Chapter 63. わたしの声を聴け

 学校の許可を取りつけるのは難しい話ではなかった。


 借りた鍵で更衣室に入り、端のロッカーを開ける。このロッカーは普段空っぽで、唯が指導に来たときを除いては扉が開くこともない。いつ来ても埃ひとつ落ちていない掃除の徹底ぶりを目の当たりにするたび、唯は後輩たちのまなざしを意識して気分を新たにさせられる。


 ――そう、だから、わたしがやらねばならない。


 もとより自分を囮に使うつもりでいた唯である。しかしキメンジャと直に相見えたとき、これはと確信した。


 わたしが幕を引くべきだ。和泉ではなく。


 夜気が肌に沁みた。


 道着を纏って防具を身につけ、面を引っ提げて武道場に出た。


「――学校関係者は警備員含めて避難させましたよ」


 武道場は夕方の騒がしさが嘘のように静まり返っているが、無人ではない。和泉がいるからだ。その和泉はといえば、実直を絵に描いたような顔に冴えない面持ちを浮き上がらせている。


「本当にいいんですか? やっぱり二人がかりのほうが、」


「何度も言わせるな。君は立ち会ってくれればそれでいい。万一わたしが敗れたら、そのときは後始末を頼む」


「後始末って……」


「わたしを狙っているのは取り憑かれている人間のほう――羅刹が自ら明かしたことだ。わたしを倒したあと羅刹は好き放題に暴れるだろうし、そうなったら止められるのは君しかいない」


 何かが人間に乗り移っている、というのは和泉が教えてくれたことでもある。およそ科学的とは呼べない主張。自分がそんな胡散臭いものを根拠にして理屈を組み立てていることに、唯はとっくに気づいている。


 キメンジャの自白だけならば狂人の戯言と切って捨てていたかもしれない。仮面で表情を隠した奴が相手では、確実に虚言を見抜けると断じられるほどの自信はどれだけ慎重に観察しても抱けなかっただろう。


 信じる気になれたのは、和泉が即座に断言してくれたからだ。


「――なあ、和泉隊員」


「はい?」


「鬼の存在を見破ったのは、いつぞや君が言っていた幽霊の少女か?」


「……そう、ですけど」


「貴重な情報ありがとうと言いたいんだが、どうもわたしは霊感とやらに欠けるみたいでな、その子が見えん。桐島唯が感謝していたと君の口から伝えておいてくれ」


 守り神のようなものだろうか。漠然とそんなことを考える。


 真相は自分にはわからない。和泉に聞いても要領を得ないあたり、当の彼にもよくわかっていないのかもしれない。


 どうであるにせよ、少女がキリエスの正体であるならば、羅刹を打ち破る鍵は和泉をおいてほかにない。なにしろ少女と通じ合えるのは和泉だけであり、鬼を調伏できるのは神様しかいないのだから。


「初めて会ったときもそうでしたけど……」


 和泉はなぜか、緊張がほどけたような微笑を見せた。


「桐島隊員ってこういう話、普通に信じてくれるんですね」


「君が大まじめに言うからだ。――さあ、しばらく下がっていろ」


 壁にしつらえられた時計が零時を指した。


 薙刀を手にして武道場の中央へと進み出る唯の、鋭く絞られた眼光が向かう先。開け放たれた扉を潜って、キメンジャが再び現れた。


「一対一、という約束の筈だが?」


 いかにも不平を鳴らしているような台詞だが、こちらに向かって近づいてくるキメンジャに足を緩める気配はまったくない。


 二人まとめてかかってこい、と全身の闘気が語っていた。


 目的の達成を前にして血が沸き立っているのかもしれない。徹底して目撃者を作りたがらなかったこれまでと違って、キメンジャはなりふり構わず事を仕上げにかかろうとしている。


