Chapter 70. 閉ざされた村で

 小柳が起きてこない――。


 和泉がそんな話を耳にしたのは、午前十時を少し回った頃のことだった。


 窓の外から容赦なく飛び込んでくる激しい雨音と、それに負けないほど大きな、ドアの向こうで鳴り続けるノックの音。隣の部屋だということはすぐにわかった。満足に眠れずぼうっとしていた頭が一瞬で冷め、和泉は軒先へと飛び出して小柳の部屋のほうを見た。


 作業着に身を包んだ男と鉢合わせた。


 聞けば、男は復興活動を行っているNPOの人間らしい。


 九時半からの打ち合わせに顔を出すと思われていた小柳代表が姿を見せない。代表が時間に遅れたことは今までなかったから、もしや何かあったのではないかと思って様子を見に来たのだ――男はそう語って、困りきったふうに眉尻を下げた。


「まあ、ちょっとした現場のミーティングだから代表がいなきゃいけないってわけではないし、実際出てもらう予定だったわけでもないんですけどね。ただあの人、いつも来てくれてたから気になって」


「……すみません、ゆうべは俺と飲んでたからそのせいかも」


「代表のお知り合いですか?」


「昔馴染みです」


「すると、寒原村の……いえ、あなたのせいというわけではないと思いますよ。代表も同郷の方と会うのは久しぶりでしょうしね、嬉しかったんでしょう」


 男はほっとしたように相好を崩す。


 しかし、和泉の心にはすでに黒々とした雲が兆していた。ゆうべナエが残していった不吉な予言が想起される。よくない胸騒ぎが止まらない。


 和泉はドアに向き直ると、強く叩きながら声を張りあげた。


「恭哉! 起きろ!」


 返事はいっこうに返ってこず、和泉はますます表情を濃く曇らせる。声のボリュームと通りにはそれなりに自信があるつもりだ。さして広い部屋でもなかったし、聞こえていないということはあり得ない。


 小柳の部下もいよいよ怪訝そうな面持ちを浮かべて、


「……さすがにおかしいですね。これほどうるさくしてるのに、中から物音ひとつ聞こえてきませんよ」


 和泉は即座に答える、


「ドア破ります」


 なにもそこまでしなくても、と止められる前に和泉は行動に移った。


 施錠されているとはいっても、所詮はバラック小屋の薄っぺらい建具である。鍛えた男の体重で勢いをつけて体当たりすると、ベキッという嫌な悲鳴とともにドアはあっけなく倒れた。


「恭哉、いるんだろ!?」


 玄関へと踏み込んで部屋を見渡した。


 電気がついている。洗面所の扉が開けっぱなしになっている。


「恭哉――」


 そして和泉は、自分の顔から血の気が引く音を聞く。


 扉の隙間から人間の足が突き出ていて、その奥ではこの場で絶対に見たくなかった色の光芒が不規則な明滅を繰り返していた。


 末期侵食汚染の光であった。



     ◇ ◇ ◇



 村にひとつしかない診療所は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


 小柳は今、診察室のカーテンの奥のベッドに寝かされている。


 先程からひっきりなしに防護服をまとった男女が出たり入ったりしている。その中に、廊下の長椅子に腰を沈める和泉へと注意を向ける者はいない。


 あの人たちのうち何割が医者で何割が研究者なんだろう――和泉は漠然とそんなことを考える。村を実験場にされているような気がして好きになれなかったが、今となっては彼らの存在に頼もしさすら感じる。


「……いや、違う。そうじゃないだろ俺……!」


 和泉は、胸によぎった安堵をもぎ取って捨てた。


 研究者たちの本国にある施設なら期待も持てるかもしれない。だが、ここにはセーフティレベルの高いエアロックもなければ、最新鋭の素粒子観測設備があるわけでもないのだ。彼らがどんなに優秀でも、持ち運びサイズのレキウム計測器で解明できることなどたかが知れている。


