Chapter 61. 唯と紅葉の軌跡

「――紅葉と知り合ったのは高校生のときでな、」


 照明の絞られた店内の、隅っこのテーブルに三人で座った。私服姿の唯がそんなふうに切り出したとき、金網の隙間から脂がぽたりとこぼれ落ち、炭火に吸い込まれてジュッと音を立てた。


 大通商店街に建つ焼肉店である。


 八重樫が足繁く通っているというだけあって、長く営業を続けているのであろうことが壁に染み込んだ油の跡から窺えた。外に出ていたノボリ旗の文字が「焼肉」でなく「冷麺」だったのがこの街らしい。


「わたしが学校帰りに通りかかった公園で、まだ小学生だった紅葉が一人でブランコを漕いでいた。今でもよく覚えてる」


 ほお、と八重樫が興味深げに相槌を打つ。


「あの子がインタビューに答えてるとこは何度か見たけど、その話はおれも初めて聞いたなあ」


「たしかに……ちょっとイメージ違いますね」


 和泉もウーロン茶を飲み下しながら同意する。


 楓山紅葉がなかなか厄介な性格をしていることはわかる。杉戸教諭も手を焼いていそうだったし、実のところ学校を後にする際、和泉自身も楓山に突っかかられたばかりだ。


 ――ところであなた、お姉様とどういう関係ですの!?


 ――私はゼッタイ認めませんからっ!!


 あれには参った。いったい何をどんなふうに勘違いされたのだろう。


「こう言ったら失礼かもしれませんけど、物怖じするタイプには見えませんでしたよ。……桐島隊員が相手のときは例外みたいですけど」


「ああ、さっきは災難だったな」


 唯はおかしそうに笑う。


「良くも悪くも、紅葉があんなふうにふるまえるようになったのはなぎなたを始めてからのことだ」


「桐島隊員が教えたんですか?」


「最初のうちはな。小学生がなぎなたを教われる場所なんて限られてるし、始めたいからといってハイそうですかというわけにはいかんだろ」


 それはそうだろうな、と和泉は頷く。


 小学生の習い事なら月謝を出すのは家庭だ。赤の他人という立場で軽々しく勧められるものではない。


「会ったばかりの頃、紅葉のクラス内でイジメが流行っていたらしくてな。あの子は他人の前に立つ自信を失っていた。……わたしは放っておけなかった」


「イジメ、ですか」


「君も見たとおり、あの子は体格が小さいだろう? そのことでからかわれたのが最初だったらしい」


「なんか……男子みたいな理由ですね」


「女子をイジメるのが女子ばかりとは限らんさ。それにきっかけが何であれ、始まってしまえばあとはエスカレートする一方だろうしな、ああいうのは」


「……わかります」


 つまらない記憶が蘇って、和泉は思わず顔をしかめた。


 この手のことには和泉にも少なからず覚えがある。「七・一七」に被災してからというもの、避難先で指された後ろ指の数は十や二十できかなかったからだ。


 原因や程度に違いはあれど、聞いていて気持ちのいい話ではない。小学生の心身にはさぞこたえたろう。


「でも、思い切りましたね。教えた技で仕返しにでも走られたらたまったもんじゃなかったでしょう?」


「そんなことができる子じゃないのは一目でわかったよ。ちょっと身長が低いといったって、小学生どうしのいざこざなんて所詮しょせん先に泣いてグルグルパンチを出したほうの勝ちだぞ。やられっぱなしになるってことは暴力に訴える子じゃないのさ」


