Chapter 62. 強襲、人妖キメンジャ!

 翌日は生憎の雨だった。


 天候に恵まれなかったからといって、日中に事件の調査を行うという方針が変わるわけではない。和泉は駅前から出ていた都心循環バスを使って目的地近くの停留所で降りると、コンビニで調達したビニール傘を広げた。


 ECHOPADエコーパッドの地図機能でデータを呼び出し、マップに従って少し歩いたところで町並みの空気が一変する。


 高い階層をもつマンションやオフィスビルはすっかり背後へと消え、いつしか和泉は和風の屋根が居並ぶ界隈に立っている。横を向けば寺、道路の反対側を見ればそちらにも寺。合間にちらほらと建つ低層の店舗を見回すと、そのほとんどが石材店かカフェである。


 こういうのを「侘び寂びがある」って言うんだろうか、などと考えたとき唐突に頭の中で声が響いた。


(私はこの雰囲気、嫌いではないわね)


 声はすれども姿は見えず。普通の人間なら慌てふためくところだろうが、和泉にとっては今更驚く出来事でもない。


(なんだ、意外だな)


 精神の同居者――ナエに向かって、和泉は心の中で語りかける。


(君、死んだ人の魂が見えるんだろ? お寺とかお墓とかは好きじゃないんだと思ってたぞ)


(きちんと弔いを受けた魂なら、現世に留まって嘆き続けることはない。ここはむしろ静かなものよ)


(ふうん……いやちょっと待った、もしかして俺、お盆に墓参り行かないほうがいいの? 来年こそは行きたいんだけど)


(世界が『来年』とやらを迎えられたら、好きにすればいいわ。そのとき私の役目は終わっているでしょうから)


 ――そうか。


 このところ虚素レキウムと直接関係のない事件が続いていたせいで意識の隅へと追いやられていたが、ナエを遣わしたキリエスの本来の使命は、世界が虚素に覆い尽くされる未来をねじ曲げることだ。


 ナエの言い方からすると、あと三ヶ月足らずで決着がつく。


 運命を覆した暁には、キリエスはこの三次元宇宙から去り、ナエもまた自分のもとから離れてゆくのだろう。


(そう考えると寂しくなるな)


(……馬鹿を言わないで。どうせ先のことを考えるなら、キリエスに頼らず敵と戦っていくための策でも練りなさい)


 和泉は思わず頬を緩める。


 口ぶりこそ乾いたものだが、以前のナエからは決して出てこなかっただろう台詞でもある。出会った当初の彼女はこちらにキリエスの使命を理解させるのに夢中で、人類の行く末になど興味を示すそぶりさえ見せなかった。


 人間は変わると言うが、幽霊もそうなのかもしれない。


(……? 何よ?)


(いいや、別に。何でもないさ)


 和泉は脇道へと分け入ってゆく。高い塀に挟まれた一本道で、視界はお世辞にもよくない。曲がり角の奥からやって来た車を、電柱の陰に入ってぎりぎり避ける。


 立派な寺の門を素通りし、スーパーの裏手の搬入口を横目で見ながら進んだ先に、目当ての場所が佇んでいる。


「ここが……三ツ石みついし神社か」


 三ツ石神社である。


 鳥居の外から一瞥しただけでも、境内に大きな石が鎮座しているのがわかる。


「あれだな。鬼の手形っていうのは」


 雨に濡れた砂利を鳴らしながら、和泉は石へと歩み寄った。


 手前の掲示板に書かれた歴史をざっと通読する。羅刹らせつという鬼が神様によって捕らえられ、二度と悪さをしない証として石に手形を押した――なるほど、基地で唯から聞いた話と大筋において違いはない。


 改めて石へと目を戻す。


 三ツ石という名前のとおり石は三つに割れていて、それぞれ注連縄しめなわと鎖で縛られている。どれも和泉の身長などより遥かにでかく、本殿の屋根に届くほどだ。


 ぐるりと一周してみる。


 手形らしきものは見当たらない。長い年月風雨に曝されたせいで、いつしかすっかり薄れてしまったのだろう。


(証文の手形が消えたから、鬼がまた現れたのかな?)


(私に訊かないで)


 秋雨よりも冷たいナエの返事がこたえる。


 もっとも和泉自身、我ながら俗っぽい推理だとは感じる。もしこれがキメンジャ事件の真相なのだとしたら、羅刹とやらの根性もずいぶんセコい。


(……ただ、よくないものが来ているのは確かね)


(なんだって?)


