Chapter 48. パスカル・フレーズ

 興一とて覚悟の上ではあったが、父と母にめちゃくちゃ怒られた。


 まあまあそのへんで、と二人を宥めてくれたのは伊達メガネをかけたSSS-Uトライエス・ユニットの副長だ。巻き込まれる前にこうして我々が保護できたわけですし、何よりお子さんの功績は勲章ものなんですよ。お子さんが我々の協力者にフォークの投げ方を教えてくれていなければ、我々はもっと苦戦を強いられていたに違いありませんから――。


 見た目どおり弁の立つ人だと感心する興一に、彼はこっそりとメガネの奥で片目を瞑ってみせた。


 つまり、そういうことになったのだった。


「念のため検査を受けてもらう規則になってますんで、それが終わったら我々の車で息子さんをご自宅までお連れしますよ」


 周防すおうと名乗ったメガネの副長は、最後にそう約束して、父と母をすっかり丸め込んで家に帰してしまった。鮮やかな手際というほかない。


「……あざっす」


「なに、君の勇敢さに報いるにはこのくらいのことはしなければね」


「でも法的にはアウトっすよね?」


「自分が不利になることを言うもんじゃないよ。今回島を守ったのは法律じゃなかろう?」


 和泉の上司だけのことはある、と言うべきだろうか。ECHOエコーという組織のイメージを考え直す必要があるかもしれない。


「ところで、検査ってのは?」


「むろん方便だとも。王女様がお待ちかねだよ」




「コーイチ――――っ!!」


 医療スタッフの詰めている仮設テントを潜った瞬間、ものすごい勢いで体当たりされた。


「ありがとう。コーイチのおかげだよ!」


 テントの外ではECHOの処理班がせわしなく行き交い、ティマリウスの残骸の撤去作業を進めている。


 戦いに勝利した直後のキャリルは不気味なくらい静かだったのだが、どうやら時間差で理性が吹っ飛んだらしい。


 とても「王女様」なんてガラじゃねえよなあ、と改めて思う。


「――左手は看てもらったか?」


 キャリルの興奮が落ち着くのを待って、興一は気になっていたことを問いかけた。


 キャリルはつい先程まで、こちらの肩に右手を置いてがっくんがっくん揺さぶってきていた。感極まった最中でさえ片方の手しか使っていなかったということは、やはり無事ではないのだろう。


「折れてはいないって」


 テーピングで固めた左腕を持ち上げつつ、キャリルはまだ喜び足りない様子で飛び跳ねる。


「打撲。二週間あれば治るだろうって」


 よくあることだな、と思った。興一自身も野球の接触プレーで似たような経験をしている。ぶつかった瞬間は間違いなく大怪我だと感じるのに、数分も経つ頃には痛みがけろりと収まっているのだ。


「そんなに酷くなくてよかったな。……けど、二週間ってのはネリヤ星人にも当てはめていい話なのか?」


「言ったでしょ、ネリヤと地球はよく似てるって。ボクの体は地球の女の子とほとんど変わらないよ。力はボクのほうがちょっと強いみたいだけど」


 興一は「ちょっと」という言葉の意味について真剣に検討を始めようとする。しかし、ぐいぐいと言葉を浴びせてくるキャリルがそれを許さない。


「ねえねえコーイチ、二週間で宿題片付けちゃおうよ」


「は……なんだよ藪から棒に」


「それでさ、夏休みの残り半分でいっぱい遊ぶの。また野球の勝負したり、商店街でお買い物したり、洞窟の中とか探検したり。――あ、そうだ、せっかくだし泳ぎも教えてよ! ちゃんと泳いでいいビーチもあるんでしょ?」


 ――ま……いいか。


 この世に生まれ落ちたときからコンピュータに管理されて暮らし、十一歳のみそらで星を出て、そこから一切の時間をティマリウス討伐のために捧げてきた。それが興一の知り得た、キャリル・メロ・ネリヤカナヤという女の子の半生だ。


 そんな日々も今日で終わった。


 キャリルは今、初めて本当に自由なのだ。


 こいつが自分の意志で掴んだ自由だ。


 ひょっとするとキャリルには、目に映る全てが新しいものに見えているのかもしれない。やりたいことが溢れ出して止まらないのは、キャリルの心がキャリル自身の時間を取り戻そうとしているからなのかもしれない。


「わかったよ。いくらでもつき合ってやらあ」


 このときにはもう、ひとつの予感が興一の頭の奥底に芽生えつつあった。


 キャリルに別れを告げる日は、きっと、そう遠くないだろう。



     ◇ ◇ ◇



 ――ちなみに。


 和泉のことについて言えば、彼はキャリルよりよっぽど重傷だった。


 島に一つしかない総合病院が和泉への面会を受けつけたのは、戦いが終わってから三日も経ってからのことだ。聞けば、担ぎ込まれてから二昼夜もの間、ずっと意識が戻らなかったらしい。


