Chapter 78. あなたはもう一人で歩いてゆける

 みるみるうちに目線の高さが低くなり、心身に満ちていた全能感が失せる。意識が階梯を下って、己の内奥に己が戻ってくる感覚を得る。


 焼け野原となった街の真ん中で、変身を解いた和泉は立ち尽くす。


「終わった……のか?」


「まだよ。ロプターが滅びたからといって、黄昏が訪れなくなるわけではないもの」


 独白のつもりだったが、答えはすぐ隣から返ってきた。白いワンピース姿のナエが寄り添うように佇んでいる。


「……だったな」


 和泉は嘆息するよりなかった。


 ナエの言うことは正しい。小柳恭哉にレキウム入りの液肥を渡したのはロプターだったが、そもそもレキウムの発生自体はあくまでも自然現象――という表現が正しいかはともかくとしても、少なくともロプターが引き起こしていることではなかったのだ。奴が消えたからといって世界の破滅が回避されるわけではあるまい。


 これでよかったのだろうか、と自問がよぎる。


 ロプターが何のためにレキウムを研究していたのかは結局わからずじまいだし、戦っている最中に口走っていたことの真意も今となっては闇の中である。


「浮かない顔ね?」


「しっくりこないんだよ」


 ロプターを倒したことに後悔はない一方で、腑に落ちないものが残るのも確かだ。


 しかし、ナエは首を横に振った。


「私は、あなたは正しい選択をしたと思う」


「そう……なのかな」


「手加減のできる相手ではなかった。そして奴がどういう画を描いていたにせよ、それが実ることはもうない。あなたは友の仇を討ったのよ」


 彼女の声音にはこれまでにない情感が滲んでいる――和泉はそう感じて、しかしすぐに自分の感覚を否定する。


 これまでにない、というのは嘘だ。


 冬山で初めて言葉を交わしたときも、地底怪獣との戦いで変身しようとする自分を止めたときも、寒原村の診療所のベッドの前で口論になったときも、ナエは明らかに感情を発露させていたではないか。


 自分がキリエスに選ばれた者だからだとばかり考えていた。キリエスの協力者としての使命を最優先させるために、自分に釘を刺し続けてきたのだと。


 けれど、違うのかもしれない。


 寒原村は大切な場所だ、とナエは叫んだ。もしも彼女がキリエスの意思を代弁するだけの存在ならば、あんな反応はありえないはずだ。


「なあ、」


 訊かねばならない。


「――君は、誰なんだ?」


 最初にナエを見たとき、他人のように思えなかった。


 それは、十五年前から彼女が自分の中に宿っていたせいだと思っていた。


 だが、理由は別にあったのではないだろうか。


「……そうね」


 ナエは静かに頷き、和泉へとまっすぐに向き直る。


「私の役目も終わりつつある。もうあなたには教えておくべきね」


 キリエスとロプターとの激突が天候をも狂わせたか、空はにわかに曇り、稲妻が轟きだしていた。少女の瞳が稲光の閃きを反射して、見る者を誘い込むような深い彩りを投げかけてくる。


「私は、キリエスの光の欠片を核にして、地球のスピリウムを繋ぎ合わせることで創造された霊的構造体」


 小さな唇が真実を紡ぎはじめた。


「スピリウム……?」


「この宇宙のありとあらゆる生命には、多かれ少なかれ魂が宿っている。その魂の源となる高次元粒子がスピリウムよ」


 高次元粒子。和泉は噛み締めるようにその響きを確かめる。


「じゃあ、キリエスに変身したとき、死者の声が聞こえるのは……」


「キリエスにはスピリウムを捉える超感覚があるから。スピリウムを操ることこそが、キリエスの力の本質だからよ」


「……そうか。ようやくわかった」


 和泉は悟った。ここまで聞いてしまった以上、もはや答えを手にしたようなものだった。


 魂の構成元素たるスピリウム。そのスピリウムを操るキリエスの能力。


 キリエスが初めて三次元宇宙に現れたのも、和泉と邂逅を果たしたのも、十五年前の七月一七日のことだ。キリエスが己の意思を和泉に伝えるためにナエを使わしたのであれば、ナエが生み出されたのもそのときであったはずだ。


