第八話 鬼途
伝承鬼 ラセツ・妖怪人間 キメンジャ 登場
Chapter 57. 鬼面の通り魔
実を言えば、
中学生の頃に初めて剣道に触れ、以来ずっと竹刀を握ってきた。これからも腕を磨き続けたいと考えたとき、警察で働くという道が、他のどんな進路よりもすんなりと自分の前に立ち現れた。ただそれだけのことだった。
そんな八重樫も、もう三十二歳になる。
これといって体力の衰えは感じていないが、まわりの話を聞いていると自分もそう遠くないうちに下り坂へ差しかかるのだろうと思わされた。
今年に入ってから早朝の走り込みを日課と定めたのも、そのような焦りがあってのことだ。
――そろそろ一息入れるか。
八重樫は川沿いのベンチの横で足を止めた。
首に回していたタオルを取って汗を拭うと、今度は腰のポーチから水筒を引っ張り出す。中身は水道水だ。一気に喉へと流し込む。
「……ん?」
再び走り出そうと前を向いて、八重樫はあることに気づいて眉をひそめた。
朝霧の向こうで人の影が揺れている。
――珍しいな。
川は街の都心部を横切るように流れている。川岸に整備された遊歩道も当然、相応に往来はある。
が、それはあくまでも日中ならの話だ。
もう少し空が明るんでからであればジョギングや犬の散歩に勤しむ市民の姿も見られるだろうが、さすがにこの時間に誰かと行き会ったことは、八重樫の記憶する限りでは一度もない。
さてはお仲間が増えたか――八重樫はそう考えて、霧の中へと挨拶を投げた。
「どうも、おはようございます! ウォーキングですか? お互い朝っぱらから精が出ますな……」
返答の代わりに、からん、と乾いた音。
白い
八重樫は、その物体をよく知っていた。
「……竹刀?」
何となしに拾い上げる。
その途端、初めて人影が声を発した。
「構えろ」
男とも女とも判断のつかない、ひどく嗄れた声だった。
「おぬしが腕に覚えのある者ならば――」
気づけば、あたりの霧はいつの間にか晴れつつあった。白いヴェールが薄れるにつれて、影しか見えなかった声の主の姿があらわになってゆく。
赤いレインコートに身を包んだ小柄な人間。だがその顔を目の当たりにした瞬間、八重樫は絶句した。
鬼であった。
まっすぐこちらを睨み据える不動の眼、大きく裂けた口。そして何よりも目立つ、耳の上から伸びる二本の角。
八重樫の行く手に立ち塞がるその人物は、木彫りの鬼の面を被っているのだ。
「な……何なんだ、あんた」
鬼面の怪人は答えない。
コートの背中には竹刀がもう一本、古めかしい紐で雑に括りつけられている。怪人が手を伸ばして力を込めると、ぶちっと音を立てて紐がちぎれ、風に乗って川のほうへと流れていった。
手袋に包まれた両手が、竹刀を正眼に握る。
「――我と、闘え」
鬼の面に彫られた眼が妖しげに光る。
次の瞬間、怪人が有無を言わせぬ速さで踏み込んできた。
◇ ◇ ◇
「――この一件を皮切りに、同様の事件が立て続けに起こっているそうです」
「剣道、柔道、空手、ボクシング……被害者はいずれも武道や格闘技の経験者です。どのケースでも自分の最も得意とする形で決闘を挑まれ、怪我を負わされてるということでした」
昨日の夜、唯のもとに一本の電話が入った。
電話の主は八重樫剛。唯にとっては警官時代の先輩にあたる。気さくで老若男女に慕われる好人物だが、その八重樫から、故郷の街で連続通り魔事件が発生していると相談があったのだ。
――不覚にも肋骨をやられちまった。
――もっとも、万全の状態なら捕まえられたのかって訊かれたら、それもそれで自信がないんだよな。
――あの逃げ足は、ちょっと人間業とは思えなかった。
八重樫はそう説明して、ECHOに協力を求めてきたのだった。
「わたしたちが介入するべき案件だと考えます」
「現職の警察官か。信用できる筋だな」
顔を並べた仲間たちの中で、ひときわ体格に恵まれた男性隊員――
ただしこの発言は、いかにも彼らしい着眼点から出たものでもある。険のとれたような態度を見せることの多くなった山吹だが、目撃者のステータスを信憑性の根拠に置きたがる癖は未だ抜けない。