 和泉は表情を引き締める。


 ナエがこのように言うからには、やはり相手は人間ではないということになる。警察よりもECHOエコーの領分だと判断した八重樫刑事は正しかったわけだ。


(もしかして虚素か?)


 和泉は反射的にECHOPADへと指をかけた。


 計測するのも怖ろしいが、もしこんな人口密集地で〇・五ノルダルを超えるレキウム反応が検出されたらとんでもない騒ぎになる。


 幸いにも、ナエはそれをきっぱりと否定した。


(いえ、瘴気は感じないわ。これは――)


 そのときだ。


 すぐ後ろで、降り続ける雨の音に変化があった。地面ではない何かに当たって弾けるような、そんな音。


 振り返ったそこに立つ人影を認めた瞬間、和泉は迷いなくECHOPADをオンにした。回線のむこうの唯をめがけて言い放つ、


「桐島隊員。すぐに三ツ石神社まで来てください」


『どうした?』



『――! 一〇分もたせろ!』


 通信が切れる。和泉はECHOPADを腰に戻す。


 眼前。レインコートの顔の穴から木彫りの鬼面を覗かせる怪人が、無言でこちらを睨み据えている。


「まさかここで出くわすとは予想してなかったけど……なるほどね」


 ――武道や格闘技の経験者を狙って襲っていること。


 ――標的が一人になったときに現れること。


 ――人目につきにくい場所と時間に出没すること。


 和泉はECHOの実働部隊のメンバーであり、今まさに単独で行動しており、そして時間帯と天気のせいだろう、現に周囲は静まり返っていて、誰かが通りかかったり民家から人が顔を出したりといった気配は一切ない。


 たしかに、これまでにキメンジャが出たときの状況とぴったり符合する。


「お前が噂の通り魔だな。目的は何だ?」


 和泉は問いを放ちながらも、注意深くキメンジャの姿を観察する。


 赤いレインコートも鬼の面も八重樫刑事らの証言どおりだが、こちらよりもゆうに頭一つぶん低い身長は意外だった。武芸に長けた者を好んでターゲットとしていたからには、犯人はいかにも屈強そうな大男だろうと高を括っていたのだ。


 とはいえ油断はできない。


 どんなに拍子抜けに見えても、こいつが次々に実力者を打ち破ってきたことは事実なのだ。


「……構えろ」


 キメンジャは和泉の質問には答えず一方的に宣告を下す。その嗄れ声は、とても人間の声帯から発しうるものとは思えない。


「おぬしが腕に覚えのある者ならば、我と闘え」


 八重樫の話では竹刀を渡されたということだったが、どうやら和泉に対してそれをする気はないらしい。相手の得意なやり方で勝負するというのが本当なら、徒手が得手だと見做みなされたのだろう。


 ――あながち間違いじゃないな。


 対異生体白兵戦術の理念はCQCに通じる。状況によっては銃やナイフを用いることもないではないが、これといって決まった装備を使うわけではなく、実際に訓練で最も多くの時間を費やすのは格技だ。


 鬼面の奥の眼力は確かなようで、その確かさがひとまずありがたい。腰のECHOガンに応じて鉄砲でも持ち出されていたら危険きわまりなかっただろう。


「まあ……いいさ、そっちに話をするつもりがないならそれで」


 和泉は傘を畳む。境内の一角、屋根つきのベンチのそばへと放り投げる。


「今までみたいにいくと思うなよ。俺は――」


 深々と腰を落とす、


「人間以外と戦う、専門家だっ!」


 砂利を蹴り上げて突っ込んだ。瞬く間に距離が詰まり、和泉はレインコートに包まれた腕をめがけて手を伸ばす。


 一〇分持たせろ、と唯は言った。


 プランが狂ったことは否定できない。唯が即座に駆けつけられないタイミングで接敵してしまったことは計算外だった。が、だからといってやるべきことが変わるわけではないし、任務達成へのハードルが上がったわけでもない。


 どうせ誘き寄せられる確証などなかったのだ。


 これはむしろ千載一遇のチャンス。


 逃げられないように、この場で自分が拘束する。そのうえでゆっくり唯の到着を待てばいい――。


 キメンジャが反応した。


 半身が下がって和泉の右手をかいくぐる。雨粒を振り散らしながらレインコートが風になびき、安っぽくすら感じられる真っ赤な色が和泉の網膜に焼きついた。お手本のような翻身。反撃が来る。


 空気が低く唸った。


 裏拳。


 読んでいた。袖を掴めなかったと悟ったときにはもう和泉は身を沈めている。洒落では済まない威力の一撃が頭の直上を通過して、逃げ遅れた毛髪が数本、紅の旋風に巻き込まれてちぎれ飛ぶが気にも留めず、


「しッ!」


 噛み合わせた歯の隙間から漏れた気迫も、攻防の進行速度に追いつかない。和泉の体が左足を軸にして回り、砂利を浚うような右の蹴りがキメンジャの足元を刈りにかかる。


 当たらない。


 キメンジャは左脚を上げて和泉の足払いを空転させるや、すぐさま轟と踏み下ろした。


 回避のための動きがそっくりそのまま震脚に変わる。妖怪にしては妙にポップなスニーカーが地面を握り、足裏から吸い上げた力が脚から背筋へ、腕へ。直立したキメンジャと屈んだ和泉。ただ拳を打ち下ろしたからといって自然と体重が乗るわけではないが、都合のよい展開を期待するにはキメンジャの震脚は見事に過ぎた。


 姿勢の有利をこれでもかと言わんばかりに利用して、大地の反発と己の体重とを束ね、キメンジャは左で和泉の頭を狙ってきた。拳というよりは掌。まるで五指の先っぽに鉤爪でも生えているかのごとき、奇妙な握り方だ。


 やばい――和泉の直感が告げた。


 崩れた体勢ではとても受けられない。立て直すにはまず下半身を作らねばならない。空振った蹴り足を引き戻したところで今更間に合うものでもない。


 一切迷わなかった。脚を振り抜くスピードを上げ、ほとんど背を向けるところまで体を流した。


 怪人の攻撃が肉薄する。


 とっさに傾けた首の横を、紙一重で掌が通り過ぎてゆく。


 ほとんど同時、腰から下が安定した。


 ――ここだ!


 和泉は即座にレインコートの袖へと両手を絡ませる。掴んだ相手の腕を引き込みつつ一気に自分の腰を持ち上げる。和泉が立ち上がるにつれてキメンジャの小さな体は簡単に浮き、ぐるりと二七〇度ひっくり返って背中から落ち


「ッ!?」


 手の内に違和感。


 キメンジャを地面に叩きつけようとした瞬間、しっかりと抱え込んでいたはずの赤い腕に恐ろしいほどの力がこもり、和泉のかけた縦の旋転とはまったく別のベクトルの螺旋を生んだ。


 術理もクソもありはしない。拘束が強引に捻じ切られ、赤いレインコート姿が宙で独楽こまのように回転する。スニーカーが盛大に砂利を跳ね散らして接地、何事もなかったかのように身を起こす人妖の、木彫りの鬼面のぽっかりと開いた口元から、幽谷の霞のごとき吐息が漏れる。


「これは……まいったな」


 虎を相手にしているかのようだった。


 関節を極めてやったわけではない。できるだけ怪我を負わせないよう手加減したのも事実だ。


 それでも、勝負を決めるに足りる一撃だったことは自信をもって断言できる。あっさり技を外された挙句、ノーダメージで切り抜けられてしまうなどとは予想だにしなかった。


 ――まったく、なんてやつだ……。


 和泉は雨水の滴る髪を後ろに撫でつけながら呼吸を入れる。


 今のを防がれるとなると、いよいよ手心を加えている場合ではなくなる。倒すのではなく捕らえることが今回の仕事だとはいえ、これほどの運動能力をもつ相手を無傷のまま逃がさずにおくのは至難の業だ。唯が来るまでこいつをこの場に釘づけにするには、脚のひとつもへし折ってやらねばならないだろう。


 できるならば、の話だが。


「――終わりか?」


 和泉の耳は衰えぬ雨音を聞いている。だがそれとは無関係に、地獄の底を這いずるような鬼の濁声だみごえが響く。


「次は、こちらからくぞ」


 宣告の直後、キメンジャが赤い風となった。


 爆発めいた踏み込み。先の攻防のお返しのつもりか、残像すら生むほどのスピードで一直線にキメンジャが迫った。


 辛うじてでも反応できたのは和泉だからだ。


 小細工は要らぬとばかりに突き込まれる掌打に対し、和泉は半身を開いて受け流す形をとった。意趣返しをさらに返すようにキメンジャの腕を伝って翻身、だが反撃の初手には裏拳でなく肘を使う。恥も外聞もなく身長差を活かす。肩の高さで水平に振り回せば、フードを被った側頭部に直撃する。それで奴の足が泳いだら、間髪入れず膝の裏にでもローキックをぶち込んでやるはらだった。


 めりっ、と。


 嫌な音が聞こえたような気がした。


 実際には、誰の耳にも届かなかったのだろう。和泉の体の内側から奏でられた軋音あつおんを聞けた者は、和泉自身をおいてほかにはいなかったであろうから。


 鳩尾みぞおちに肩、


 ねじくれた力が凝縮して、


「……ごぼっ!」


 爆ぜた。


 臓腑がぎゅっと搾られる感覚。呼吸が空回り、感情ではなく生理的な反応として涙が滲む。目を瞬かせてもやを払った和泉の視界に飛び込んできたのは、こちらの顔の高さまで跳び上がったキメンジャの、今にも振り抜かれんとしている右脚。


 浸透した衝撃が抜けない。全身が痺れる。


 それでも無理矢理に上げた両腕を重ね、和泉はガードの体勢を作る。


 ガードごと吹き飛ばされた。


 天地が何度も入れ替わる。受け身など取れるはずもない。境内にそびえる巨木の幹に打ちつけられて、跳ね返って転がって気づいたときには砂利を舐めていた。


 すぐそばで水を含んだ足音。キメンジャの靴が目と鼻の先にある。


「こ、ンのおぉォッ!」


 煮えたぎる戦意に駆られて和泉は吠え、手中に握り込んだ石礫いしつぶてを投げつけた。面をつけた相手の目を潰せるなどとは微塵たりとも思わないが、二本の脚に言うことをきかせるための時間がたとえ一瞬でも必要だった。


 石が鬼の面に当たって落ちる。その瞬間を狙い澄まして体を叱咤し、和泉は勢いよく立ち上がる。


 どういう計算もしない。すでに腹を括っている。掌が来ようと蹴りが来ようと関係なく、応じて掴んで引きずり倒してやろうと決める。キメンジャがどんなに馬鹿げた力を誇っていても、組んでさえしまえば押さえ込む方法はいくらでもある。


 どういう計算もしなかったのは、相手も同様であったらしい。


 爆裂的な踏み込みからの掌打が一つ覚えのように、しかし稲妻のような鋭さで伸び、降り注ぐ雨粒を押しのけながら和泉の鎖骨を狙った。


 ――上等!


 前に出た。空間を潰された掌打は最大破壊力に達しなかっただけでなく狙いをも外し、和泉の開いた脇下を潜って背後に抜けた。掠った肋骨が軋むのを歯噛みひとつでこらえ、和泉は脇を締めてキメンジャの手首を捕らえる。


 振り回す。


 体重差に物を言わせて怪人のバランスを崩した。彼我の立ち位置が入れ替わり、巨木の根元に倒れ込んだキメンジャを組み伏せようとしたところで懐に圧。いつの間にかねじ込まれた脚に押し出されて宙を舞う。


「くっ!」


 転倒を免れたのは幸運にすぎない。着地して顔を上げた和泉の視界が、こちらに向かって獣のように跳躍してくる鬼面の怪人を映す。


 もはや互いに本気だった。


 これまで怪我人を生むことはあっても死体を作ることはなかったキメンジャが、なりふり構わず和泉の命を獲りにきていた。ECHOの訓練で磨かれた和泉の技が、それだけ怪人にとって脅威だったのかもしれない。


 和泉は内息を整えながら構えをとる。このまま相打ち覚悟でカウンターを叩き込む。タイミングを計る、三、二、


 一、


「――そこまでよ」


 突然、和泉の眼前に蒼い光が広がった。


 さざなみのように揺らめく力場に阻まれ、キメンジャが距離を開けて飛び退る。


 対峙する二者の側方、三つの岩をちょうど背にする格好で、女の子が忽然と出現していた。降りしきる雨にも濡れることのないワンピースを無風の中になびかせて、白く細い手を宙にかざしている。


