Chapter 30. 闊歩する影

 沈みゆく太陽がビルの群れの合間を赤々と染めていた。


 和泉はECHOPADエコーパッドの時刻表示に目をやる。十八時四十五分。思っていたよりも遅い時間になっていたことに少し驚き、和泉は調査を切り上げることにした。


 六月が終わろうとしている。


 最近ではすっかり日が長くなった。もうすぐ夏も本番を迎えるのだ。一年のうちで世間が最も活気づく時期と言えるのだろうが、その訪れを歓迎する気にはなれそうにない。夏という季節にも夕暮れの空にもろくな思い出がなかった。


「和泉よりコマンドルーム。今から拠点に戻ります」


『はいはーい』


 ECHOPADから能天気な声。サクラ・ノードリーだ。


『町の様子はどんな感じ?』


「平和そのものです。少なくとも日が出ているうちは」


『つまり、情報どおりなわけね。勝負は夜か』


 深夜に区内を徘徊している集団がいる、とのタレコミが基地の窓口に入ったのは一昨日のことで、電話の主は文京区内に住む老婦人だったという。役所も警察も対応してくれる気配すらなく、このままでは不安で眠れないから何とかECHOエコーで調べてくれないか、というわけだ。


 べつに珍しい話ではない。こうした的外れな通報はこれまでにも週にいっぺんくらいはあって、そのたびに受話器を取った隊員がにこやかな応対で受け流し続けてきたという大してありがたくもない歴史が広報部には存在するのだ。


 しかし、今回ばかりは事情が違った。ほんの十日前に宇宙船が落ちたばかりの地区とあっては、百戦錬磨の広報部といえど無視することはできなかったらしい。


 かくして情報はSSS-Uトライエス・ユニットのもとへ届けられ、作戦会議が開かれた。


 藤代隊長としては、初手から単独行動のリスクを冒すことを避けたかったようではある。その一方で、もしも先日のエイリアンが生き残っていて町に潜伏しているのだとしたら、敵の恐ろしさを身をもって学んだ和泉以外に適任者がいないことも動かしがたい事実であった。あれほどの擬態能力をもつ敵に複数であたるほうが無謀――そう論じたのは他でもない和泉自身だ。我ながら筋の通った主張だったと和泉は思っている。ただ一人、唯だけは不満げな面を浮かべていたが。


 そういえばあの人「次からは必ず自分も連れていけ」って言ってたっけ。


 後が怖い気もするが、藤代隊長がうまくフォローしてくれていることを祈ってひとまず脇に置いておく。今は捜査が先だ。


「そっちでは何かわかりましたか?」


 サクラが「よくぞ訊いてくれました」という顔をする。


『文京区内におかしな電波が飛び交ってる。どこの通信キャリアの周波数帯からも外れてて、ほかの電子機器に干渉するほどの出力じゃなくて、交信してる時間帯は毎日決まって午前一時から三時のあいだ』


「……発信源は?」


『場所は常に移動していて、でも文京区の外には絶対に出ない。数は……たくさんとしか言いようがないかな。最初に観測されたのが五日前で、この時点ではそんなに多いって感じじゃなかったみたい。そこから日が経つごとに、倍々ゲームでトラフィックが増え続けてる』


 和泉は、肌の上を虫が這ったかのような疼きを感じた。


 町で集めた証言によれば、徘徊者が現れたのも五日前の夜からだという。


『で、ここからが重要なんだけど――イズミンが撃墜した円盤、ラジオ局の建設現場に落ちたじゃない?』


 やはりその話になるか。和泉は表情を曇らせて、


「あそこなら今朝見ました」


『どうだった?』


「もう営業をはじめてましたよ。二階建てのプレハブオフィスを仮スタジオにして。関係者から事情を聞けないかと思って敷地の入口で待ってみたんですが……」


『空振りに終わったと』


「まあ、そんなところです」


 犬に絡まれて張り込みどころではなくなってしまった、と白状する必要もあるまい。


『じゃあ、この情報はイズミン知らないか』


「何です?」


『その仮スタジオができたのが、ちょうど五日前らしいの』


 呼吸が止まった。


『オープン即日に放送を聴くための専用アプリをリリースしてる。このアプリを入れるまでがまたえらく手間でねぇ……普通のストアからはインストールできないようになってて、公式ウェブサイトから会員登録して、個別の会員ページにログインして初めてダウンロードできる仕組みになってるんだ』