「せめて大きな病院に運べれば……」


「――それは不可能だろうね」


 唐突に診察室の扉が開き、防護服に身を包んだ男が姿を見せた。


 なぜ相手が男だとわかったのかといえば、声に聞き覚えがあったからだ。和泉は思わず腰を浮かせた。


「副長!?」


「やあ。奇遇……というわけでもないか」


 男がフードと防毒マスクを外す。マスクの下から現れた顔は、やはり和泉の想像したとおり、SSS-Uトライエス・ユニット副長・周防昌毅その人のものであった。


「なんで副長がこんなところに?」


「ここの研究員とはよく連絡を取り合う仲なんだよ。僕だって虚素については詳しく知りたいからね。こうやって実際に来ることだって初めてじゃない」


 初耳だ。


 とはいえ、そのことを追及している場合ではないとわかってもいる。自分が寒原村の出身だということは隊の誰もが知っている事実だ。自分の前でおいそれと村の話をしないだけのデリカシーが副長にも備わっていたのだろう。


「その……病院に運ぶのが不可能、というのは?」


「場所と天候の問題だよ」


 これまで周防の口から出たことのない神妙な声音、


「まず場所についてだけど、この村、電波が通じないだろう?」


 和泉は首肯する。プライベート用のスマートフォンは所持しているが、村に入ってからというものアンテナは一本も立っておらず、実質的にちょっとかさばるデジタル時計と化している。


 電波が届いている機器といえば、せいぜいアナログのラジオくらいだろう。とても無線通信など試みられる環境ではない。


「でも、固定電話ならありますよ。バラックの恭哉の部屋でも見たし、この診療所にだって――」


「使えないんだ。実際試したけど繋がらなかった」


「どうしてです?」


「大雨のせいかもしれない。もっとも、仮に断線じゃなかったとしても、この天気ではドクターヘリを飛ばすのだって難しいだろうがね。救急車を呼ぼうにも――」


 そこで周防は言葉を切ると、防護服のポケットに手を突っ込んでポータブルラジオを取り出した。


 厚手の手袋に邪魔されて細かな操作ができないのだろう、周防は指先でスイッチを入れようとして二度失敗する。爪を立てるようにして押し込まれた三度目が功を奏して、次の瞬間、スピーカーからニュース音声がこぼれはじめた。


『――今朝から降り続いている大雨の影響により、旧寒原村へ続く県道五二六号にて土砂崩れが発生しました。死者・負傷者は出ていませんが、村内には復興作業中のNPO職員や本日行われる予定の慰霊式典の参加者が留まっており、帰宅困難となるおそれが懸念されて――』


 周防が無言でスイッチを切る。


「このとおりの有様だ。連絡は繋がらない、繋がったとしてもこの村に助けを呼べる手段がない。雨がやむまでここは陸の孤島というわけさ」


「そんな……!」


 周防が悪いわけではない。そんなことは和泉とて百も承知だったが、食ってかからずにはいられなかった。


 もうすぐ恭哉の活動にひとつの成果が出るのだ。こんな道半ばで彼の命を諦めていいはずがない。


 何かないのか。何か――


ECHOPADエコーパッドは?」


 答えを求めて彷徨さまよった思考がひとつの可能性を拾い上げた。


 人工衛星を介して通信を行うECHOPADなら、この村でも問題なく回線を開けるはずだ。一般の救急搬送システムが稼働できなくても、ECHOエコーにさえ繋がれば助けを呼ぶ手立てはある。


「実に言いにくいんだが……」


 が、苦し紛れの思いつきが周防の閃きを促すことはなかったらしい。


「君と同様、僕も今日は一介の研究者として来ているんだよ。ECHOPADは基地のロッカーの中だ」


「……そう、ですか」


「気の毒だが、友人なら覚悟はしておいたほうがいい。――ひとまずは容態も落ち着いてるから、会っていったらどうだね」


 いま会っておかなければ心残りになる。そんな意味を言外に滲ませて、周防は歩み去っていった。

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