 ナエは地球上のスピリウムを繋ぎ合わせて創られたという。だとしたら、彼女の「材料」となった魂の出所は一つしかない。


「ナエ……君は、七・一七で犠牲になった人たちの集合体なんだな?」


 確信とともに放った問いに、ナエは首肯をもって応じた。


「あなたは立派になった」


 固く結ばれていたものがほどけるように、新たな命の芽吹きを祝う春風のように、ナエは目を細めて笑う。


 そして、次の瞬間――





 そのナエの体を、紅色の刃が貫いた。


 あまりに一瞬のことだった。少女の矮躯、白いワンピースをまとった胸の中心から赤い光剣が抜けてゆく様を、和泉は呆然と見つめる。


 音もなく倒れ込むナエを反射的に支えようとして、当然のごとく失敗した。実体を有さぬ彼女の身には、三次元宇宙の住人である和泉では触れることができない。


「賭け、だったよ」


 表情をなくす和泉の眼前で、何もなかったはずの虚空に、むりやり押し広げるかのような歪みが生じる。


 空間を突き破るようにして現れた、鈍色の影。


「ロプター……っ!」


 跡形もなく消滅させたものとばかり思っていた。


 掠れた声で忌まわしき名を呼んだ和泉に、魔人は三日月のように裂けた口で笑みを向ける。


「僕も勝つつもりで戦ったんだけどねえ、やっぱりキリエスの力はさすがだと言うしかなかったな。ちょっとしていなかったら本当にやられていた」


「里帰り、だと……?」


「もっとも、僕のいた次元の文明は侵食元素レキウムのせいでとっくに消えてなくなっているわけだがね」


 つまりロプターは、異次元領域に身を隠すことによってキリエスの光線の直撃から逃れたのだ。


 和泉は信じがたい思いでロプターを見つめる。


 研磨した花崗岩にも似て滑らかだった皮膚は爛れたかのごとく剥がれ落ち、岩肌ほどに荒れ果てた姿を晒している。四肢の末端は風化した粘土めいて崩れ、その傷口から血管を伝って這い上がるかのように、琥珀色の光が赤い紋様に沿って逆流しようとしている。


 まさに満身創痍だ。


 自ら賭けと称したとおり、異次元への潜行はロプターにとって、使いたくない最後の手段だったに違いなかった。


 それでも、敵は賭けに勝利したのだ。


「長かったなぁ……まったく長かった。夕暮れに沈んでいく故郷を脱して、何千万年もの間を彷徨いながら知識を蓄えた。世界を呑み込んだ黄昏――僕の眼に焼きついて離れないあの光はいったい何だったのか、それをどうしても知りたかった」


 くつくつと狂気を孕んだ嗤い声、


「惑星ネリヤはつくづく素晴らしいヒントをくれたよ。彼女たちの造ったAI……ティマリウスといったか、あのコンピュータがどうして『生命を排除する』なんて結論を出したのか、君にはわかるかい?」


 ティマリウス。沖縄で戦った、半人半馬のシルエットをもつ機械仕掛けの支配者の名前だ。


 楽園の統制者として建造された守護神は、創造主から与えられた「秩序の守護者たれ」という命のもと、宇宙から全ての生命を根絶せんとする悪魔に化けた――という顛末を、和泉はネリヤの王女から直接耳にしている。


 しかし、そもそもなぜティマリウスが暴走を始めたのかは語られていない。その理由は王女にもわからないという話だったはずだ。


「エントロピーだよ」


 和泉の答えを待たず、ロプターは滔々とうとうと弁をふるった。


「生命体の存在する宇宙では、生命体の存在しない宇宙よりも高速で侵食汚染が進行する――ティマリウスはそんなメッセージを送ってきただろう? あれを聞いたときにピンときた。エントロピーを増大させ、宇宙の熱的死をく招く……たしかに生命にはそんな性質がある」