「まあ、このくらいならセーフさ」


 何でもないかのように笑い飛ばす和泉だが、それはまともな人間の感覚じゃないというのが興一の偽らざる本音だ。


 鼻骨骨折。左肩にⅡ度熱傷。背中にも複数の火傷。極めつきに左膝靭帯損傷。


 身体の至るところを包帯とギプスで覆った格好は、どう見ても「セーフ」の一言で済ませていいものではないと思う。外見のインパクトのせいで詳しいことを聞きそびれてしまったが、元どおりの生活に戻れるまで最低三ヶ月はかかる怪我だ、というのが興一の抱いた印象であった。


 しかし、見舞いに訪れた興一とキャリルを前にして、和泉はまったく深刻さを感じさせない表情で豪語するのだ。


「しぶといのが一番の取り柄なんだ。ひと月もあれば動けるようになるよ、たぶん」


 二人とも真に受けなかった。キャリルに気を遣ってくれたのだということは、中学生の身でも容易に理解できたからだ。


 ところが驚くべきことに、和泉は翌月本当に退院してしまった。


 そのときキャリルと和泉が交わしたやりとりを、興一は生涯忘れることはないだろう。


「イズミって、実は人間じゃなかったりしない?」


「まさか君に言われるとは……」



     ◇ ◇ ◇



 結局、話したことを全部実行した。


 夏休みの最初の二週間で、興一とキャリルは図書館に通い詰めた。宿題が片づく頃にはキャリルの腕は完治していて、そこからは島のあちこちを回った。夜の里山でホタルやフクロウと戯れたり、鍾乳洞で天然の彫刻と出くわしたりするたびに、キャリルの瞳は一等星のように輝いた。泳いではバタ足で進める程度には上達したし、バットを握っては興一の変化球――は無理にしても、ストレートなら外野まで運べるくらいにはなっていた。


 クラスの連中にはやし立てられるかもしれない、なんて心配をしていたのが、もう何年も昔のことのような気がする。


 こんなに楽しい夏休みはなかったと、興一は心から思っている。


「……心残りはねえか?」


 夏休み最後の晩、星空を映した海辺で、興一はキャリルと肩を並べる。


「ないよ」


 キャリルから返ってきたのは屈託のない笑顔だ。


 彼女は今日、星に帰る。


 散り散りになったネリヤの生き残りをもう一度集めて、故郷を再建するのがキャリルの次の夢なのだという。


「ボク、幸せだよ。地球の思い出をいっぱい持って帰れるんだもん。コーイチがいてくれたおかげだ」


「そいつはよかった」


 興一もつられるように相好を崩す。


 考えてみれば、自分には女の子をエスコートした経験などろくにない。我ながらよくやったものだ。


「――イズミも。いろいろお世話になったね」


 見送りの場には和泉も来ていた。


 仕事をしただけだよ、とやんわり首を振る和泉だが、実際にはキャリルの言うとおり、彼は功労者だった。


 ECHOはこの一ヶ月、シグナの修理や燃料の提供を施してくれた。それもこれも最初に和泉が交渉してくれなければ起こりえなかったことである。


「――『魂なき者に、運命を定める資格はない』」


 和泉は空を見つめて、唐突にそう口にした。


「キリエスに助けられたとき、そんな声が聞こえた。君はそのことをよくわかってる。きっといい星になるさ」


「ありがとう。……イズミも、いつか故郷に向き合うときが来たら、自分の心に正直になってね。そしたら後悔しないと思うから」


「貴重なアドバイスとして受け取っておくよ」


「キリエスによろしく。今度会ったら、ボクがお礼を言ってたって伝えておいて」


 和泉がしっかりと頷いたのを見届けて、キャリルは首から提げたペンダントへと手をかけた。ペンダントには瑪瑙めのうのような宝石が填まっていて、宝石の中には電子回路が仕込まれている。


 回路の上を光の点がなぞる。


 亜空間ゲートが開いて、シグナの巨影が現れる。


「――コーイチっ」


 そこでキャリルは、興一の体に腕を回してきた。


 興一はキャリルの体温を感じ、潮の香りの中にキャリルの匂いが混じるのを感じた。吐息とともに紡がれた声を、すぐ耳元で聴く。


 ずっとトモダチだからね。


 囁きを興一の耳朶の奥に残して、キャリルは身を離した。そのまま走り去って行く背中が、シグナのハッチの中に消える。


 シグナが変形する。


 白い騎士のようだった機体が、翼ある船となって浮き上がる。


「キャリルーっ!」


 もはやどんな言葉も聞こえまいとわかっていながら、それでも興一は声を限りに彼女の名を呼んだ。


「元気でな――――っ!!」


 シグナのアフターバーナーに光が灯り、船影がぐんぐんと駆け上がってゆく。


 遠ざかるその光が、興一には、新しい星のように見える。

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