Chapter 29. 家族の歩み
「つまり、オトコと会ってたせいで待ち合わせに遅れた、と?」
芽衣子が
「――あたしというものがありながら」
「……あなたというものはありません」
前言撤回。ぜんぜん怒っていない――というか、面白がっているらしい。
「からかわないでよ。こっちは本当に悪かったと思ってるのに」
「あはは! いやー、だってさあ、まさか芽衣子から男の人の話が出てくるなんて想像もしなかったからさ。あんた奥手なんだからチャンス逃しちゃダメだぞー?」
「チャンスって。むこうはそんなつもりで連絡先教えてくれたんじゃないよ」
芽衣子は手の中のスマホに目を落とす。
SNSのアプリを開き、フレンドの一覧を表示すれば、さほど長くもないリストの一番上にそのアカウントは現れる。家族と親戚と親しい知人の名前ばかりが並ぶなかで、馴染みのないユーザーネームがたった一つ異彩を放って見える。
和泉眞。
何かあったらメッセージを送ってほしい、しばらくの間は区内のウィークリーマンションに滞在しているから呼んでくれればすぐに行ける――たしか彼はそんな内容のことを言っていたと思う。
どう返したのか覚えていない。ただスマホの画面を見つめながら、そのとき初めて知った青年の名前を頭のなかで
「『むこうは』……ねぇ?」
どこか意味ありげな響きを含んだ桃華の声で我に返った。
視線を戻した先に、にんまりと口元をにやけさせた友人の顔があった。
「な、なに?」
「じゃあ、やっぱりあんたは満更でもないわけだ?」
「――っ! 桃華~っ!」
うひゃあ怖い、と桃華がわざとらしく首を竦め、一秒後には我慢しきれずけらけらと笑い声をたてはじめる。こうなっては殊勝な気分もどこへやらで、芽衣子はむうっと頬を膨らませた。赤面しているのが自分でもわかる。桃華といい今朝の母といい、どうして私の周りの人たちは私をイジるのが好きなのだろう。
歩調を早めて桃華の先に立つ。せめて形だけでもへそを曲げたふうに見せたかったが、画材を抱えながらの移動はなかなかの重労働で、思うほど速くはならないことが少しだけ悔しい。
「――あのさ、」
学校隣の緑地の、土を盛って造られた小さな丘に登った。頂上の
「変わったことがないか、って訊いてきたんだよね、ECHOの人」
「うん」
「最近変わったことっていったら、やっぱりあの事?」
桃華の言う「あの事」が何を指しているのかは考えずともわかった。
芽衣子はイーゼルを立てながら、
「うん……夜遅くに町をうろついてる人たちがいる、って和泉さんに話したよ」
それは、ここ数日のうちに伝染病のように広まった噂話だ。
否――噂話というのは正確さを欠く。すでに何人分もの目撃証言が区内のあらゆる交番に届けられていると聞くし、動画サイトにアップロードされていた映像は芽衣子も目にした。手ブレはひどいし明るさも編集されていない、いかにも素人が急いで撮ったような作りではあったけれど、真夜中の住宅地を複数の人間が徘徊していることだけは疑いようがなかった。
「こっちの町会ではきょう回覧板が出てたけど、桃華のところもそうなの?」
「そんな感じだねぇ。っていうか、あたし直接見たよ」
「うそ! いつ?」
「昨日。テレビで映画のシリーズ一挙放送やってたから観てたんだけど、気づいたら夜中の二時でさ。飲み物でも買おうかなって外に出たら、やたらと人と行き会うんだよね。なるほどこれかと思ったよ」
「なるほど……じゃないよ! トラブルとかなかったの!?」
予想だにしなかった言葉に度肝を抜かれ、芽衣子は食ってかかるような勢いで身を乗り出す。桃華はよく冗談めかして物を言う。しかし芽衣子の知る限り、まったくの作り話で人を欺いたことは過去になかった。桃華が見たと言うならば、やはり彼女は不審者の集まりを間近で見たのだ。
ふだんの芽衣子からは想像もつかない剣幕に驚いたのだろう、桃華は芽衣子が迫ったぶんだけ体を反らして固まっている。足元に視線を移してみれば、茶々丸までが呆気にとられてじっと芽衣子を見上げていた。
寄せ返す波のように、落ち着きが芽衣子のなかに戻ってきた。
「――気をつけなきゃダメだよ、最近物騒なんだから。そんな時間に出歩いてるなんて絶対まともな人たちじゃないよ」
「いや、あたしも出歩いてたんだからね?」
