Chapter 35. シグナ海原に立つ!
「皆さんが静かになるまで二六秒かかりました」から始まった校長の十八分に及ぶスピーチをほうほうの体でやり過ごし、蒲生から持ちかけられた「昨日はうやむやになっちまったから今日こそちゃんと練習しようぜ」にやんわりと断りを入れて、興一は海辺へと続く道を辿る。
ぼんやりと進路について考える。
自分のことだ。鞄のなかに突っ込んであるプリントはどうせこのまま忘れ去られて、夏休み最終日の夜になってようやく発掘されるのだろう。
将来の夢なんて、なくたって生きていける。
興一は以前、蒲生に「おまえの球を俺が受けられるのは高校までだ」と言われたことがある。だから高校までは自分も野球を続けるだろうと思っているし、せっかく続けるなら甲子園にだって行ってみたいとも思う。
しかし、そこから先がイメージできない。
プロ入りを真剣に目指すほどの情熱があるかと問われれば、いまひとつ確信が持てない。かといって、他にやりたいことも特別思いつかなかった。
人生なんて良くも悪くもなるようにしかならないのだから、そのときのなりゆきに任せればいい――そんな結論しか導けない自分がもどかしい。が、実際それ以上の何をすべきだというのだろう? 置かれた環境と与えられた選択肢を受け入れること以外、できることなんてないんじゃないか?
「……やめやめ。らしくもねえ」
気づけば、浜へと繋がる坂道の前に着いていた。
――なにやってんだオレ。
家にも帰らず、蒲生の誘いも断って、キャリルの秘密を探ろうとしている。深入りしないほうがいいと警戒したばかりであるにもかかわらず。
――本当のことが知りたい。気になる。
――でも、なんでだ?
ぐるぐると同じところを巡る思考を置き去りにして、足が自然と動いていた。坂を下り、白い砂浜に靴跡をつけて、興一は目的の岩場へと近づいてゆく。
そして興一の目は、昨日とまったく同じように、岩の隙間に腕を差し込んでいるキャリルを見つける。
「よくあんなとこまで登ったな……」
キャリルが張りついている岩壁はほとんど垂直じみた傾斜で、その下には青々とした海が広がっている。行くには砂浜側から回り込むしかなかったはずだが、あの心もとない足場でそれをやるには相当な身軽さと、何よりも勇気が必要だ。
あそこにあいつの秘密があるのだろうか。
声をかけるべく息を吸って、
「――っ、」
詰まらせた。
引き返すなら今しかない。
このまま何も見なかったことにして立ち去り、キャリルを「謎の転校生」のままに留めておけば、自分はこれからも元の日常に安住していられる……。
――いや、ダメだ!
興一は、意志を奮い起こして
ケツをまくることは簡単だ。しかし、それでは何のためにここまで来たのか。
器用な性格でないのは自覚している。相手への疑いを抱えたまま、それを隠して普通にふるまう――そんな芸当が自分にできるとは思えない。
「なるようになれ、だ」
とにかく正面からぶつかってやるのだ。
もう一度大きく息を吸って、今度こそ声にした。
「おーい! キャリルーっ!」
昨日の黒い穴は、今日は現れなかった。
「ひゃわあああ!?」
結論から言えば、呼びかけたのはまずかった。
こちらの気配に気づいていなかったのだろう、キャリルは
「――コーイチ?」
たどたどしい発音の呼び声を興一の耳に残して、キャリルは大きな水音をたてて海に没した。
興一はしばし、呆けたように立ち尽くす。
予想だにしない展開についていけず真っ白に染まった頭が、ゆっくりと奇妙な落ち着きに浸ってゆく。
派手に水しぶきを跳ね上げながら頭や腕を突きだすキャリルの様子を見ていると、やっぱり宇宙人説が当たりなんじゃないか、という疑念が色濃さを増す。
