Chapter 68. 閉じた瞼に映らぬもの

 やはり有志が町で買い出してきた米と卵と豚肉、それから小柳のプランター菜園で採れたタマネギを使って、ごくシンプルなチャーハンを作って食べた。


 調理したのは和泉だ。


 荷物の中のカセットコンロを使おうかと思ったのだが、小柳の部屋にはキッチンが備わっていたのでそちらを利用した。バラック小屋といえども長期の居住を前提に建てられているということか、最低限のインフラはとりあえず整っているらしい。


「ぱっと見は貧相だけどな。男ひとりなら居心地は案外悪くない」


 とは小柳の弁である。


 そこから互いに缶ビールを三本空け、小柳がどこぞの土建屋の社長からもらったというバーボンの大瓶を持ち出して、積もる話を肴にひどい飲み方をした。


 慰霊式典は明日の十四時から行われる。


 二人が酒盛りを切り上げた理由はしかし、これ以上は式典への出席に差し障ると判断したからではなく、単に酒の蓄えがなくなったためであったように思われる。


「ちょっと羽目外しすぎたかな……」


 和泉があてがわれた部屋に移動したとき、時計は二十三時を指していた。


 ――まあ、抜けるだろ。十五時間もあれば。


 歯磨きセットと洗顔剤を取り出して風呂場を兼ねた洗面所に向かう。チューブから絞ったペーストを歯ブラシに塗り、口に突っ込んだところで顔を上げた。目の前には当然ながら鏡がある。左右の反転した自分がこちらを見つめ返してくる。


 次の瞬間、和泉は心臓が縮むほどの驚きに駆られて激しくむせた。


 白いワンピース姿の少女が背後に立っているのが見えたのだ。


「どうしたの」


 少女――ナエの問いかけは蛇口から流れる水音に紛れて和泉の耳には届かない。和泉は舌を刺すミント味を洗い落とし、最後にもう一度口をすすいで、半分くらい青ざめた顔色を隠さず振り返る。


「……あのさ、このシチュエーションでいきなり後ろに出るのは勘弁してくれ。さすがにびっくりするから」


「そう? 気をつけるわ」


 答えるナエの声は実に涼やかで、反省の念が含まれているようには思えない。出会ってから十ヶ月が過ぎようとしているが、人間と幽霊とでは感覚が違うのか、こっちの言いたいことを汲み取ってもらえない場合が未だにある。


 ――まあ、いいけどね。


 すっかり元気になったみたいだし――と、和泉はナエの細い手足を眺めながら内心ほっと息をつく。


 先月の戦いで負った傷は完治している様子だ。


 重い怪我のように見えたから長引くのではないかと心配していたのだが、これもキリエスの加護のうち、ということかもしれない。


 もっとも、手放しで喜ぶ気になれないことも確かだった。


「……で、君こそどうしたんだ?」


 嫌な予感がしていた。


 怪獣や宇宙人が出る、和泉の命が危険に晒される――これまでナエが和泉の前に現れたのはそんなときばかりで、こう言っては悪いけれども彼女の姿が見えるというのは縁起のよいことではない。


「ここを襲った怪獣ならキリエスが倒したじゃないか」


「だと、いいのだけれど」


 和泉は眉をひそめる。ナエにしては珍しく歯切れが悪い。


「らしくないな。意味もなく現れる君じゃないだろ? 俺に伝えたいことがあるんじゃないのか?」


「ええ……そうね」


 ナエは頷き、しかしなおも逡巡を捨てきれないような態度を見せた。長い睫毛に縁取られた双眸が伏せられる。


 何かを確かめるような間があって、


「やはり、同じね」


 ふたたび開眼したとき、整った幼貌には憂いが滲んでいた。


「どうやら覚悟を決めなくてはならないようだわ」


「なんだよ、それ?」


「キリエスの眼が未来を視た。……この村の未来に、人間の影はない」


「――バカな!」


 和泉は反射的に叫んでいた。


「侵食係数は基準値を割ってるんだぞ。だから現にこうやって復興作業が進んでるんじゃないか。たちの悪い冗談はよしてくれ」


「私は冗談なんて口にしない」


 和泉は言葉に詰まった。


 たしかにナエの言うとおりではある。これまで彼女が余計な冗句を叩いたことなどなかったし、キリエスが人智の及ばぬ超感覚を備えていることは一体化している自分が一番よく知っている。


 だとしても「はいそうですか」と受け入れることは難しい。


 キリエスの瞳はあまりにも巨視的だ。たかが下界の村ひとつの行く末を細かく見通しているとは思えなかったし、当のナエにしたところで、巨人の意思を受けて行動しているわりには未来をぴたりと言い当てたことなどないではないか。


「何が起こる?」


「それは……まだわからない」


 ほらみろ。


「けれど、思い出して。キリエスが十五年前にこの世界に介入したのは、その時機を逸すればあなたを失うことになっていたからよ」


「村が滅びるのは避けようがなかった、とかいうやつだろ? そのことと今の状況とどんな関係が――」


「関係はある。おそらく、だけれど」


 ナエの声音がこころなしか揺れている気がした。これまで和泉を導いてくれた確信的な語調は鳴りを潜め、彼女自身も戸惑いを感じているかのごとく頼りなげな響きを孕んでいる。


 詰問するのが気の毒になってきた。


 和泉は憤りを嚥下して、熱を吐息に変えて排出した。


 酔いなどとっくに醒めていた。


「滅びることが運命なら……俺がひっくり返す」


「できる限り協力はするわ。ここは私にとっても大切な場所だから」


 大切な場所。


 後から考えれば、このときナエの言葉の意味をただしておくべきだったのだろう。だが和泉にそんな余裕はなかったし、ナエの瞳を彩る切実な色は有無を言わせぬ力を持っていた。


「――だけど、心構えだけはしておいて」


 硬い声が空気に溶ける。


 悄然しょうぜんとして立ちすくむ和泉を置き去りに、ナエの姿はかき消えた。

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