性格おとなしいわりに結構言うよねあんた――桃華はそう苦笑してから、
「まあ異様な雰囲気ではあったし、できるだけ誰とも目ぇ合わせないようにして一番近い自販機でジュース買ってさっさと帰ったわ。どいつもこいつもスマホ持って耳にイヤホン突っ込んでんの。画面は人によって見てたり見てなかったりだったから、たぶんラジオか何かの配信なんだとは思うけど……」
興味本位で動画など再生したせいかもしれない。桃華の語る状況が具体的なイメージとなって芽衣子の脳裏に
たとえば月のない夜更け、芽衣子は家路を辿っている。あたりの車通りはもう何時間も前に途絶えており、照明のついている家も見当たらない。ぽつぽつと並んだ街灯だけが一面の暗闇に光を投げかけていて、ときおりその光に向かって羽虫が体当たりする音が聞こえてくる。芽衣子はふと、前方の街灯がスポットライトのように人影を浮かび上がらせていることに気づく。年端もいかぬ子供が耳からイヤホンのコードを垂らし、こちらに背を向けて立っているのだ。芽衣子は足早に立ち去ろうとする。なぜか体が動かない。突然「ばつん」と音がして街灯の電気が落ち、子供が手に持つスマートフォンだけがぼうっと光を放って見える。子供がゆっくりと振り返る。バックライトに照らされた不自然なほど白い貌が、うつろな表情を張りつけたまま滑るように近づいて
「――でも、実際のところは分かんないよね」
桃華の声が不気味な空想を断ち切ってくれた。
「蓋を開けてみたら事実は全然大したことなくって、実はみんなゲームやってただけとか普通にありえるしね。ほら、町中歩いてモンスターとかアイテムとか探すスマホゲー流行ったじゃん? ああいうののプレーヤーなのかもしんないよ」
「どうかなぁ……」
「ずっと画面見て操作してなきゃダメってもんでもないらしいし。って、言ってたらなんだかホントにしょうもないオチのような気がしてきたな」
それはちょっと楽観的すぎるんじゃなかろうか、と芽衣子は首をかしげる。
が、これだけ噂になっていて目撃者だっているにもかかわらず、警察が動いている様子がないのはたしかに不自然ではないかという気もする。案外、桃華の言うことが当たっているのかもしれない。
「――そんなことより、手が止まってるけど?」
「あ」
すっかりお喋りに夢中になっていた。
芽衣子は慌てて鞄を開けると、画材を卓上に並べはじめる。話し込んでいるうちに日が暮れてしまっては勿体ないし、コンクールまでに絵を完成させることもできない。
「わんことはあたしが遊んでてあげるから、さっさと取り掛かっちゃいな」
「うん、そうする」
キャンバスから古新聞を剥がし、しっかりとイーゼルに固定する。
「前から訊きたかったんだけどさ」
「なに?」
「その絵、なんでそんな描き方にしたの?」
茶々丸を抱きあげた桃華がキャンバスへと視線を投げてきた。そこには彩色はおろか、まだ陰影すらつけられていない段階のデッサンが描き出されている。
緑の茂る並木道の絵だ。
遠くで手招きする男性と、彼のいる少し手前で小さくこちらへ振り返る女性。そして、二人の方に向かって走り出そうとする若い娘。我ながら月並みなモチーフを選んだものだと芽衣子は思っているが、桃華が目をつけたのはその構図である。
アングルが極端に低いのだ。
画の奥にいる父と母も、近くにいる娘の後ろ姿も見切れてはおらず、それぞれの姿がちゃんと判るように描かれてはいる。しかし、親子三人を描くだけであれば、ほとんど地面すれすれから見上げるような構図にする必要はないはずだ――というのが桃華の言い分なのだった。
「この絵は、親子三人だけの絵じゃないから」
桃華の腕の中を見つめながら、芽衣子はそう説明した。
「――ああ、そっか」
桃華は茶々丸を地面におろすと、今度は自分がしゃがみ込む。
「こういうことね?」
「うん」
「あんたらしくて面白いじゃん。あたしは好きだよ」
「ありがと」
家族の歩み。それが、芽衣子がこの絵につけた題名だ。
自分の存在を主張するかのように、茶々丸がワンと一つ吠えた。耳がぴったりと頭にくっついている。その表情がどこか得意げに見えて、芽衣子と桃華はどちらからともなく笑う。
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