Chapter 71. 蜃気楼に消える
診察室は実に質素なつくりだった。
都市の大病院や基地のメディカルセンターと比べるほうがどうかしている。頭ではわかっているが、事が侵食汚染とあってはそんな納得には塵ほどの価値もない。ここの設備では治療を試みるどころか、汚染を閉じ込めておくことすらできやしない――見れば見るほどそう痛感させられる。
和泉はベッド脇の壁にかかった装置へと目をやる。レキウム計測器。研究者の誰かか、もしくは周防が持ち込んだに違いない。
侵食係数、四七・三。
ひとまず容態が落ち着いているという周防の言葉に嘘はなかった。黄昏色の光は収まっている――通常ではありえないほど高い数値には変わりないとしても。
そのとき、シーツに包まれた小柳が身動きをした。
「恭哉っ!」
「その声……和泉か……?」
「ああ、俺だ! 苦しくないか? 寒気は!?」
小柳が声を頼りにしたのはこちらが防護服を着ているせいだと思った。頭部もヘルメットにすっぽり覆われているから、小柳からはゴーグル越しにこっちの目元が見える程度だろう。
が、次に小柳が発した言葉を耳にして、和泉は眉をひそめた。
「走るなよ、危ねえって……」
「……恭哉?」
「タク……ケン……キッカ、ツバキ、シン……なあ、待ってくれよ、オレを置いていかないでくれ……」
表情が凍りついてゆくのが自分でもわかった。
タク――
ケン――
キッカ――
ツバキ――
それらは全て、いなくなってしまった者たちの名前だった。
小柳は、傍らに立つ和泉の声を聞いていない。
小柳の耳に届いているのは、十五年前の災害で喪われてしまったかつての友人たちの囁きだ。彼ら四人に和泉と小柳を加えれば六人になる。たったひとつしかない教室で机を並べていた、六人の仲間に。
怖気が身体じゅうを駆け巡った。和泉は掴みかかるように叫んだ。
「ダメだ、行くな恭哉! そこにいるのは俺じゃない! 皆だっておまえに来てほしいだなんて思っちゃいないぞ!」
小柳が目を開ける。
瞼の下から現れた眼が、黄昏色の輝きを宿している。
「ケン、ツバキ……あんま近づくなよ……川、そのへん、深い……」
渇ききった唇から、掠れるような呟きが漏れはじめた。
「――光? ああ……そうだよ、蛍、だ……水がきれいなところでしか……見られないん、だとさ」
和泉はもはや言葉もなかった。
「この村が、きれいだって……こと、かって? ――ああ……そうだよ、そのとおりだシン……オレは、この……村、を――」
耳を塞げと狂ったように感情が叫び、しかし手がそうすることを拒否していた。小柳のうわごとを一字一句たりとも聞き逃してはならないと、心ではなく体が知っているのかもしれなかった。
――ふざけるな!
認めない。認めるわけにはいかない。
今こそが彼の声を聞く最後の機会だということなど、絶対に――!
立ち上がる。
懐に手を伸ばし、バイフレスターを引き抜いて、
「――眞、だめよ!」
白い細腕に止められた。
ナエだ。
それがどうしたと反射的に頭に血が上った。実体を持たないナエに取りすがられたところで障害になりはしない。少女を振りほどく必要さえなく、和泉がその気になればバイフレスターを掲げるのはたやすいことだ。
できなかった。
「どうして止めるんだよ!?」
激情が喉から迸った。
「ヘリや救急車が来れないっていうんなら、俺がキリエスに変身して街まで運べばいいだろ!? 街にはもっと設備の整った病院があるんだ、そこでなら――」
そこでなら。
和泉の言葉が詰まる。頭の中がすうっと冷えて、その先を口に出すことがどうしてもできなくなった。
しかし、ナエは容赦してなどくれなかった。
「そこでなら何ができるというの? ……手遅れよ。街になんて連れて行ったら、逆に犠牲者が増える」
「っ……見殺しにしろって言うのか!?」
「――私だって!」
ナエが顔を上げた。
ナエの瞳が潤んでいた。
彼女がこんなにも感情を見せることは今までになかった。
「私だって、彼が瘴気に呑まれるところなんて見たくはないわよ。けれど、ここまで冒されてしまっていてはもう手の施しようがない」
――ここは私にとっても大切な場所だから。
バラック小屋で彼女が発した台詞を、和泉はやはり問いただしておくべきだったのだろう。機は逸した。和泉にもナエにも、昨夜のことを蒸し返す余裕はすでにない。
そのとき、小柳の呟きが絶叫に変わった。
「――いけない!」
ナエが高々と腕を掲げ、蒼い光の障壁を発現させる。
次の瞬間、爆風が吹き荒れた。
壁にヒビが入り、天井が砕ける。黄昏色の光の波に灼き尽くされる視界の中で、和泉はレキウム計測器の数値が「八二・四」に跳ね上がるのを垣間見る。
――最後まで、誰一人として気づくことはなかった。
小柳が寝ていたベッドの裏、和泉からは完全な死角となる位置に、小さな機械が仕掛けられていたことに。
当然、その機械がこの部屋の音声をリアルタイムで外部へと送信していたことなど、和泉もナエも知る由がなかった。
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