第五話 楽園へのパスポート〔前編〕

機動衛兵 シグナ・漂流宇宙人 ネリヤ星人 登場

Chapter 33. 南の島にて

 カキン――甲高い響きがグラウンドを裂いたとき、葦原あしはら興一こういちの背筋を電流が走り抜けた。


 信じがたい思いで振り返った視界の中を、打球が猛烈な勢いで飛び流れる。そのままレフト線を切れたボールはフェンスにぶつかってガシャンと大きな音を立て、地面に落ちて二度、三度と跳ねて止まった。


「あっれえ? ちょっと振るのが遅かったかな」


 底抜けに活発そうな声が聞こえてきて、興一はバッターボックスに目を戻した。土に引かれた白線の内側で、つい先週やって来たばかりの転校生が小首を傾げながら金属バットを振っている。


 キャリル・メロ。小麦色の肌をもつ異邦の少女。


 もとより観光に力を入れてきた島で、外の人間の姿など別段珍しくもない。ちょうど今から五年前、ECHOエコーの天体観測所が置かれてからは特にそうだ。


 しかし、このキャリルという女は、これまでに興一が会ったどの余所者とも違う雰囲気を漂わせていた。


「ねえコーイチ、早く投げてよ! 次はちゃんと打つからさ!」


 ぬかしやがる。


 とはいえ、相手がこうもあけすけでは腹も立たない。期待に顔を輝かせ、大仰な手振りを交えて早く早くと急かしてくるキャリルの様子は、ほとんどわんぱく盛りの男児のそれだ。


 捕手を務めていた蒲生がもうがボールのところまで駆け寄った。投げ戻された白球をキャッチするや、興一はキャリルめがけて人差し指を突きつける。


「まぐれ当たりで調子に乗らないほうがいいぜ。オレの決め球は、島の大人チームにだってヒット打たれたことねーんだ」


 キャリルも負けてはいない。笑みが不敵な色を帯び、


「じゃあボクが初めてってことだ。――約束、覚えてるよね?」


「おまえが忘れてなくって安心したよ」


 ここまで投げた球数は四つ。キャリルがバットを振った回数が三回。ファール込みのツーストライク。……正直、追い込んだという気がまるでしない。


 さっきのは、まぐれ当たりなんかじゃなかった。


 口ではああ言ったものの、自分のストレートが捉えられつつあることを、興一は渋々ながらも認めざるを得なかった。


 あっちのスイングはだんだんとタイミングが合ってきている。それだけでも只事ではなかったが、興一にとって何より意外なのは球威でせていないことだった。Tシャツの半袖から覗くキャリルの腕はいかにも女子といった感じの細さで、打撃のフォームだってめちゃくちゃなのに、あの打球の鋭さはいったいどういうわけなのか。


 一打席ぶんの勝負だ。三振に仕留めるにせよ打ち返されるにせよ、次の一球で決まるだろう。


 キャッチャーボックスに戻った蒲生が、予想どおりのサインを寄越してきた。興一は首を横に振る。マスクの奥で「マジか」という目をした蒲生が再び同じサインを送ってくるも、やはり興一は拒絶する。


 三度目はなかった。蒲生はやれやれと肩をすくめてみせたが、結局は何も言わずに捕球姿勢をとった。


「いくぜ。吠え面かくなよ!」


 興一は両腕を振りかぶると、これでもかと言わんばかりに上半身を大きく捻る。全身のバネというバネが収縮し、歯車という歯車がかみ合う充実した感覚。一瞬の溜めの後、腰ごと思いっきり体をぶん回した。


 投げた。


 指からボールが離れる瞬間、今日一番の投球だという確信が胸を去来した。


 蒲生の構えたミットめがけて、まるでカタパルトから撃ち出されたかのように白い軌跡が疾走する。


「もらったああ――――っ!」


 空の彼方まで届きそうな大声とともに、バットが力いっぱい振り抜かれる。




 浜辺へと続く坂道を、自転車を押して下る。


 蒲生は用事を思い出したと言って一足先に帰ってしまった。挨拶もそこそこにすっ飛んでいった慌てぶりから察するに、用事とやらは家業の民宿がらみのことだろう。食材の買い出しでも頼まれていたのかもしれない。商店街が閉まるのは早いから、間に合うかどうかはかなり微妙なタイミングだ。明日登校してきたあいつの頭にたんこぶがなければいいのだが。