沖へ沖へと遠ざかってゆくキャリルの後ろ頭。あれは要するに、オレから逃げているのではないのか。岸に戻ればオレに秘密を打ち明けざるを得なくなるから。そうなってから口封じをしようにも、土地の限られた島内で誰かがいなくなれば大騒ぎになるから。そういう面倒な事態をやつらは何よりも恐れているのだ。それにしても豪快なバタフライだ――
違った。
波間からキャリルの頭の覗く頻度がだんだんと減り、ついには全く浮かび上がらなくなるに至って、興一はようやく状況のヤバさを理解した。
「冗談だろ!? あいつ泳げねえのかよ!」
信じられない。日焼けを
興一は慌てて周囲に目を走らせ、すぐに無駄だと悟って舌を打つ。人が通りかかるような場所ではないのだ。かといって町まで戻っている猶予もない。大人に助けを求めることはできない。
「ちっくしょう、やるっきゃねえのか!」
興一はシャツを脱ぎ捨てると、やにわに海の中へと飛び込んだ。
無我夢中で泳ぐ。キャリルが沈んだ位置にアタリをつけて潜ってみると、水の透明さにも助けられて、彼女の姿はすぐに見つかった。口から気泡を漏らしながら必死にもがく様子から、まだ意識があるとわかる。
とにかく水面まで引っ張り上げようと思った。
できなかった。
こちらが捕まえるより先に、キャリルに手首を掴まれた。遠慮の「え」の字もない握力。痛みを感じるのと同時、逆にぐいと引き寄せられ、四肢の全てで締めつけられた。
――んなっ……このバカ!
急に腕が使えなくなって、興一はひとたまりもなく焦りに駆られた。いったんキャリルを振り払おうとするのだが、褐色の手足にこもった力は凄まじく、どんなに身を捩っても少しばかりも緩んでくれない。
そうだ、こいつの腕力はデタラメなんだった――昨日の特大のファールを思い出してしまった瞬間、冷たい死が海水とともに染み渡ってくるような気がした。
――くそ、冗談じゃねえぞ!
こんなワケのわからない女と心中なんて絶対に御免だ。
意地を奮い起こす。不格好でもいい、足のつくところまで泳いでしまえば助かるのだと己に懸命に言い聞かせながら、興一は両脚を動かし続ける。
まだか、まだなのか――。
首ごと突き出すように浮上しては、人ひとりぶんの重さに引きずられて沈む。気の遠くなるような繰り返し。行けども行けども足の裏には水の感触しか訪れず、まごつくうちに息継ぎがままならなくなってゆく。顔が水面の上に出るタイミングを狙って岸との距離を確かめるが、少しも縮んでいるように見えない。
いや、それどころか、むしろ遠ざかっているような……。
恐ろしい可能性に気づいたとき、このビーチが遊泳禁止となっていた理由が記憶の底から転がり出てきた。
数年前、観光客の親子が波にさらわれて溺れ死ぬという事故があったのだ。海底の起伏の影響により、離岸流が発生しやすくなっている――本島から調査に来た専門家がそんな説明を添えていたような気がする。
今の自分たちの状況は、まさにあの親子と一緒ではないか。
興一は方向転換しようとした。
しかし、キャリルに抱きつかれたまま泳ぎきるだけの体力は、もう興一の体に残されてなどいなかった。
次の浮上で、興一はとうとう息継ぎに失敗した。ろくに空気を吸えないまま頭が水面下に戻り、そのまま深く深く沈んでゆく。
もうダメか――
霞みゆく視界のなか、キャリルが胸元に手を這わせるのが見えた。
――なんだ……?
キャリルのブラウスの内側に、強い輝きを放つ何かがある。光は一定の間隔で発光を繰り返した。モールス信号みたいだ、と興一の鈍った脳ミソが考える。
このパターンは、たしか――SOSだ。
途端、まわりの水が流れ動いた。
遥か下方から岩塊のような物体がせり上がってくるのがわかった。大きい。床が迫ってくるかのような威圧感に呑まれて、興一はとっさに目をつぶる。
瞼の裏に焼きついた物体の影は、手の形をしていた。
――ぶつかる!
