Chapter 55. 雲上に残るもの
神奈川と山梨の県境付近に差しかかったとき、レーダー画面の上端に光点がひとつ出現した。
――来たな。
山吹の顔に浮かぶ、頬が裂けるかのような笑み。
前方空域から迫る飛翔体。航空各社や自衛隊への通達が済んでいる現在、雲の高さを飛び
「まもなく接敵する。交戦に入るぞ」
通信回線に吹き込まれた己の声は奇妙に潜められ、今にも獲物に飛びかからんとする猛獣のような緊迫を孕んでいる。
だが、もはや山吹はそのことを意識していない。
目はキャノピーの向こうを刺すように見据え、耳はコクピットに届くいかなる音も聞き逃すまいと集中し、手はレバーと、脚はペダルと無線接続されたかのような一体感をもって、機体の一挙手一投足へと神経を尖らせている。
宿願を果たす機会が、ようやく訪れたのだ。
『コマンドルームより山吹くん、ならびに和泉くんへ。攻撃を許可する。――目標の上昇速度が予想したよりも速い。注意したまえ』
切り札は確実に当てられる状況に持ち込んでから使え、ということか。
「了解」
短く答えて、山吹は操縦桿を前に倒した。
レーベンの機首が分厚い雲を突き抜けたのと同時、眼下にコルドラーの頭頂部がはっきりと見えた。
「――よう、首輪付き」
山吹の左手がスロットルレバーの兵装選択スイッチを操り、右手が操縦桿のミサイル発射ボタンに指をかける。
「決着をつけようぜ……!」
レーベンの主翼がまず二発、短射程ミサイルを解き放った。
コルドラーの首の付け根――「首輪付き」の異名の由来となったリング状の
誘爆の炎が幕となって空域を覆う。その紅蓮のカーテンを切り裂いて、コルドラーがレーベンめがけて一散に上昇してくる。
強い敵意を宿してぎらつく瞳。
山吹はキャノピーを通して、巨大な生き物が自分をはっきりと睨み据えているのを感じる。しかし、今更そんなことで怯みはしない。
――狩る側は俺だ。てめえじゃねえ。
操縦桿を傾ける。ペダルを踏む。機体が左に逸れて巨鳥の突進をかわした。
そしてコルドラーの向かう先には、和泉が待ち構えていた。
『シールドミサイル、発射!』
和泉の声が
プリズムのようなエネルギーフィールドに包まれて駆けるミサイルを、コルドラーは得意の雷で迎え撃った。首の白い毛が光ると同時、巨鳥を取り巻く黒雲から幾重もの稲妻が生じて、ミサイルに向かって殺到する。
一波目。難なく弾いた。
二波目。これも弾いた。
三波目が放たれる寸前、シールドが掠れはじめた。
――エネルギー不足か!
山吹はマニュアルの内容を思い出し、忌々しげに舌打ちする。
そもそもあの新兵器は、ティマリウスが用いた光波シールドの技術を流用して作られたものだ。
本家本元であるティマリウスがシールドを維持できたのは、莫大なエネルギーゲインを生む動力源があったからだ。そのティマリウスですら、大気圏内でシールドの強度を保つためには、防壁を一カ所に集中することを必要とした。
仕組みを再現できたとしても、レーベンがミサイルに注ぎ込める程度のエネルギー量では、ごく短時間シールドを形成するのが精一杯なのだろう。
シールドを失ったミサイルに稲妻が四方八方から群がり、ミサイルは怪鳥に届くことなく空の塵となった。
『くそっ……失敗か!』
残るシールドミサイルは山吹の一発だけだ。
が、山吹は
「いいや、でかした。今ので使い方はだいたいわかった」
――こりゃあ、仮に量産が間に合ってたとしても考えなしにぶっ放せる武装じゃなかったな。
シールドが持続するのはせいぜい五秒。距離さえ選べば雷雲圏を突破することは充分できるが、複雑な回避機動をとらせるほどの余裕はあるまい。
――最短距離でぶち込むためのシールドだから、当たり前っちゃ当たり前ではあるんだろうが……ドッグファイトの距離とまでは言わないにしても、もっと近づいてから撃たなきゃ効果は見込めねえか。