「それは……不自然なのでは? むしろ積極的に宣伝して人を呼び込まなきゃいけない時期でしょうに、そんな客を絞るような真似をするって……」


『でしょ? これは変だぞと思って、プログラムを解析してみたら――』


 和泉は「どうやってダウンロードしたんですか」と言いかけ、会話の相手がサクラ・ノードリーであることの意味に気づいて口をつぐむ。


 サクラは一介のオペレーターではなく、SSS-Uの電子情報戦担当者なのだ。


 まさか正規の手順を踏んでアプリを入手したはずはなかったし、先の怪電波の話にしたって素直に電話会社に問い合わせたのではあるまい。いくらECHOPADの通信が強力に迷彩されているとはいっても外部からの盗聴を百パーセント防ぎきれる保証はなく、うかつな質問は蛇のいる藪を棒でつつき回す行為に等しい。


『ラジオを受信する機能とは全然関係なく、バックグラウンドで電波を送受信できる設定になってた。波長からして夜中の怪電波の正体はこれ。――どう思う?』


 どうもこうもあるかと思う。


 住民を不安がらせている連中が何者で、どういう目的でほっつき歩いているのかは知らない。だが状況がこうもぴったりと符合する以上、今度の件にあのラジオ局が一枚噛んでいるのは間違いない。


「夜にもう一度行ってみます。場合によっては突入します」


 頷いたサクラが後方を振り返り、何事かを告げた。藤代隊長に確認をとっているのだろう。二言、三言のやりとりを終えて再びこちらへ向き直ると、サクラはOKのサインを作ってよこした。


『隊長から許可出たよ。もし電波障害が起こって十分経っても解消しなかったら、陸戦隊の三個小隊を動かして文京区一帯を封鎖、制圧するって』


 とんでもないことを口にしながら、サクラの語気は普段と少しも変わらない。


 和泉は確信した。本気で三個を投じる用意が隊長にはあるのだ。


「それには及びません。俺だけで片づけられるよう努力しますよ」


 柚木芽衣子の姿が脳裏をよぎる。初めて会ったとき恐怖に縮こまっていた彼女は、円盤墜落の衝撃から立ち直りつつある町とともに、日々の営みを取り返そうとしているふうに見えた。


 だが、あの子はきっと知らないだろう。


 ECHOが陸戦隊を動員すれば、円盤騒ぎのときとは比較にならない混乱が巻き起こるであろうことを。


 飼い犬――茶々丸といったか――を連れたままシェルターに入れば、殺気立った他の避難者たちから凶器のような視線を一斉に浴びせられるであろうことを。


 そうした場面を想像するだけで、和泉の心は抉られるように痛んだ。藤代隊長の決意はたぶん妥当なのだろう。そう理解はしていても、できるならそのカードを切ってほしくはない、というのが和泉の偽らざる気持ちだ。


 しかし、サクラの反応は芳しいものではなかった。


『――イズミンさ、ちょっと肩の力抜いたほうがいいな』


「え……」


『そんな怖い顔してたら、ツキが逃げる』


 その一言を最後に通信が切れた。和泉はECHOPADを覗き込んだまま立ち尽くす。真っ黒になったディスプレイに目を凝らすと、自分の顔が反射して見える。


 サクラの言ったとおり、画面には、これが自分かと驚くほどの険しい顔が映り込んでいる。



     ◇ ◇ ◇



 芽衣子は階下の物音で目を覚ました。


 寝ぼけ眼をこすって枕のそばをまさぐり、スマートフォンを手元に引き寄せる。バックライトの光が闇に慣れた目にまぶしい。時刻を見る。午前二時。


 嫌な時間に起きてしまった。


 桃華から聞いた話がゾンビのように蘇る。一瞬窓のほうへ視線が向いたが、外を覗く気にはなれなかった。今夜も誰かが町をうろついているのだろう。桃華が徘徊者たちに出くわしたというのが、まさにちょうど今くらいの時間ではなかったか。


 じわり、と胸の奥に不安が湧く。


 もしかして、不審者が家に侵入してきたのでは――


「……まさかね」


 かぶりを振って悪い想像を追い払った。


 父が帰宅したのだろう。


 出かける前、父が「会社の飲み会があるから遅くなる」と言っていたことを思い出す。たいして飲めるわけでもない父が二次会まで参加してくるのはよくあることで、前回など迎えに行った母に連れられてようやく戻ったかと思いきや、廊下を三歩進んだところで頭からぶっ倒れてものすごい音をたてていた。


