Chapter 72. 喪失の日

 復興作業者用のバラックの群れと、村の新たな中心になるであろう再開発区画とに挟まれた中間地点。こぢんまりとした診療所を内側から木っ端微塵に吹き飛ばしながら、「それ」はひどく奇怪な産声をあげた。


 金切り声、と形容するのが最も近い。


 その咆哮に特定の感情を見出すことは難しい。内なる虚無を発散しているようにも思えたし、いくつもの想念を束ねて叩きつけているようにも聞こえた。


 うずくまるような姿勢をとっていた「それ」は、まるで今初めて自分が動けることに気づいたかのごときつたなさで、緩慢に身を起こす。


 二つの足が地を踏みしめ、背筋がすうっと伸びきったとき、「それ」の頭は村のどの建造物よりも高い位置にあった。


 ゆっくりと首が廻ってゆく。


 背後のバラック群を視線が舐めて、涸れた川の跡へ、そして真新しい家のまばらな並びへと移ってゆく。


 何かを探すような仕草だった。


 もしもそうであったとしたなら、探し物は見つからなかったに違いなかった。


 天を仰いだ貌の中央、開かれた口腔からふたたび叫びが迸る。


 雨音を裂くその響きは憤りか、あるいは哀しみか。耳にした者の中にそのことを判別できる人間はいなかったし、もしかすると「それ」自身でも理解していなかったかもしれない。


 宍色ししいろの脚が前に出る。


 進む先は、慰霊式典の開催予定地――落成したばかりの資料館だ。




 瓦礫の山が弾け飛んだ。


 和泉である。


 解き放たれるなり、一切の脇目も振らずに走り出す。建物ひとつの崩落に巻き込まれたにもかかわらず、防護服に包まれた体には傷一つたりともついていない。


 ナエによって護られたからだ。


 キリエスによって遣わされた小さな守り手は、危険を察知するなりバリアを展開して和泉の周囲を半球状に覆った。瓦礫と虚素レキウムの嵐を受け止め、然るのちに外側に向かって炸裂させることで、降り積もった建材の残骸を押し退けたのだった。


(こうなった以上、やることは一つしかない。わかるわね?)


 ひと仕事を終えたナエは和泉の中へと引っ込んでおり、姿は見えない。しかし、その声だけは今も和泉の頭蓋の内に響いて、使命を見失いそうな彼の心を叱咤し続けている。


「…………ッ」


 和泉の口の奥で、噛み締めた歯がみしりと軋んだ。


 ――なぜだ!


 湧き上がる言葉は、疑問ではなく怒り。


 ――なぜ、いきなり侵食汚染が復活したのか。


 ――なぜ、よりによって恭哉なのか。


 ――なぜ!?


 思考が堂々巡りを繰り返す。不可解なことが多すぎるせいもあったが、何よりも視界に広がる光景の既視感が和泉の脳ミソを止めていた。


 黄昏色の光を放散する怪獣が、村を踏み潰してゆく。


 まるで十五年前のあの日にトリップしたかのようだった。


 けれども――本当にそうならどんなに良かったか。


 今の自分には力がある。怪獣がすべてを焼き尽くしてしまう前に、銀色の巨人へと変身して人々を護ることが自分にはできる。


 しかし、もはや詮無せんないことだった。


 時間は戻らないのだ。


 遠い日に村を滅ぼした怪獣はキリエスによって葬られた。そして今、目の前で村を蹂躙しようとしている怪獣の正体は、誰よりも村の復興のために尽力しようとしてきた小柳恭哉その人なのだ。


「これが――」


 怨嗟が喉から迸った。


「こんなものが、運命だっていうのかよ!」


 もう沢山だ。魂の根源からそう思った。


 赦せなかった。


 視界の中で、さっきまで小柳であったモノが歩を進める。数万トンの体重がのしかかるたびに大地が揺れ、伝播してきた振動が和泉の足元を突き上げた。


 和泉は足を止めない。


 人型を崩したような姿の怪獣はすでに復興区画まで達し、ひときわ目立つ構造物をめがけて今にも腕を振り下ろそうとしている。慰霊式典が行われるはずだった、七・一七の資料館に。


 ――駄目だ、恭哉。


 ――おまえがそんなことをしちゃいけない!