「彼は立会人に過ぎんよ」


 誘いには乗らない。唯は和泉に手振りで指示し、壁際まで下がらせる。


「貴様の相手はわたしがするさ」


「ふん。よかろう」


 レインコートの袖のあたりで闇がこごる。空間に生じた渦から木製の薙刀を引き抜いて、キメンジャはいよいよ唯と正対した。


 唯は面を被り、細く長く内息しながら構えを取る。


 八相に対するは中段。ちょうど神社での構図が再現された格好だ。互いに昼の続きをやろうと考えているのは明白であり、ただ和泉の存在だけが二人の意識からしめ出されてゆく。


 痛いほどの静寂が張り詰めた直後、


「――くぞ」


 落雷のごとき震脚とともに、キメンジャが動いた。


 床から返った反発力を前進のために使い切り、触れただけでも身が砕けそうな勢いで一足に迫る。半身から逆の半身へと流れるように入れ替わり、まさに体のすべてを活用した打ち込みが唯の肩口をひしがんと抉り込まれた。


 ――轟!


 空気を割って振るわれた鬼人の一閃は、しかし標的を捉えず。


「防具のぶん加減するつもりだが――」


「ぬゥおアッ!」


 上体の撥条ばねを使って旋転したキメンジャが、声だけを頼りに左斜め後方へと二の太刀を放った。


 体軸は乱れ、薙ぎ払いを打ったのは左の腕のただ一本。型もへったくれもあったものではないが、人体の限界を超えた膂力りょりょくで振り抜かれた薙刀の切っ先は、受けに回った相手の手首から先を粉々にできる破壊力を秘めている。


 破壊力は、秘められたまま虚空に溶けて消えた。


 キメンジャが宙に描いた弧のわずかに外。流水のように舞いを踏んだ唯が、構えを下段に移して万全の姿勢を整えている。


「ッェエイ!」


 乾いた打撃音。


 唯の握る薙刀の先端、物打ちと呼ばれる部分がキメンジャのすねを打ち据えた。衝撃を骨に浸透させた確かな手応えを感じながら、唯は再び遠ざかって構え直す。


「――相手がおまえでは、わたしもたいして余裕がなくてな。怪我をする前に目を覚ましてくれないか」


「……? 何を言っている?」


 片膝をついていたキメンジャが立ち上がる。慎重というよりも緩慢な仕草。操られている人間の体をおもんばかった一撃だったが、しばし動きを鈍らせる程度の効果はありそうだと唯は思う。


 今だ、と直感する。


 キメンジャの問いにわざわざ答えてやるつもりはない。いや、もっと正確に言ってしまえば、話すつもりもない。


 唯は、相手の躰を刺し貫くように叫んだ。


「わたしの声を聴け、――紅葉!」


 キメンジャが、止まった。


 まるで稲妻にでも打たれたかのように、一切の身動きが停止した。


「羅刹の都合などわたしだって知らん。証書もなければ鬼の手形だってもう残ってはいないからな、今さら調べようもない。だが、奴がこの街に足を踏み入れるためにおまえを利用したことだけはわかる」


 口を回せば頭も回る。


 三ツ石の伝説、紅葉がインターハイを欠場したこと、「お姉様に合わせる顔がないんですっ!!」、通り魔事件が起こり始めた時期、キメンジャが姿を見せた時間帯、紅葉がここ最近体の不調を訴えていたこと。


 得てきた手がかりを唯の脳細胞が繋ぎ合わせ、一本の筋へと紡ぎ上げてゆく。


「タネが割れれば簡単な話だ。羅刹はおまえが学校に行っている時間を避けておまえの体を乗っ取っていた。だから平日には夜中と早朝にしか現れなかった。……ばかなやつめ、鬼につけ入られるほど思い詰めていたのなら、電話のひとつも寄越してくれればよかったものを」


「何を語るかと思えば、小癪な……その口を閉じろ!」


 再起動。キメンジャが仕掛けてきた。


 脚の痺れが尾をいているのだろう、人妖の体捌きからはこれまでのような精彩が失われている。腕の振りだけで放たれた胴払いを避けた唯は、一気に運足うんそくして相手の懐へと滑り込む。


 二撃目がくる前に柄を合わせて得物を封じた。むろん力では敵うまい。しかし今の唯はもう、力で対抗しようとは考えていない。


「紅葉ッ!!」


 鬼面に隠された顔を見据えて喝破する。


「これ以上、おまえの心と体を好きにさせるな!!」


「ぐ……ぬうウゥうぅうッ……!』


 キメンジャがよろめいた。


 決定的な隙だ。


 唯は間合いを切り、鋭い引き面を打ち下ろした。


「ィイヤァッ!」


 裂帛の気合、そして風を断つ音。想いを乗せて放たれた薙刀が、木彫りの仮面に触れるか触れないかという位置でぴたりと静止する。


 衝撃に揺さぶられなどしなかったはずの鬼面が、落ちた。


「――目が覚めたか、紅葉?」


 面の下から現れた相貌は、やはり予想したとおりで。


「お、姉……様……?」


 紅葉は唇の内側でむにゃむにゃと呟く。眼は半ば閉じていて、本当にたった今まで眠っていたかのようだった。


 握りしめていた古い薙刀が、煙のように消失してゆく。


 やがて眼前の唯が夢の住人でないことに気づいたらしい。紅葉はぐるりと周囲を見回した後、己の首から下に視線を向けてひどく驚いた表情を浮かべた。


「えっ……赤いレインコートに、鬼の面……って、この格好!」


「そうだ。おまえは鬼に操られていた」


 これで一件落着か――唯は溜め息、


「まったく……変に我慢なんかしないで、会いたいなら素直に言え。標的がわたしだったからよかったものの、他の人間なら本当に四肢を折られていたところだ」


「四肢を? ……あの、何のお話です?」


「わたしの手足を使い物にならなくして動けないようにすればおまえの願いが叶う、とか言っていたぞ、羅刹は」


「んな゛っ――!?」


 紅葉の顔が見るも鮮やかに青ざめる。


 わなわなと肩が震えて、


「私の口を使って、よくもお姉様にそんなことをぉっ!!」


 爆発した。


「いや、おまえの声ではなかったけどな――」


「失礼! お借りします!」


 紅葉は唯の手から薙刀を奪い取って振りかぶり、


「そりゃお姉様に会いたいっていうのが本音でしたし! 昔みたいに一緒の時間も欲しかったですけど! あんたにそれを頼んだ覚えはねーし、そんな叶え方なんてまっぴら御免なんですよっ!!」


 ふと見ると、壁際で趨勢を見守っていた和泉が口元を引きつらせていた。同じ気持ちだと唯は思う。紅葉とは長いつき合いだが、彼女がこんなにも怒りを露わにするところを今までに目にした記憶がない。


 紅葉が、鬼の面めがけて全力で薙刀を打ちつけた。


 が――


「っ!?」


 自在に薙刀を操る腕前、狙いをあやまつはずのない距離。にもかかわらず、紅葉の一撃は床を叩くに終わった。


 鬼の面がひとりでに浮かび上がったからだ。


ことらずか。だが、もう遅い』


 武道場に響いた声は、これまで紅葉の口を借りて発せられていた、あの地獄から聞こえてくるかのようなしゃがれ声だった。


『礼を言うぞ小娘……手形が消えたとはいえ、忌々しい三ツ石の結界が健在のままでは、この地に討ち入ることは叶わなかった。おぬしのような負の想念を抱えた人間の心に、我が魂を忍び込ませることこそが、我が身が今一度現世うつしよに転じるためのただ一つのみちだったのだ!』


 妖気としか表現できない不可視の重圧が迸る。唯は紅葉の手を引っ張ると、自ら前に出て彼女を背中に庇った。


 ただならぬことが起きようとしている――そう察するには事足りすぎた。


『すでに充分な力は得た。復活のときだ!』


 眼を禍々しく光らせた鬼面が哄笑しながら遠ざかる。天井近くに並ぶ窓ガラスのうちの一枚を突き破って、裏山の起伏の向こうへと消えるのが見えた。


 大地が縦に揺れた。


「桐島隊員! その子についててあげてください!」


 和泉が矢のような速さで武道場から飛び出してゆく。

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