 もっとも、オレだって他人の心配をしてる場合じゃないけどな――興一はちらりと横目を使いながら、そう心のうちでひとりごちた。


 せまい島である。誰とも会わずに道を歩ける確率は皆無に近く、噂が広まるスピードは光より速い。


 三人から一人が減れば二人きりになるのと同じくらい、自分とキャリルが明日学校ではやし立てられるのは確実なことと思われた。


「……なあ、いつまでへそ曲げてんだ」


 そのキャリルはさっきからずっと、園児だってここまではすまいというほどの見事な不機嫌顔を披露している。


「だってひどいじゃないか。どうしてあそこで真っ直ぐなのさ? 大人にも打たれたことない必殺技があるんじゃなかったの?」


「必殺技じゃねーし、投げるとも言ってねーよ」


 興一は約束の戦利品――瓶入りのラムネをあおる。口のなかで炭酸の泡がはじけ、喉が冷たく潤った。夏はこれに限る。


 騙したわけではない、などとうそぶくつもりはない。が、キャリルのフルスイングがボールに掠りもしなかったのは、駆け引きでこちらが彼女を上回ったからだというのが興一の見解だった。


 挑まれたなら勝ちにいく。あたりまえだ。もし自分がそんなことさえできない奴であったなら、最初から野球になんか手を出していなかったことだろう。


「コーイチのイジワル!」


 まだ納得がいかないらしいキャリルは、ぐいぐいと肩を押しつけながら睨みつけてくる。凄みをきかせるように細められた双眸が珍妙な迫力を放っていたが、そんなことよりもむしろ、無防備な仕草そのものが興一の心臓をぎくりとさせた。


「――あのな、これでもオレは気を遣ったんだぞ。おまえが野球初めてだって言うから全球ストレートでいったんだし、だいいち野手だっていなかっただろ? ストライクゾーンに来た球を前に飛ばしてオレの頭さえ越せばおまえの勝ちだったんだ。じゅうぶんハンデはやったつもりだぜ」


 興一はそのまま、尋ねられてもいない野球のルールを並べ立てはじめた。九人と九人で行う競技であること。順番に塁を踏んでいき、ホームに還ると点が入ること。スリーアウトで攻撃と守備が入れ替わり、それを九回まで繰り返すこと。ひととおりの試合の形式を説明し、翻って先刻の一打席勝負がどれだけバッターに分の良い代物であったかを語った。


 ――なにを言い訳してるんだオレは?


 戸惑いしかなかった。我ながらアホみたいだ。


 そして、キャリルは興一の予想を超えて頑なだった。


「ボクそんなこと頼んでないもん」


 うわこいつめんどくせえ、


「や、だからな、まじで変化球使ったらそれこそおまえ打てねーだろ? そっちのがアンフェアっつーか、おとな気ないだろ」


「いいじゃないか、おとな気なんかなくたって。ボクたち子供なんだから。すごい球があるって期待させておきながら見せてくれないなんて、ケチんぼ」


「そんなに見たきゃテレビでプロの試合見ろよ。オレのよりずっとよく曲がるぞ」


「テレビ眺めてるだけじゃドキドキしないよ!」


「じゃあゲームだ。VRなら家の中でも好きなだけ野球ができるぞ」


「いーやーだーっ! 本物がいいのーっ!」


 子供は子供でも駄々をこねる歳ではないと思うのだ。


 しかし、事ここに至ってではあるが、キャリルの不満の理由が興一にもようやくわかってきた。


 たぶんこいつは、負けたことを悔しがっているわけではない。


「――ああもう。しょうがねえ奴だな」


 興一は後ろ髪をむしって、


「わかったよ。そんなに自分の目で見たいんなら、夏休みにもうひと勝負といこうじゃねえか。今度はちゃんと投げてやるから」


「ほんとっ!?」


 一瞬でしかめっ面が吹き飛んだ。キャリルは表情をぱっと明るくし、少しのためらいもなく興一の目と鼻の先に顔を寄せた。


 ――おい近えよバカ!