すると当然、一撃離脱の難易度は上がる。
「ふん……」
つくづく楽をさせてもらえない戦いだ。
――まあ、やりようはある。
山吹の戦闘機乗りとしての脳ミソが、暴風の支配者を高みから引きずり下ろすべく、無慈悲に算盤を弾きはじめる。
――首輪付きの体格は、今まで出現してきた他の怪獣と比べても見劣りしないように思える。
――正確な重さの記録はないが、どんなに少なく見積もっても二万トン以下ということはないだろう。
――だとすれば、コルドラーの身体構造は、空を飛ぶために相当な無理を重ねていなければおかしい。
「力に任せてビルや高架線をぶっ壊すくらいはできても、ミサイルの直撃に耐えるほど頑強な体はしてねえはずだ。俺はシールドミサイルで狙う。おまえは残りの短射程ミサイルで攻めろ。赤外線誘導ならチャンスがないわけじゃねえ」
ECHOPADへと一気にまくし立てた。
言うだけのことを言い終えるなり、山吹はさらなる加速を得るべくスロットルを開けようとして、
「……ん?」
表情を曇らせた。
わかりました、と返してきたばかりの和泉のレーベンの挙動がおかしい。
二号機は急旋回を切るや否やオーグメンタに点火していた。トップスピードでコルドラーに急迫してゆく。山吹が再び敵を射程圏内に捉えるよりも、和泉が追いすがるほうがはるかに早い。
それ自体は構わない。
問題は、向かう先が積乱雲の只中であることだ。
「戻れバカ! そこは奴の狩り場だぞ!」
『でも、このままじゃ見失うかもしれません。山吹隊員だってこいつを逃がすわけにはいかないんでしょう?』
厄介なことに一理はある。電装系の防護が強化された今システムをダウンさせられることはないだろうが、磁場そのものを打ち消せるわけではない。発したレーダー波を撹乱される可能性はたしかに否定できない。
「……だとしても、撃墜されるリスクのほうが高い! 目や耳ならコマンドルームにもある。いらんところで危険を冒すなと言ったろう!」
山吹はふと、自分が思いのほか冷静に戦況を見渡せていることに気づく。
――あいつのおかげか?
和泉が無茶を繰り返すせいで、無意識のうちにセーブでもしているのか。自分より泡を食っている奴がいると頭が冷える、それと同じ理屈かもしれない。
「ったく、慣れないことをさせやがる!」
もっとも、こちらが指示を飛ばせるかどうかと、和泉がそれを遂行できる状態にあるかどうかは別の話だ。
レーベン二号機はすでに半身を雲の塊へと埋もれさせつつある。今から和泉がどんな操作をしたところで、一度雲に突っ込むことは避けようがない。
「命知らずめ……」
視界からレーベンが消えた。こうなっては和泉自身の判断と腕でどうにか切り抜けてもらうしかない。
山吹は操縦桿を手前に引き、機体を上昇させた。
積乱雲の上方へ抜ける。
飛び立ったばかりのコルドラーが高度を下げるとは考えにくい。ならば、高空に占位すれば睨みを利かせられるかもしれない。
眼下で雷光が瞬き、耳をつんざく轟音が響く。
「あの野郎、やられてねえだろうな?」
眉をひそめたとき、暗灰色の雷雲から、二つの影が揉み合いながら飛び出した。
ひとつはコルドラーだ。翼と鉤爪を激しくばたつかせ、自らに掴みかかる敵を振り払おうとしている。
そして、もうひとつは――
「キリエス!?」
見紛うはずもない。幾度か戦線を共にしてきた銀色の巨人。キリエスというコードネームで呼称される戦乙女――どういうわけか知らないが、女性であろうと推定されているらしい――が、踵から生えた光の羽をはためかせながら、怪鳥と互角の攻防を繰り広げている。
――また俺たちに味方してくれるのか。
――いや待て、和泉はどうした?