 和泉は防護服のファスナーを下ろす。虚素が吹きつけてこようと知ったことではなかった。どうせ何をしても自分だけは死なない。ナエが――否、キリエスが自分を生かして離すまいという自棄にも似た確信がある。


(運命を打ち破ること――)


 耳朶の奥にこだまするナエの言葉を聞きながら、懐からバイフレスターを引き抜いた。


(それがキリエスに選ばれた、あなたの使命よ)


 感情は大時化おおしけの海のごとく乱れている。にもかかわらず、心の深奥は奇妙なまでに凪いでいる。


 覚悟が決まったときの感覚だった。


 和泉は、涙を落とし続ける曇天を仰いで吠えた。


「キリエス――――ッ!!」


 ここで変身することの意味は理解しているつもりだ。キリエスの感覚器官は迷える魂の声を捉える。かつて数多の命が犠牲になったこの地で戦えば、自分は正気ではいられなくなってしまうかもしれない。


 だが、構うものか。


 たとえこの身から自我が消え失せ、和泉眞がキリエスの中に溶けてしまうような結末が待ち受けているのだとしても、この場で戦わないという選択肢はあり得ない。


 ――恭哉の魂を救う。


 今、やりたいこととやるべきことが重なっているのだ。


 それがキリエスの力なしには成し遂げられないことであるなら、自分は和泉眞でなくていい。




 混濁した意識の中で、「それ」は標的を見つけた。


 眼前の地面からはいくつかの箱が生えている。ほとんどは爪先で蹴れば吹き飛ぶような取るに足りぬものだが、ただ一つだけ、こちらの脛の半ばほどまでの高さの箱が紛れているのだ。その最も大きな一つを視線が舐めたとき、レキウム漬けの脳ミソが言い知れぬ不快感を覚えた。


 ――あれは、あってはならないものだ。


 何故そんなふうに感じるのかは「それ」自身にもわからない。もしかしたら理由はあったのかもしれないが、そうであったとしてもとうの昔に忘れてしまったに違いなかった。思考は脳裏に浮かんだそばから蒸発していき、手元には塵ほども残らない。


 灼熱のレキウムで焦げる肺腑が、蒸気混じりの息を吐き出す。


 熱に浮かされる本能のまま「それ」は腕を振り上げ――


 動きを止めた。


 否――正確に言えば「止めた」のではない。止められたのだ。背後に現れた何者かが、掲げられた「それ」の腕を掴んで押さえつけていた。


「ZeeAhh!」


 裂帛の気合が響いた直後、「それ」の視界が一八〇度回転した。


 一瞬の浮遊感。そして硬い地面が体を打つ鈍い衝撃。


 苦痛にもがいた。


 打ちつけた箇所の痛みではない、レキウムによって内側から身を焼かれる苦しみだった。


 激しい雨が肌に当たり、熱に炙られて蒸発してゆく。


 皮下ではすでに侵食拡大現象が発生し、体の至るところに輝く斑点を浮き上がらせていた。立ちのぼる蒸気が黄昏色の光を散乱させ、奇怪な「それ」の影を虚空に投げかける。


 身を起こす。


 そのとき、「それ」は己を投げ飛ばした何者かを検めようとしたわけではなかった。あれほど打ち壊さねばならないと思った箱の存在も、もう「それ」の頭の中からは消え失せている。視線がそちらを捉えたのは、ただ苦痛に身をよじった際たまたま顔が向いたからに過ぎない。


 箱の群れを守るようにして、銀色の巨人が立ち塞がっていた。


 巨人が自分を滅ぼしに来た裁定者であることは、茹だった「それ」の思考回路でも直感的に理解できた。


 しかし、不思議と恐怖はない。


 眼の奥が疼く。まるで幻肢痛のようなむず痒さとともに「懐かしい」と感じるのは、失われた記憶の残滓が巨人に反応するせいだろうか。


「それ」は鳴き声をあげた。


 巨人が、清冽にきらめく腕を前方にかざした。


 目の前が蒼く染まったと思った。その光の奔流が「それ」の網膜に焼きついた最後のものだ。


 体が溶けて崩れていく。


 蒼い光の渦の中、知っていたはずの誰かの顔がちらついたような気がした。だが、その男が誰であったのか思い出すのを待つことなく、「それ」の意識は永遠にこの世から旅立ってしまった。



     ◇ ◇ ◇



 それからの一週間は慌ただしく過ぎ去った。


 ECHOエコーによる立ち入り調査が行われたが、結果は概ね以前と変わらなかった。小柳恭哉が変異した怪獣――コードネームは「ノスタルガ」と名づけられた――によって撒き散らされた影響を除けば、寒原村のいかなる場所においても、虚素の自然発生はついに確認できなかったのだ。


 世論は今も紛糾をきわめている。ニュースでは責任の所在を巡って荒れる議会の様子が連日流されているし、村に出入りしていた各国研究機関が「村の土壌や大気に異常は見受けられず」と相次いで発表したことも報じられた。デマゴーグと陰謀論者にあふれるSNSからは、良心などすっかり失われてしまったかのように見えた。


 和泉はそれらの情報すべてを取り憑かれたように見聞きし、だが一切に反応せず沈黙を保ったままでいた。


 そして、一週間後。


 藤代隊長から休むようにと強く言い渡された期間が明けて、基地のブリーフィングスペースに顔を出した和泉は、まっすぐに藤代の目を見据えて口を開いた。


「――お話があります」

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