 互いの吐息がかかりそうな至近距離。


 興一はどうにか視線を剥がそうと抵抗する。しかし、星をまぶしたようなキャリルの瞳の引力を振り切ることがなかなかできない。


「い、」


 油の切れたロボットのように口をひらく、


「言っとくけど、たいして面白いもんでもねえぞ」


「本物のボールがすごい速さで飛んできて、目の前で曲がるんでしょ? つまらないわけないじゃないか」


「おまえはそれを打ち返さなきゃいけないんだからな?」


「難しいほうがワクワクするじゃないか!」


 坂道は終わりに差しかかっていた。右を見やれば、どこまでも続いていそうな青い海原と、太陽を反射してきらきらと光る白い砂浜が広がっている。


「――じゃあコーイチ、ボクこっちだから」


 そう告げて、キャリルは興一のそばから身を離す。


「また明日。学校で会おうね!」


「おう、またな……」


 キャリルが手を振って走り去ってゆく。


 小さな背中が遠ざかるのを、興一は呆けたように見送った。姿が完全に見えなくなってしまってから、自分がいつの間にか手を振り返していたことに気づいた。


 ちゃぷちゃぷという水音が聴こえてきて、振っていた手にラムネの瓶を持ったままであったことに思考が及んだ。


 唐突に恥ずかしさが襲ってきた。


 興一は残りのラムネを喉に流し込むと、空いた瓶を片づけるべく、背負ったダッフルバッグを降ろそうとした。いちど自転車で支えてから地面に置こうとして、はたと動きを止める。


 自転車のカゴのなかに、見慣れないものが収まっている。


「ポーチ? ……あいつの忘れもんか?」


 自分のでないことは明らかだったし、蒲生もわざわざ小物入れを用意して歩くタイプではない。当然、持ち主はキャリルに決まっていた。


 世話の焼けるヤツだ。


 興一は自転車を路肩に停め、ポーチを持って砂浜へと足を向けた。




 潮のにおいを鼻腔いっぱいに吸って、絶えず打ち寄せる波音を聴く。燦々と照りつける太陽に炙られた砂は冗談ごとではすまない熱気を放っていて、その上を歩いていると、スニーカーの靴底ごしにも足の裏が焼かれるのではないかという想像さえ湧いてくる。


 海辺に下りたときから違和感を覚えてはいた。だがそもそも、キャリルが立ち去った時点でおかしいと思うべきだったのだ。


 ――じゃあコーイチ、ボクこっちだから。


「こっちなわけねえだろ……暑さでボケてんのかあいつ」


 見渡す限りの海である。


 来た方角を振り返れば、もちろん民家が数軒ながらも佇んではいる。しかし、そのなかに新しい家はなかったし、何よりキャリルは道を離れてわざわざ海岸線へと下りていったのだ。


 意味がわからない。


 そんなにオレの隣が嫌だったんだろうか、と考えると気分が滅入った。別れ際にはキャリルの機嫌はすっかり好転していたと思う。それともそんなのは彼女の演技で、自分は気づかぬうちによほどまずい言葉を口走っていたのだろうか……。


 幸い、後を追うことはさほど難しくなかった。


 砂浜に足跡がくっきり残っていたからだ。


 このあたりは遊泳禁止だから観光客が寄りつくわけでもないし、港からもやや距離があるため漁師たちが繰り広げる喧騒とも無縁だ。十中八九、足跡はキャリルがつけたものだろう。


「――いた」


 景色が砂から岩場に変わったところで、キャリルを見つけた。


 何やってんだあいつ、とまず思った。


 身長よりも遥かにでかい岩壁によじ登って、なにやら真剣な手つきで岩の隙間をまさぐっている。


 興一は、近づいて名前を呼ぼうとした。


「おい、キャリル――」


 その声が届くことはなかった。


 突然、岩場が真っ黒な穴にくり抜かれた。


 コンパスで描いたかのような綺麗な円形をした黒い穴は、岩というよりは空間そのものに開いているように興一の目には見えた。


 穴はキャリルをすっぽり呑み込むと、ブオン、という低音を鳴らして魔法のごとくかき消える。


 まるで最初から何事も起こらなかったかのように、岩場は元の様子を取り戻していた。塩っぽい磯の香りも、砂をさらってゆく波の音色も、すべてが変わることなく残されていた。


 そこには、ただ、キャリルの姿だけがない。

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