 生命が息づくところほど、レキウムが活性化する。


 だとすれば、レキウムの正体とは、何か。


「熱的死はいかなる宇宙も最後に必ず辿り着く、決して避け得ない運命だ。すなわちレキウムとは、滅びそのもの――運命が形を変えたものなのさ」


「運命……」


 和泉の脳裏にフラッシュバックが錯綜する。


 十五年前の寒原村。夕焼け色に光る霧を放散する怪獣を見て、自分はまさに「あれは滅びそのものだ」と直感したのではなかったか。


 キリエスの使命は破滅の運命を覆すことだ、とナエはしきりに口にしていた。


 レキウムが運命の具象なのだとしたら、自分と彼女は図らずも本質を言い当てていたことになる。


「和泉くん、僕たちは似た者どうしだ。故郷を失い、運命の姿を見た。だがね、僕と君には一つだけ決定的な違いがある」


「当たり前だ。あんたと一緒であってたまるか!」


 和泉はECHOエコーガンを抜き、銃口をロプターへと突きつけた。照準の先は胸部。キリエスのそれとは対照的な、赤々と輝くひときわ大きな結晶体だ。


 が、ロプターの態度が揺らぐことはなかった。


「君はキリエスに選ばれ、運命と戦おうとした。僕は違う」


「なんだと……?」


「僕はレキウムの輝きにこそ焦がれた。――逃れ得ぬもの、神の力をもってしても抗えぬものを運命と呼ぶ。レキウムが運命であるならば、僕はレキウムに身を委ね、運命と一つになってみせる!」


 そしてロプターは、握っていた左手を開いた。


 レキウム汚染に冒された五指が、蒼い光の塊を掴んでいる。


「それは、ナエの……!」


「ご明答だ。僕にはこれが必要だった。高次元粒子を繋いで合わせるキリエスの光の欠片が、僕をレキウムと一体化させてくれる!」


「――くっ、させるか!」


 和泉は引き金にかけた指へと力を込めた。しかし、ECHOガンが火を噴くよりもロプターの行動のほうがわずかに早い。


 ロプターは、ナエの体から抜き取った光を、ほんのわずかの逡巡もなく自らの結晶体へと突き入れた。


「君や皆との仲間ごっこはなかなかに楽しめたが――」


 哄笑、


「何もかもはこの刻ときのため! 次元を呑み込む大蛇が現れるとき、大いなる冬は終わり……僕は遍く世界を支配する運命そのものとなるのさ!」


 蒼光を吸収したロプターの結晶体が、濃い紫色へと染まってゆく。もとから魔人自身に備わっていた赤いエナジーとキリエスの蒼いスピリウムとが融合している。


 放射されるエナジーが正面から和泉を叩いた。


「ぐ、ッ」


 和泉の右手に激甚の痛みが走る。手首から先の感覚が熱と衝撃を最後に失せる。


 音を立てて地面に転がったのは、銃の残骸。


 ロプターを狙ったままだったECHOガンがエナジーの波濤に灼かれ、装填されていた弾丸の火薬が爆発したのだ。


 辛うじて手は繋がっている。


 が、動かすことはできない。バイフレスターへの持ち替えが致命的に遅れ、


「僕が目的を果たすために、君たちは決して欠かせないピースだった。感謝と……お別れの言葉を捧げよう」


 鼓動のリズムで明滅する紫紺の光が、ひときわ強く跳ねた。


「さようならだ、キリエスに選ばれし者よ」


 ロプターが再び全方位に向かってエナジーを解き放った。魔人の体を中心にして半球状に爆圧が吹き荒れ、あたりの瓦礫を塵芥へと変えてゆく。


 避ける手段はなく、和泉は間に合わないことを悟りながらもバイフレスターを抜こうとした。


 そのとき、絶叫が耳をつんざいた。


「――やらせは、しない!」


 ナエ。


 貫かれた胸の傷から淡いきらめきを漏れこぼしながら、それでも小さな導き手は立ち上がった。か細い少女の体から、ロプターのエナジーにも引けを取らぬほどの壮絶な光輝が迸る。


