ユニットと交戦しているのだと察せられた。


「――皆、俺もすぐに行く」


 短剣を模した形状の神具、バイフレスター。手に馴染んで久しい、陶器とも金属ともつかない不思議な感触を確かめる。


 空で大音響が轟いたのはそのときだ。


 雷に似ているような気もしたが、規模はそれよりもはるかに大きい。魂そのものを根源から揺さぶるような呼び声に誘われて、もう一度だけ空へと目を戻す。


 赤い異次元の彼方から、地上に向かって垂れ下がるように、蛇の頭が突き出してくるのが見えた。


 ――今のは、やつの鳴き声か。


 頭だけでも途方もない巨大さだ。おそらくはあれがロプターの言っていた「次元を呑み込む大蛇」なのだろう。


 大蛇の実体は虚素の集合体。十五年前に寒原村を焼き払ったゲルミルや奥多摩で戦ったナイズルと質を同じくする、しかし彼らよりも遥かに強大な、世界の終焉を告げる怪物に違いない。


 ――あいつを、討つ。


 意志を研ぎ澄ます。その意志こそが最も強い武器なのだと、和泉は固く静かに意識する。


 ロプターとの戦いから時間が経過していないせいで、消耗したキリエスのエナジーは未だ戻っていない。バイフレスターから感じる力は弱々しく、いつもであれば変身自体が難しいところだ。


 だとしても、和泉には戦えるという確信がある。


「見ていてくれ、ナエ。これが俺の――和泉眞の最後の戦いだ」


 どうしてナエが三分という活動時間を厳しく課してこようとしたのか、その理由が今ならば理解できる。


 ティマリウスとの決戦で限界を超えて力を行使したときから、自分は常人ではなくなっていたのだと思う。自分の魂がキリエスと分かちがたくなりつつあることを、和泉は体感で理解している。


 キリエスが三次元世界で活動し続けるには、魂のエネルギーであるスピリウムが必要なのだ。キリエス自身のスピリウムが底をつきかけているのなら打てる策はひとつしかなく、そしてひとつあれば今の自分には事足りる。


!」


 バイフレスターを、天に掲げた。


「キリエス――――――――――ッ!!」


 どこまでも清澄な光が溢れる。


 虹の橋を駆け上がって、己という存在が高みに至るのを知覚した。これも最後になるのだろうと思うと、はじめはあんなにも苦痛だった第六感――彷徨える魂たちの叫びを聴くことさえもどこか感慨深い。


 自分がキリエスと分離して人の身に戻ることは、きっともうない。


 ――さようなら、和泉眞。


 開眼。


 燃える天王洲へと一直線に、キリエスが飛翔する。



     ◇ ◇ ◇



 山吹の鋭い舌打ちがレーベンのコクピットに響いた。


 空の裂け目から吹き出してきた虚素を突っ切った瞬間、ジェットエンジンの推力が急激に落ちたのだ。ECHOエコーの装備は制服から戦闘機に至るまで防護が行き届いているはずだが、その処理限界を破るほどに虚素の濃度が高いということか。


 ホルダーに挿したECHOPADエコーパッドに目をやると、侵食係数は計測可能値を振り切っていた。控えめに見ても一万ノルダル以上というわけだ。寒気がする。


 そのとき、アラートが鳴り響いた。


「ちぃッ! こんなときに……!」


 下方から魔人の光球が迫る。


 いかに山吹の技量が優れていようとも、機体が言うことを聞かないのではどうしようもない。ふらふらと飛ぶレーベンはひとたまりもなく被弾し、コクピットが激震に揺さぶられた。


「桐島、無事か!?」


「大丈夫だが……このままでは――」


 ガンナー席に座る唯が何を言いたいのか、もちろん山吹にはわかっている。


 身の毛もよだつような濃度のレキウムが外を満たしているのだ。こんな状況で脱出レバーを引こうものなら、瞬く間に汚染にやられてお陀仏だろう。


 かといって、機体がこの状態では無事に不時着できるかも怪しい。そもそも下はビル街で、レーベンが着陸できる広い場所などないのだ。


 ――くそ、粘ったのが仇か。


 空が割れるより前に撃墜されたレーベン二号機は海中に没し、脱出した藤代とサクラは地上から銃火器で援護してくれている。こうなってしまっては、彼らと同じことは自分たちにはできない。