「エイリアンの仕業って感じでもないですけど……得体の知れない相手には違いないんだし、俺も動くべきだと思います。捕まえてみて人間だったら警察に引き渡せばいいわけですし」
と、反対側の席に座る青年――
ずいぶん関係が和らいだものだ。唯は山吹と和泉を交互に見やって感慨に耽る。
彼らが水と油であると見抜けなかったことに、唯はこの半年間たびたび頭を痛めさせられてきた。最終的に和泉を採ると決めたのは隊長でも、そうすることを推薦したのは自分だ。二人がブリーフィングや訓練で小競り合いを演じるたびに割って入るようにしてきたのは、言い出しっぺとしての責任感からでもある。
ところが最近、状況が微妙に変わった。
議論をするときにせよ組手をやるときにせよ、二人が以前ほどヒートアップしなくなったのだ。どんな心境の変化があったのであれ、喜ばしいことには違いない。
――まあ今回に関してはそもそも意見が一致しているし、もめる要素がないっていうのが一番なんだろうが……。
「ん~」
その和泉の隣から、場違いに可愛らしいハミング。
「SNSとか掲示板をざっと浚ってみた感じ、たしかに都市伝説界隈がお祭り状態になってるよ。え~と……『
タブレット片手に小さく唇を尖らせるのはサクラ・ノードリー隊員だ。高校生で通りそうなほど幼い容貌の乙女だが、もちろん立派に成人している。
ちょうど今がそうであるように、サクラは会議中でもお構いなしにデバイスを弄ることがある。彼女が入ってきた当初は唯も面食らったものだったが、本人曰く「気になったらすぐ調べるほうが能率いいでしょ?」ということらしい。こうした正論をそのまま許容するのは
「方言に『じゃ』の響きが多いと聞いたことがあるから、そこからではないかね。ひょっとしたら普通に『者』かもしれんけど」
サクラの疑問に反応したのは、学者然とした風貌の男――
その伊達メガネのフレームを指でくいっと上げながら、周防は興味深そうに身を乗り出した。
「まあ名前はさておき、盛岡で鬼というのは穏やかじゃないね」
「どういうことです?」
和泉が首を捻る。
「盛岡っていえば岩手の県都だろう? あそこには『
「ええ、間違いありません」
唯は首肯して和泉に向き直り、
「昔、人里を荒らし回っていた鬼を神様が捕らえ、二度と里に踏み入らないことを約束させた。その約束の証として、鬼は岩に手形を刻んだ――という話が、岩手という県名の由来だと伝えられているんだ」
「じゃあ、怪人が鬼に扮しているのは……」
「正体が何であれ、伝説を意識してのことだと思う」
鬼の実在を信じる市民は多くない。しかし、ECHO隊員として数々の怪事件に関わってきた唯は、所詮単なる作り話であろうと断じる気にはなれなかった。
そのとき、咳払いが聞こえた。
「――調査を行うことに異論のある者はいないな?」
空気が瞬時に引き締まる。バリエーション豊かな人材の揃う場にあってひときわ大きな存在感を放つこの壮年の男こそ、SSS-Uを取りまとめる指揮官、
「よし。では決定だな」
これ以上議論を重ねる必要はないと、全員の顔が語っていた。
「桐島、和泉両隊員は〈ハウンド〉で盛岡に移動。現地入りした後は土地勘のある桐島隊員が調査を主導するように。岩手県警には私から正式に話を通しておく」
「了解です」
コネクションを活かして自由に動け、という意味だと唯は解釈する。
「周防副長とノードリー隊員は情報の収集。山吹隊員は……レーベンを飛ばすことになるかはわからんが、念のためだ、スクランブルに備えて待機してくれ」
めいめいが頷く。
「質問がなければ解散とするが……」
と、和泉が手を挙げた。
「調査が明日以降にも及びそうな場合は?」
「その場合……というより、そうなる可能性のほうが高いだろうな。私か周防に報告を入れて手近なホテルを取れ」
「わかりました」
「戻ってきたら経費精算を忘れるなよ」
結局、他のメンバーから質問は出なかった。