 やわらかな光が和泉を包んでゆく。


 迫る熱波を振り切る速さで、ナエと和泉は蒼い矢となって戦場を脱した。




 お台場からはすっかり人気ひとけが失せていた。


 テレコムセンターの膝元に広がるシンボルプロムナード公園の西側、滝のように流れ落ちる噴水の前に、和泉とナエは投げ出されるようにして着地した。


 二人を包む光がたちどころに弱まり、消える。


「ナエっ!」


 和泉はすぐさま身を起こして、窮地を救ってくれた少女のもとへと駆け寄った。


 ナエは空を仰いで倒れたまま動かない。


 小さく細い肢体をひと目見るなり和泉は表情を歪めた。ひどい有様だった。胸に空いた風穴からは光の漏出が止まらず、手足には亀裂が走ってこの瞬間にも体のほうへと広がり続けている。


 スピリウムを結合させるキリエスの光を奪われたせいで、霊体としての形を保つことができなくなっているのだろう。


「俺の中に戻って休め! 絶対にロプターから光を取り返してやる。そうすれば」


 ――そうすれば、彼女は以前鬼と対決してダメージを負ったときのように、傷ついた身体を癒すことができる。


 ところが、ナエはゆっくりと首を振った。


「私があなたを手伝えるのは、ここまで」


「バカ言うな……諦めるには早いだろ!?」


「これでいいのよ。私は死せる魂を集めて創られた、意思をもつ人形……もとよりいつまでもあなたに寄り添うことはできない存在だった」


 和泉は口を詰まらせ、震える息を吐いて俯く。


 失いたくなかった。


 村を離れてからずっと、後ろめたい気持ちを抱えてきた。


 ナエが七・一七の犠牲者たちの魂だというのなら、十五年間、彼女はどんな思いで自分を見守ってきてくれたのだろう。


 自分はまだナエに報いることができていない。そして今、その機会は永遠に失われようとしている。


 こんな状況に陥ったのも、もとをただせば基地で周防の犯行を暴き立てたからではないのか。あれさえなければ彼はロプターとしての姿を現さず、ナエが己の核を強奪されることもなかった。


「眞……そんな顔をしないで」


 ナエの口元に浮かぶ、穏やかな微笑み。


「あなたの選択は正しかった。あなたが行動したことで、少なくとも一つの運命は変わった」


 和泉の中でぐるぐると巡っていた自責の念が、その一言で回転を止める。


 ――たしかに、そのとおりだ。


 キリエスが見せたヴィジョンでは、周防は天王洲で初めてロプターに変身するはずだった。そのとき撃たれて命を失うのははずなのだ。


「生ける者の身代わりになって消えることができるなら、私がこの世に留まった意味もゼロではなかったというものよ。……私は満足しているわ」


 噴水の音だけが聞こえていた。


 十回の呼吸の間をおいて、ナエはもう一度口をひらいた。


「ねえ、眞……」


「なんだ?」


「実は私、夢の続きを見ていたの。あなたは途中で目覚めてしまったけれど、私は最後まで見届けることができた」


「……どうなった?」


「夢の中で、キリエスは勝ったわ」


 意味を咀嚼するのに時間がかかった。


「キリエスが……勝った?」


 自分が最後に見た情景は、黄昏色の光をまとう何者かに向かってキリエスが挑みかかっていく場面だ。


 あそこからキリエスが勝利したというのなら――


 もし自分が今日ブリーフィングルームで事を起こしていなければ、予知夢は現実のものとなり、世界は滅亡から救われてキリエスは使命を果たせていたことになる。


 ナエはそのことを知っていた。


 知っていたうえで、和泉の行動を止めなかった。


「これが私の意思……あなたを信じるという、私の意思」


 白い手が和泉の顔へと伸びてくる。


「あなたにはもう、過去わたしに囚われる必要なんてない。自分の足で前に進み、自分の力で望みを掴み取ることが、あなたにはできる」


 小枝のごとき指が、流れ伝う涙を拭うようにして輪郭をなぞった。


 触れられた感覚はない。ただ、そこに少女が実在したのだという温もりだけが頬を撫でて去ってゆく。


「行きなさい眞。あなたは、世界の切り札――……」


 言葉を最後まで紡ぎ終わらぬうちに、無数の光の粒子が散った。


 ナエが風の中に還ってゆく。

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