興一がそう思った瞬間、意外にも優しい衝撃が二人を包んだ。硬質な触り心地。遠目からの印象に反して岩のようにゴツゴツしてはおらず、むしろ磨いたガラスにも似て滑らかだ。
ジェットコースターに乗ったときのような血の偏る感覚を得た直後、全身を圧迫していた水が消失した。
海中から脱したのだ。頭でなく身体でそのことを理解した。
内臓が逆流するかという勢いで
人の背丈より長い「指」の狭間から、滝のように水が流れ落ちてゆく。
巨大な「掌」に取り残された興一は、ゆっくりと、息が整うのを待ちながらゆっくりと視線を横にやる。
「て、」
咳き込みすぎて視界が滲んだ。ふつふつと湧きあがる怒りに任せて、興一は喉も裂けよとばかりに叫ぶ。
「てめーふざけんなーっ! とんでもない掴まり方しやがって、海のど真ん中で動けなくなったら溺れるってくらいわかれよ!」
やはり涙目のキャリルが両の
「しょうがないだろ怖かったんだから! だいたい、コーイチがいきなり後ろから呼んできたのがそもそもの原因じゃないか!」
「知り合いがあんな不審者みたいなことしてたら声かけるわフツー! 名前呼ばれただけでビクつくのは、おまえが隠し事なんかしてるからだろ!?」
「だって地球の人たち
「……って、おい」
語るに落ちるとはこのことだ。脱力感が興一を包んだ。
もっとも、たとえキャリルが細心の注意を保っていても、今となっては「外国から来た転校生です」という建前など通用しなかったことだろう。
なぜなら。
「つまり――おまえの隠し事ってのは、このロボットのことだったわけだな?」
興一はキャリルへの矛を収めると、海中から自分たちを掬い上げてくれた雄大な影を振り仰ぐ。
蒼海に片膝をついて静止する鋼の威容。
燦々と照りつける南国の日差しが、きらきらと白い装甲に跳ね返る。左の肩には獣を模したと思しき金の装飾。プレートに覆われていない関節部では、太いフレームが露出して無骨な光沢を放っている。
まるで西洋の騎士だ、と思った。
もちろん、洋の東西の問題でないことは明白だった。
「……うん」
キャリルが観念したかのように頷く。
「シグナっていうんだ。この子がボクの翼であり、ボクの家であり、ボクの剣。銀河間航行ができて人型への変形もできて半自律行動する船なんて、宇宙じゅう探したって滅多に見つからないと思うよ。すごいでしょ」
「そりゃまあ、すごいけどよ……」
脳内をいくつものクエスチョンマークが行き来する。すっかり毒気を抜かれた興一の頭は、ぐるぐると巡る疑問の群れをただの一言に集約する。
「結局のところ、おまえ地球に何しに来たの?」
はるばる銀河を越えて来るほどだ、まさか物見遊山ではあるまい。当然、相応の事情があるはずだった。
「んー。警告……っていうか、お願い?」
「はあ?」
眉をひそめる興一をよそに、キャリルはずぶ濡れのスカートの裾をひょいとつまんだ。とてもおかしそうに笑って、
「詳しいことは中で話そっか。お互いこんなんじゃ風邪ひいちゃうよ」
「中って――おわっ」
唐突な揺れにバランスを崩しかけた興一は、とっさにロボットの薬指にしがみついた。マニピュレーターが二人を乗せたまま動いて、腰の近くへと導いたのだ。
頭部の二つのカメラアイから照射されたスキャニングビームがキャリルの姿を認めると、腰部の装甲板がスライドして前に倒れ、内部通路への口が開いた。乗れということらしい。タラップがこちらへ向かって伸びてくる。
「言ったでしょ、シグナはボクの家でもあるって。ここのハッチから中に入れるようになってるんだ」
軽快にタラップへと跳び移ったキャリルは、くるりと身を翻して屈託のない表情を見せた。吹っ切れたような、南風を思わせる爽やかな口調で、彼女は胸を反らしてこう告げた。
「ようこそ、ボクの秘密基地へ!」
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