解散の号令を聞き届けると、唯は和泉を引き連れて特捜車両〈ハウンド〉の待つ車庫へと向かった。
関東総合基地の地下からはシークレットトンネルが伸びていて、全国各地の拠点へと移動できるつくりになっている。民間人は言うに及ばず、正規隊員であっても利用できる者の限られる道なので、その「限られた人間」にしてみれば地上を走るよりも速く車を飛ばすことができる。
あくまでも理論上は。
なにしろシークレットトンネルは地下道である。景色ときたら実にいかめしいもので、コンクリート丸出しの壁面とオレンジに光る照明だけが延々と続く。こんなところを長時間走ったら眠くなって逆に危ないし、何よりつまらん――というのが唯の私見だ。
そういうわけで現在、ハウンドはシークレットトンネル内ではなく、東北道を北に向かって突っ走っている。
「ハウンドにも自動運転機能があれば便利なんですけどね」
四時間ほど走ったあたりで、ハンドルを握る和泉がぼやいた。盛岡南
「そう言うな、ハッキングされたら目も当てられないんだから。――次のサービスエリアで昼にしよう。後の運転はわたしがやる」
「俺もまだ大丈夫ですよ?」
「いや、市内に入るからな。慣れてるわたしのほうがいい」
戦時中に空襲の被害がさほどなかった関係で、盛岡都心部には古い道路網があちこちに残されている。入り組んでいるうえ交通量に比して車線が足りず、渋滞することは茶飯事だ。あまつさえ市民が自転車での移動を好むものだから車の肩身は尚のこと狭い。悪いことは言わん、地理を知ってる人間に任せるほうが賢明だぞ。
唯がそのように説明すると、和泉はすっかり納得して、
「そういえば桐島隊員、岩手の出身だったんですね」
「ん? 知らなかったか?」
唯としては特に隠しているつもりもなかった。言われてみれば教えていなかったような気もする。訊かれなかったからだ。
「これでも一応、騒がれてた時期もあったんだがな」
「ああ、なぎなたの……動画サイトにインカレの決勝の映像ありましたよ。インハイも獲ってるんですよね、めちゃめちゃすごいじゃないですか」
「映像見たなら、わたしの母校が岩手だってことはわかっただろう?」
「地元まで岩手とは限らないかなと」
「なるほど、それもそうだ」
窓の外、流れてゆく高速道路の標識を何となしに眺めながら、唯は過ぎ去った日々について思索を巡らせる。
インカレを制したのは七年前。インターハイまで遡れば九年も前だ。いみじくも和泉の言葉が浮き彫りにしたように、あの頃の記録はネットを漂う動画の中くらいにしか残されていないのかもしれない。
とすると、親しい者以外で自分のことを覚えているのは同世代以上の大人、それも武道への関心が高い人種に限られるのだろう。たとえば警察関係者とか。
そのこと自体はありがたい。
スポットライトを浴びることが嫌いなわけではないが、当時の世間からの注目ぶりは、一介の学生に過ぎなかった自分にとっては手に余る名声でしかなかった。
「大学を中退したのが、君が動画で見た大会の少し後だな」
「中退……それで警察の採用試験を?」
「社会に出てしまえば周りも静かになるだろうと思ったんだ。実際だいぶましになったよ。要するに、みんな学生が頑張るところを見るのが好きなのさ」
フロントガラスに目をやると、行く手にサービスエリアが見えてきていた。和泉が車線変更をかけ、速度を緩めはじめる。
――そう、学生だったのは昔の話だ。
唯は助手席のドアに肘をかけ、左の頬に拳を埋める。
たまの帰省に乗じて後輩に指導したりはするものの、自分でなぎなたを握る機会はめっきり減った。今更ECHOの仕事を放り出して選手権に乗り込むつもりもない。事実上、競技者としての桐島唯は引退したようなものである。
それでも、八重樫から受け取った情報によれば、通り魔は明らかに武道経験者に狙いを絞っているのだ。
――なりゆき次第では、昔の自分を
ハウンドが停車するのと同時、唯はひそかに覚悟を決めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます