Chapter 56. 十年経ったら

 台風十六号が列島を去った。地上の窓から眺める空も、今は雲ひとつない一面の青に染まっている。


 四年前は、この空模様もただ皮肉なだけだった。


 今はまるで違って見える。


 山吹はふっと息をついて、病室の内側へと目を戻した。


「終わったぜ、沙耶佳」


 パイプ椅子に腰を下ろして、ベッドに横たわる幼馴染の手をそっと握る。


 もちろん、答えが返るはずもない。


 コルドラーを討ち果たせば沙耶佳が意識を取り戻す――最初からそんなことを思って戦っていたわけではなかった。山吹はおとぎ話になど興味がない。呪いや魔法といった非科学的なものも信じない。


「すまねえな、ついていてやれなくて。やっぱり俺は骨の髄まで『戦闘機乗り』が染みついてるみたいだ」


 頭に浮かぶのは、首輪付きとの最後の攻防だ。


 あの一瞬。命の瀬戸際に立たされた土壇場で、いち早くオーグメンタを起動させて逃げるよりも、差し違えてでも宿敵を仕留めるほうを自分は選んだ。


 ――いつか沙耶佳の時間が再び動き出したとして、そのとき俺がもうこの世にいなかったら。


 戦いの最中、そういう想像が働かなかったわけではなかった。


 それでも自分はパイロットとしての心残りを優先したのだ。


「まったく薄情な奴だよな。さんざん世話を焼いてもらったってのに、ろくに返せやしねえ。意識が戻ったら怒ってくれ」


 我ながら勝手な話だと呆れがくる。


 だが――思えば、自分と沙耶佳は昔からこうだったのではなかったか。


 自分はずっとパイロットを目指してきた。


 沙耶佳が自分を支えてくれたのは、自分が目標のために他の――当の沙耶佳自身も含めて――すべてを顧みない男であったからではないのか。


 もし自分がすぐにでもパイロットを引退して、沙耶佳のそばにいることを選んだとしたら、沙耶佳は目覚めたときに嬉しそうな顔を浮かべるかもしれない。


 けれど、その笑顔はきっと、心からの喜びを映したものではない気がするのだ。


「……ま、本当のところはわからねえけどな。俺がレーベンに乗っていられるのもあと十年が限度だ。十年経ったら答え合わせしようぜ」


 最後に軽く頭を撫でて、病室を後にする。




 病院のエントランスを出たところで和泉と鉢合わせた。


「ご報告、終わったんですね」


「おう」


 山吹は特に驚かない。どうせ来るだろうと思っていた。この後輩がとんでもないお節介焼きであることは、ここ数日の間によく理解できたつもりだ。


「やれやれ、おまえの特攻癖を笑えなくなっちまったな」


 正門に向かって歩いてゆく。ちらりと後ろに一瞥をくれると、和泉は妙にばつの悪そうな顔を浮かべていた。


 ――こいつ、やっぱりか。


 その表情を見て、山吹の脳裏にひとつの確信が生まれる。


「なあ、正直に答えろよ。おまえシールドミサイルの特性に気づいてたな?」


「……わかりますか」


「俺にトドメを任せようとしてワザと失敗したんだろ? 雲に入ってまで追いかけようとしたくせに、キリエスがコルドラーを食い止め出した途端まるで自動操縦にでも切り替えたみたいに攻めっ気がなくなった。あんだけチグハグな飛び方してたらバレバレだ。一丁前に気を遣いやがって」


「気を遣うに決まってるでしょう、あんな経緯を聞かされたら……」


「アホ言え。もともと首突っ込んできたのはおまえじゃねえか」


 言葉を重ねていくごとに、眉間のしわがどんどん険しくなってゆく様子が自分でもわかった。


 まったく口にしたとおりだった。和泉は誰に頼まれるでもなく、自らの意思でこちらの事情に首を突っ込んできて、自分が宿敵を打倒するためのヒントを授けようとしてくれたのだ。


 ――つくづく、こいつとは相性が悪い。


 山吹は意を決した。


 足を止め、一八〇度振り返った。


「いいか、一度しか言わん」


「な……なんです?」


 和泉の目を正面から見下ろす。ここぞのときには不可思議なまでの引力を感じさせる眼光も、今は嘘のように鳴りを潜めていて、黒曜石をはめ込んだような瞳にはただ当惑ばかりが浮いている。


 山吹は、派手に咳払いをしてから告げた。


「サポート助かった。感謝する」


 その瞬間に和泉が晒した呆け面は、山吹の溜飲を大いに下げるものだった。

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