「え、ええ……?」


 その認識はどうなんだろうか。


 和泉は向かい側の席の八重樫を見やる。やはりと言うべきか表情が渋い。きっと自分もあんな顔を浮かべているんだろうな、と和泉はぼんやり考える。


 思いのほか自説が支持されていないことを場の空気から悟ったらしい。唯はこほんと咳払いをして、


「とにかく――紅葉の上達はおそろしく早かった。これは怪物だと気づくまでに時間はいらなかったよ」


「その頃には、イジメはもう?」


「自然消滅というか、イジメから喧嘩に変わったそうだ。紅葉は『私に芯ができて曲がらなくなった』とか言ってたかな」


「自信がついた……ってわけですか」


「実際、どんどん自己主張する子になっていったからな。手はあげないまでも口でやり返せるようになってたんだろう」


 その延長線上にあるのが現在の楓山紅葉というわけだ。


 ――「お姉様」……か。


 なるほど、そういう経緯があったのならああまで唯を慕うのも頷ける。楓山にとって唯との出会いは、それこそ人生を変えるほどの一大事だったのだ。


 唯はほどよく焼けたロース肉をタレに浸しながら、


「あとはすんなりさ。わたしの知ってるなぎなた教室を紹介して、紅葉が自分で親を説得して。……わたしが翌年インハイを獲れたのは、あの子に負けていられない、という思いが大きかったからだって気もするな」


 そこで唯は過去を辿ることをやめる。すんなり事が運んだと言うからには、この先には特別ドラマチックな展開はなかったのだろう。


 それはつまり、楓山が順調に力を伸ばしていったことを意味する。


「才能の話をするなら……わたしの知る限り、紅葉を超える者はいない」


「また大きく出たな」


 八重樫が笑う。


「そりゃあ、おまえを含めてもか?」


「もちろん」


 唯は即座に断言して、肉を口の中へと放り込む。


 予想に反した答えだったのか、八重樫は面食らったような表情を見せた。


「おまえだって天才って呼ばれてただろうに。それ以上となると、来年のインハイは俄然期待が高まる、って考えていいのか?」


 ごっくん。唯の喉が動いて、


「今年だって期待は高かったはずですよ」


「それはそうだが。欠場の理由は体調不良だっけか?」


「精神的にかなり堪えたようですね。部員の話によると、ここ最近では目の下に隈を作っていたり、話しかけてもぼーっとしていたり、体の痛みを訴えたりという調子が続いていたそうです」


「……ずいぶんひでえ寝不足だな」


「わたしのことはともかく、紅葉は本物の鬼才です。それでも、高校生の身でプレッシャーとつき合うのは難しいんですよ」


「鬼才、ね」


 八重樫は苦いものを飲み込んだように唇を曲げる。


「この街で鬼とは冗談きついな」


「あまりいい言葉選びではありませんでしたか。……しかし先輩、そう感じるのは、現実に鬼が出ているからでしょう?」


「まあ、な」


 えも言われぬ沈黙が降りた。


 八重樫がノンアルコールのビールを飲み干してジョッキを置いた。


「――なら、そろそろその話をするか」


 八重樫は隣の椅子に手を伸ばす。そこには彼の手荷物である焦茶色の鞄が置かれている。


 取り出されたのは、事件の資料を収めたバインダーが一冊。


「これまでキメンジャが起こした事件は四つ――」


 八重樫は空いた皿をテーブルの脇へどかし、できたスペースに資料を広げる。開いたページには市内の地図が描かれていた。


「最初は中津川沿い。おれがアバラ折られたやつだな。時間は早朝で、場所は……地図で言うとここだ」


 八重樫の太い指が、赤い丸でチェックされた地図上の一点を示す。市街の中心部、ちょうど市役所の裏にあたる位置だ。


「次に、盛南大橋の下で空手指導員が襲われた事件……これは二十三時を回った頃だったか」


 八重樫の指が、駅を越えて南方へと移動する。


「三番目が、運動公園で走り込みをやってたアマチュアボクサーがノされた事件。早朝だ。状況的にはおれのと似てるな」


 ぐっと北西に向かって指が動く。


「最後はついこの前の日曜日、散歩中の柔道家が被害に遭った事件。こいつだけは昼に起きてるが……ま、聞き込みの成果は期待できんだろな」


 和泉は八重樫の指が置かれた地点を凝視する。


 路上だ。中学校と定時制高校に挟まれている。


 八重樫の顔が浮かないのもわかる。このポイントに限っては、平日のほうがまだ目撃者が望めただろう。だからこそ休日に事件が起こったのだ、とも言えるのかもしれないが。


「――あ、でも、部活動の生徒とかは?」


「目のつけどころはいい……が、残念。中学校のほうはプールの真裏だし、高校のほうは部活休みでグラウンドは無人だったって話だ」


 唯が口をはさむ、


「この道……突き当たりに医大の学生が出入りしていませんでしたか? 厩舎があったと記憶しているんですが」


「ああ、乗馬部な。でもあの馬場ならずいぶん前に取り壊されたぞ。今は滝沢で活動してるはずだ」


「そうでしたか。となると先輩の言うとおり、目撃者はいないでしょうね」


 楓山との思い出を振り返っていた先刻までとはうって変わって、唯の眼光は鋭さを増し、すっかり仕事モードへと切り替わっている。


 やはり自分を餌にして釣りあげるのがベスト、とでも算盤を弾いているのかもしれなかった。


「――この資料は頂いても?」


「おう。有効に使ってくれ」


 警察が集められた情報はそれで全部だ。八重樫はそう告げて、とっくに氷の溶けきったお冷やをあおった。




 店を出てすぐに八重樫と別れた。


 腕時計に目をやると、時刻は二十二時を回ろうかというところだった。地方都市の商店街など夜には人が絶えるものだとイメージしていた和泉は、大通のアーケード街の光景に面食らう。ダイニングバーやカラオケ店やの看板が皓々こうこうと光るメインストリートは、むしろ来たときよりも賑わいを増している気さえする。


「わたしが住んでた頃はもうちょっとおとなしかったんだがな。最近は歓楽街化が進んだせいか、ご覧のとおりだ」


 ハウンドの待つパーキングへと向かう途中、唯はそのように説明してくれた。


「ところでホテルは取れたんだったか?」


「ビジネスホテルに二部屋。高速走ってるときに予約しときましたよ。事件起こったのが観光シーズンじゃなかったのはせめてもの救いですかね」


「違いない」


 言葉を交わしているうちに、唯の運転するハウンドは駅裏のビジネスホテルの駐車場に乗りつけていた。


 車から出たとき、唯の胸元から電子音が鳴った。その位置のポケットにデバイスを入れておくのは彼女の癖みたいなもので、今はプライベート用のスマートフォンが入っているはずだった。


「誰からです?」


 音からしてメールの着信だろう。こうした電子機器の類があまり得意でないのか、唯はメッセンジャー系のアプリを普段使いしていない。


「紅葉だ」


「やっぱり」


 笑いが漏れた。


「『夜も捜査されるんですよね? 起きていられるように私が一肌脱ぎましょうか?』……あいつめ、一晩中わたしと喋るつもりか」


「あの子だって明日学校あるでしょうに。ほんと懐かれてますね」


「いや、まあ、明日ならあそこは開校記念日で休みではあるんだが……それにしたって、はしゃぎすぎだまったく」


「桐島隊員と会えたのが嬉しいんですよ。微笑ましいじゃないですか」


 唯は無言でメールに返信した。打ってから送信するまでが彼女にしては異様に早かったので、文面はシンプルに「もう寝ろ」といったところかもしれない。


 ホテルのロビーに入ってチェックインを済ませる。


 絶妙なタイミングで逃したエレベーターが戻ってくるのを待つ間、和泉と唯は並んでソファに腰掛けながら、


「実際、どうするんです。早朝から動きますか?」


「――いや」


 唯は少し考えて、


「かなり移動したからな。まずは疲れをとるのが優先だ」


「じゃあ、明晩からですか」


「そうだな。二十三時から五時にかけて、あちこち回ってみよう」


「一人が囮、もう一人が隠れて後方につく形ですよね?」


 うむ、と唯が首肯する。


「もし釣れなかったときに備えて、代わる代わる日中にも調査しておくか。昼に働いたほうが夜は囮、体力を温存したほうが後詰め。どうだ?」


「いいと思います。それでいきましょう」


 エレベーターが一階へと帰ってきた。


 開いた扉の中に他の客はいない。和泉と唯は無人のエレベーターに乗り、泊まる部屋のある五階へと昇った。

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