 母は今日、また同じことになるのが心配だからと寝ずに待っていたはずだ。


 自分もおかえりくらい言っておこうか。


 せっかく起きたんだし。


 芽衣子はベッドを抜け出すと、床で丸くなっている茶々丸を踏まないように気をつけながら部屋を後にした。


 階段を下る。柚木家の階段は半らせん状になっているため、二階から下の様子はまったく見えない。七段ほど下りて曲がりの部分に差しかかって初めて、一階の照明がついているか消えているか程度はわかる、といった具合である。


 照明は、どうやらついているようだった。


 なぜ「どうやら」なのかといえば、光量が乏しいせいで自信をもって断言できなかったからだ。廊下の電気は消えているが、その先にあるリビングの明かりがドアの磨りガラスを透過して漏れ届いている。玄関に接する廊下の照明が落ちているということは、やはり父が帰ってきたのだろう。


 そのまま一階まで下り、リビングのドアを開けた。


「お父さん、おかえりなさ――」


 声は、最後まで言い終えるのを待たずに萎んだ。


 想像が外れていたわけではない。


 リビングの真ん中で、ワイシャツ姿の父がこちらに背を向けていた。


 替えて間もないはずのLED灯が喘息でも起こしたかのように点滅している。不規則に瞬く光のなかで、芽衣子は父の右手がスマートフォンを握りしめていることに気づく。父は微動だにせず、その両耳はイヤホンで塞がっていて、室内を満たした静寂が砂嵐のざあざあという音を伝えてくる。


 そして、父の目と鼻の先で、何かがうずくまっていた。


 芽衣子の知識にはない、まさに「何か」としか形容できないものだった。たしかに人のかたちはしている。頭があり胴があり左右二本ずつの腕と足がある。


 だが、共通しているところはそれくらいだ。


 後ろ頭はまったくの無毛で、異様な形状に盛り上がっている。


 病的に白い肌と裏腹に体つきはがっしりしていて、あちこちに真緑の模様がくっついている。


 あんなものが、絶対に、人間であるはずがない。


 ――なんなの?


 ――なんであんな生き物が家の中にいるの?


 空飛ぶ円盤。瓦礫の山になった建設現場。銃声とパニックと足首の痛み。公園で和泉さんに手当てをしてもらったこと。深夜徘徊の動画と注意を促す回覧板。何か変わったことはないかと和泉さんに訊かれた。桃華が見たという徘徊者の群れ。さっきの物音。ざあざあという砂嵐。父はどうして黙って見ているのか。母はどこに行ったのか。芽衣子の心は千々に乱れ、理解の糸口を探してさまよった目が得体の知れぬ「何か」の足元へと向いた。


 母がいた。


 しゃがみ込んだ「何か」の奥、キッチンへ続く通路に母は横たわっていた。ほとんどカウンターの陰に隠れてしまっているが、スリッパを履いた足だけは芽衣子の位置からでもどうにか見える。


 あれは、母がいつも使っていたスリッパだ。


 人ならざる「何か」の手が伸び、尖った指先が母の足先に突き刺さった。この期に及んでも父は動かず、芽衣子もまた金縛りにあったかのように動けない。そして次の瞬間、芽衣子は己の目と正気を疑った。


 母の体が、異形の指に吸い込まれるようにして消えた。


 直後、「何か」の体がぐにゃりと歪み――


「……え……?」


 変身を遂げた。


 芽衣子のよく知る母と寸分たがわぬ姿だった。


 そこで初めて父が動いた。言葉もなく立ち尽くす芽衣子を置き去りに、父は母に歩み寄りながら、自身のスマートフォンからイヤホンを引き抜いた。ざあざあ。砂嵐の音が大きくなる。


 ゆっくりと母が立ち上がり、その目線を追うように父が振り返る。


「――あら芽衣子。まだ起きてたの? ダメじゃないの女の子が夜更かしなんて」


 ざあざあ。砂嵐が聞こえている。


「――参ったな。今夜の入れ替わりはこれで終了の予定だったんだが」


 ざあざあ。ざあざあ。


「計画は狂うけど、見られてしまったんじゃ仕方ないわねえ」


「芽衣子、こっちに来なさいこっちに」


 そう言って、父と母は穏やかに笑いかけるのだ。


 二人の様子がいつもと異なっていればまだよかった。


 しかし、どちらの表情にも口調にも少しも変わったところはなく、むしろそのことが芽衣子を恐怖させた。


 寝巻きのままであることなど気にもならなかった。


 芽衣子は、家を飛び出した。

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