嫌な予感がした。普段の天候であれば、被弾してもベイルアウトさえ可能なら助かる目はある。しかし今、灰色の雲は雷の巣である。生身を晒せば消し炭と化すこと請け合いだったし、たとえ運よく焼かれなかったとしても雲の下では台風が荒れ狂っているのだ。パラシュート降下などできるわけがない。
幸いなことに、予感は外れた。
巨人と巨鳥からやや遅れて、レーベン二号機が雲海から姿を現したのだ。
安堵の息が漏れる。
――あいつめ、よっぽどキリエスに気に入られてやがるな。
巨人が何のつもりで和泉のことを気にかけているのかは知らない。が、喜ぶべき話には違いなかった。和泉はどうしようもなく小生意気な奴だが、いくらなんでも殉職されてしまっては寝覚めが悪い。
「HaAh!」
キリエスの撃った光弾を、コルドラーが翼を上下させてやり過ごす。流れるような羽ばたきで高度を稼いだ怪鳥は、せわしく翼を動かして停止。くるりと身を翻す。
――そこだ。
敵が静止した瞬間を逃さず、山吹は短射程ミサイルを放った。
当たるとは思っていない。ミサイルが機体から離れたときにはもう、山吹は操縦桿とラダーペダルの操作を終えている。レーベンが横滑りしながら逃げようとし、山吹は流れゆく視界の隅でミサイルの行方を見守る。
コルドラーの首輪が光る。
下方の雷雲から伸びてきた幾本もの稲妻がミサイルを叩いた。轟音。雲でできた海原が三度、炎に炙られて赤々と燃える。
予想どおりだ。やはり単調な攻めでは攻略できない。キリエスか和泉、どちらかと連携して隙を作らねばならない。
ひとまず対話が通じるのは和泉のほうだ。
通信を入れようとしたとき、コクピットに警報が鳴り響いた。
「――なに!?」
熱源が機体を呑み込もうとしていた。山吹はキャノピーの外に視線を戻す。凄まじい速さで迫りくる炎の壁が、視界いっぱいに映し出された。
コルドラーの攻撃だ。
巨大な翼を羽ばたかせることで突風を巻き起こし、ミサイルが生んだ爆炎ごとこちらに向かって吹きつけてきている。
「チィィッ!」
山吹は反射的に、スロットルレバーを最大出力の位置まで押し込んだ。その手が同時にグリップ部分のボタンにかかる。ボタンを押せばロックが解除され、最大出力のさらに上、オーグメンタの点火位置へとレバーを合わせることができる。
コクピットの内と外とをすばやく行き来する視線が一瞬、操縦桿を握る自らの右手と、指を伸ばせば届くミサイルの発射ボタンを捉えた。
天啓のような閃き。あるいは悪魔の囁きのような思考。
今なら、首輪付きには自分が見えていない。
「――シールドミサイル、発射!」
プリズム状の光波シールドを纏い、ミサイルが炎の一点を突き破ってまっすぐに疾駆した。
「南無三ッ!」
山吹は間髪入れずにオーグメンタを作動させる。
厳しいタイミングであることはわかっていた。もはや無傷とはいくまい。エンジンひとつで済めば御の字。だがそれ以上の損傷なら――暴風豪雨の荒天だ、脱出しても生き残れる確率はゼロだろう。
オーグメンタに火が灯る。その熱が運動エネルギーに変わるよりも早く、燃料タンクに焔の津波が押し寄せる。
炎のむこうで爆音が響いた気がした。
山吹はほとんど覚悟を決めながら、最後のつもりでレーダーへと目を落とす。
四つあったはずの光点が三つに減っている。
自機。
和泉機。
キリエス。
それで全部だ。
――上出来じゃねえか。
命の瀬戸際であることを忘れた。山吹の口元が滑らかに、ほどけるように緩む。
空でやり残したことは、もうない。
そして山吹は、清澄な叫びが天を裂くのを聴いた。
「ZeAh!」
レーベンが火の玉と化すことはなかった。
漆黒の機体が炎に包まれる直前、割り込んできたキリエスがバリアで熱波を防いだのだ。
銀色の
「協力ありがとうよ、キリエス」
山吹が敬礼を送ると、キリエスは静かに頷きを返してきた。その均整のとれた巨体がたちまち、溶けるかのようにかき消える。
あとに残されたのは二機のレーベンと、渦潮のごとき台風の目と、雲上を往く者のみに見える青い空だ。
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