 女の子――ナエは光の障壁を維持しながら、


「眞を……選ばれし者を傷つけることは許さない」


 鳶色とびいろの髪をぶわりと逆立たせ、凛烈たる眼差しでキメンジャを射貫く。


「ヌッ……!」


 今にも再び飛びかかってきそうだったキメンジャが、両脚に力を溜めた姿勢のまま静止した。


 どうやら跳ぼうとはしている。だが跳べない。まるで金縛りにでもあったかのように、筋肉にこめた力を運動に変換することがどうしてもできない。


「ナエ、どういうつもりだ?」


 当惑をあらわにしたのはキメンジャではなく和泉だ。


「あいつは虚素と関係ないんだろ。君が戦いに介入するなんて」


「……別に」


 何かを我慢しているような口調、


「理由なんて、これ以上は看過できないというだけのことよ。あなたの体はもうあなた一人のものじゃない」


 ナエはレインコートの怪人を睨んだまま、


「そんなことより、取り押さえるなら早くしなさい。あまり長くは」


 もたない。そう言おうとしたのだろう。


 キメンジャが身をよじった。


 あらゆる束縛を力任せに引きちぎるような動き――というのは落ち着いて思い返してみればの後知恵に過ぎず、そのときの和泉にはむしろ、クモの巣に絡まったハチやトンボのするそれに見えた。


 そうではなかった。



 怪人の放った拳圧が、



「――ナエっ!?」


 あまりのことに背筋が凍った。


 ナエのちっぽけな身体が、トラックに衝突されてもこうはなるまいという勢いで宙を舞う。


 撥ね飛んだ先にあるのは三つの巨石。実体のないナエならばすり抜けるかと思われたが、石に巻かれた注連縄が結界でも生んでいるのか、彼女は軽々と弾かれて大地に転がり落ちた。


「……ほう」


 キメンジャが感嘆の呟きをこぼす、


「我が拳を受けて砕け散らぬか。なかなか牢固な身だな、小娘」


「当然、でしょう!」


 震える体を起こしたナエが、苦悶の滲む表情で食ってかかる。


「私の体を繋ぎ合わせているのは、キリエスから授かった光の欠片。下賤なあやかしなどに砕けるものではないわ……!」


「威勢の良いことだ。しかし、息が青いようだが?」


 キメンジャが指摘するとおり、ナエの言葉は強がりに過ぎない。そのことは和泉にもよくわかった。


 姿を保っているのも無理をきかせてのことだろう。白いワンピースは裾から光の粒子となってほつれつつあり、華奢な体のあちこちにはヒビが入ってそこからも光が漏れている。折れそうな脚は震え、立っているのもやっとといった有様だ。


 すぐにでも駆け寄って手を貸してやりたい。しかしそれは不可能なのだ。生身の人間である和泉には、ナエに触れることが物理的にできない。


 ――そう、


 問題はそこだ。


 キメンジャは自分と格闘したその手で、ナエを殴り飛ばしてみせた。つまりこいつは、物質にも霊体にも干渉することができる――。


「眞……この敵は、私たちに限りなく近い」


「俺たちに近い?」


「おそらく肉体はあなたと同じ人間。けれどそれを操る魂は、この地で『鬼』と呼ばれている霊的構造体よ。わたしに攻撃したのは、そいつ……ッ」


 そこまで言葉を紡いだ途端、ナエは膝を折ってうずくまった。


 深くうなだれた幼貌、小さな唇から吐き出される息が切羽詰まった色を帯びる。己が身体をかき抱く細腕の狭間では、こぼれ落ち続ける光の雫がこころなしか量を増している。


 あの光はナエの命だ。


 和泉はそう直感し、血相を変えて叫んだ。


「わかった! 負けないって約束するからもう休め!」


「……ごめんなさい」


 無念を隠せない声音で一言だけ絞り出すと、ナエは霧散するように姿を消す。


 見えなくなる間際の憔悴しょうすいしきった顔が和泉の網膜に焼きついた。和泉は一瞬肝を冷やしたが、頭蓋の内に少女の息づかいが響くのを感じて、ひとまずはほっと胸を撫で下ろす。


「――お前ッ!」


 キメンジャへと向き直る。


 怒りをあらわにした和泉の眼光を、敵は正面から受け止めて微動だにしない。


「我は邪魔者を排除したまで」


「なんだと……」


「人に憑いた神霊というのは面白い見世物だったが……闘いの場に割り込まれては興が削げるというもの」


 ――興が削げる、だって?


 髪に染み込む雨粒も、頭を冷やす役には立たなかった。


「愉しみのために騒ぎを起こしてたのか?」


「否。……だが、望みを叶えるにも人の世のことわりは面倒でな。性に合うやり方でやらせてもらうことにしたまでよ」


「望み? よくわからないけど……『性に合うやり方』って、要するに通り魔のことなんだろ。ふざけるのも大概にしろ!」


 我慢がならない。こちらから行く。


 弱気になるべきではなかった。


 キメンジャは小柄だ。あれが人間の体であるというナエの見立てが正しければ、パワーを引き出すために骨格や筋肉に相当な負荷をかけているはずだった。


 鬼をどうやって引き剥がせばいいのかは後で考えるとしても、一刻も早く取り押さえなければ操られている体が壊れかねない。


「うおおッ!」


「ぬうんッ!」


 襟元を取ろうと掴みかかった和泉の手を、がっちりとキメンジャが両腕で挟み止め、両者の間合いが縮まる。


 そのときだった。


「――よく持ちこたえた、和泉隊員!」


 凜然とした声が雨音を貫いた。


 唯だ。


 スポーツウェアが雨に濡れるのも委細構わず、灰色の鳥居を潜って一散に駆けてくる。


「チィ……!」


 キメンジャの腕に獰猛な意思がこもった。力任せに組み手を切って跳び退り、和泉と唯の双方を視界に収める位置に立つ。


「無粋な輩の多い日だ」


 キメンジャは吐き捨てるように呟き、


「……? おぬし……」


 唯へと顔を向けるなり、口の中で沈黙を転がした。


 鬼面の奥から発せられる、ねっとりと絡みつくような視線。唯の面持ちにほんの一片、不審の色が兆す。


 そして和泉は、キメンジャがはっきりと告げるのを聞いた。



 面の口に空いた穴から覗く中身の口が、にい、と広がる。紛うことなき喜悦を孕んだ響きはもちろん唯にも届いていて、唯は怪訝けげんそうに目を眇める。


「見つけた、だと?」


 その言葉の意味は、決してそういくつもはあるまい。


「貴様……目当てはわたしか?」


「否。我が宿願は再びこの地を踏んだ時点で果たされている」


「ならば、どういう――」


「おぬしを欲しているのは我ではなく、我が宿主よ。おぬしの手足を折って動けぬようにでもしてやれば、宿主の望みも叶おう」


 レインコートの袖先の空間が不自然に歪み、宙に生じた渦から古びた薙刀が二本伸びてきた。キメンジャはその片方を引き抜き、唯の足元へと転がして寄越す。


「構えろ」


「――桐島隊員!」


 火蓋が切って落とされようとしているのを悟って、和泉は叫んだ。


「こいつは人間です! 何かに操られているだけだ!」


「……どうやら、そのようだな」


 唯は薙刀を拾い上げて中段に構えた。


 対するキメンジャの構えは八相。手足を折ると宣言した害意に嘘はないようで、徹底的に先の先を取るつもりらしい。


 二者の間で厳かに戦意が張り詰めていく。


 和泉が飛び込むタイミングを計ろうと姿勢を作り直した瞬間、事態は動いた。


「……やめだ」


 突然、キメンジャが構えを解いたのだ。


「どうにも邪魔が入りすぎる。時を改めるとしよう」


 鬼の両眼が見つめる先は、鳥居の外側、道路を隔てた集合住宅だ。


 並んだ窓のうちの一つが開いて、そこからこちらを眺めている住民がいる。じっくりと目を凝らしてみれば、スマートフォンらしき物体を耳元に当てていて、どこかへとコールしている様子が見て取れる。


「逃げられると思うのか?」


「思うとも」


 キメンジャは不敵に言い放ち、軽やかに跳躍した。


 和泉と唯が止める間もなかった。


 樹の手前にそびえる石碑を蹴って、三角跳びの要領でさらに高さを稼ぐ。そこにあるのはベンチの置かれた簡素な小屋で、その屋根を伝った怪人は難なく本殿の屋上に到達する。


「くそっ!」


 和泉は口惜しさのあまり悪態をつく。こうなっては追いかけられない。パルクールの訓練を積んでいるわけではないのだ。


「キメンジャ――いや、羅刹!」


 腹の底から大声を放ったのは唯だ。彼女の切れ長の目は、逃げ去ろうとする怪人の背をしっかりと見据えている。


 羅刹。


 この街で悪事を働く鬼といえばそれ以外にない、ということか。唯の口にしたその名前は、伝承にしかと刻まれた妖の名だ。


「今夜零時、聖陵女子高の武道場で待つ! わたしと一対一で闘いたければ、そこで受けて立ってやるぞ!」


 キメンジャは一度こちらを振り返ったが、返答することはなかった。スニーカーで足場を踏みつけ、真っ赤なレインコートをためらいなく空に踊らせて遠ざかってゆく。

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