 ――悪い、沙耶佳さやか


 ――おまえが目ぇ覚ますとき、俺はそばにいられないかもしれねえ。


 山吹は奥歯を噛み、操縦桿を握る腕に力を込めた。


 その直後、視界の隅から蒼い光が飛び込んできた。


「キリエス!?」


 次の瞬間には、レーベンの機体は銀色の両手に包まれていた。


 キリエスがゆっくりと高度を下げてゆく。


 巨人の足が地面についたのだろう、柔らかい衝撃がコクピットに伝わってきた。キリエスはそのまま一言も発さず、レーベンをそっとビルの合間に下ろす。


 透明なキャノピー越しに、キリエスが頷きかけてくるのが見えた。


「――和泉、」


 あの野郎の目だ、と山吹は思う。


 ずっといけ好かなかった、若いくせにある種の地獄を見てきたかのような、肚の据わったあのまなざし――。


 後席で物音がした。唯がシートから腰を浮かせた音だった。


「あいつ、戻らないつもりだ……!」


 そんな唯の呟きに、山吹は何も返すことができない。


 黙して見送るべきだと直感が告げていた。


 あれはそういう類の、覚悟を決めた男の眼光に違いなかった。




 レーベン一号機を救ったキリエスがロプターめがけて躍りかかるのを、藤代とサクラは崩落した高架線の瓦礫の陰から見つめていた。


 バズーカは撃ち尽くした。ECHOガンの残弾もすでにない。レーベンが二機とも墜ちた今、SSS-Uとしてできる援護は何もないと言わざるを得ない。


 しかし藤代には、キリエスがもう火力による援護を必要としていないように見えた。


「イズミン、すごい……」


 サクラが思わずこぼした一言に、藤代は心の中で完全に同意する。


 キリエスがロプターを圧倒している。


 ロプターが傷を負っているのも要因の一つではあるのかもしれない。だがそんなこと以上に、キリエスの全身にみなぎるケタ違いの迫力がロプターに反撃を許さない。


 裂帛の気合。


 キリエスが、ロプターを天に向かって蹴り上げた。打撃の瞬間に蒼い光が炸裂し、三万トンをゆうに超えるロプターの巨体を空の裂け目へと吹き飛ばしてゆく。


 そしてキリエスは、ロプターを追うように舞い上がった。


 一切の迷いがない、力強い離陸だった。


「和泉……」


 藤代は、我知らず敬礼の姿勢をとっていた。


 理解してしまったのだ。


 キリエスは――和泉はもう、二度と振り返りはすまい。




 踵から生えた光の翼をはためかせ、キリエスはロプターへと肉薄した。


 鈍色の魔人は息も絶え絶えの状態だ。もとより虚素で汚染された体にキリエスの猛襲を受けたのだ。耐えられる力など残っていようはずもない。


 それでも、ロプターはふてぶてしく笑った。


「無駄なことさ。僕に命への執着などない」


 魔人の胸の結晶体には今も、紫色の光が息づいている。


「肉体が滅びを迎えたときこそ、僕の望みは果たされる。僕の魂は骸を離れてレキウムと融合し、終末の蛇と一つになって、運命という概念としてあらゆる世界に永遠に君臨するのさ!」


 ――そんなことはさせない。


 真理を見抜くキリエスの両の瞳にはすでに、ロプターの野望を砕く手立てが見えている。


 ――返してもらうぞ。


 ――その光は、俺とナエの切り札だ!


 キリエスは右腕を振りかぶり、蒼い光をまとわせた手刀をまっすぐにロプターめがけて突き入れた。


 笑みを広げかけたロプターの表情が、凍る。


 キリエスの手は、ロプターの結晶体を正確に打ち抜いていた。


 光の欠片を掴み取り、腕を引き抜く。


「が、はっ……」


 ロプターが宙でよろめいた。


 キリエスは取り返した光を自らの胸に納める。欠落していた力が万全に戻り、エナジーが五体の隅々まで満ち満ちた。


 鼓動。


 蒼い紋様を伝って、光が血流のように腕へと流れ――


「HaAaaah!」


 突き出した双腕の狭間から光線が奔り、ほとんどゼロ距離からロプターを直撃した。


 異次元に潜行する余裕など、あろうはずもなかった。


「おのれ……キリエスゥゥ――――ッ!!」


 断末魔の怨嗟を響かせて、宿敵は今度こそ消滅した。

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