Chapter 28. 女子高生・柚木芽衣子

 柚木芽衣子の一日は頬っぺたを舐める舌の感触から始まる。


 茶々丸ちゃちゃまるは柴犬で、オスで、芽依子の十歳の誕生日に柚木家へとやってきた。今年で七年のつき合いになる。生来の性格ゆえか、それとも両親との約束を守って自分で世話をしてきた芽衣子の献身の甲斐あってのことなのか、実によく芽衣子に懐いてくれている。毎朝芽衣子の部屋まで起こしにやってくるほどに。


「んー……おはよ。いつもありがとうね」


 腕を回して抱き寄せても、小麦色をした柔らかな毛並みに顔を擦りつけても、茶々丸は抵抗らしい抵抗をしない。くすぐったそうな身じろぎが演技であることは明らかで、尻尾がぶんぶんと激しく振れている。


 時計に目をやると、針が七時ちょうどを指していた。


「行こっか、茶々丸」


 階段を下りる間、茶々丸はぴったりと後ろをついてきた。心配してくれているのかもしれない。右の足首を挫いてから十日。応急処置をしてくれたECHO隊員の見立ては正しかったようで、二、三日前からはもうほとんど痛まなくなっている。とはいえ若干の違和感がまだあって、近所の整形外科医の診断によれば、完治までにはさらに十日ほどを要するらしい。


 洗面所の扉を開けると、ジャージ姿の父がヒゲを剃っている最中だった。


 父には起き抜けに町内をウォーキングしてくるという習慣がある。健康的で結構なことだと感心する一方、外に出るなら身だしなみを整えてからにしてほしいとも娘としては思うのだが、近所づきあいというものに無頓着なところのある父は「誰もそこまで気にしちゃおらんだろ」と放言して頑なに譲らない。


「おはよ、お父さん」


「おう、休みにしちゃ早いな。どっか行くのか」


 芽衣子は父の横に並び、自分の歯ブラシを手に取りつつ、


「学校」


「なんでまた。創立記念日なんだろ」


 芽衣子は頷く。片手で歯磨き粉のチューブを絞る、中身が残り少ない、


「コンクールに出す絵、私だけちょっと遅れてて」


 なんとか充分な量を絞り出すことに成功した。歯ブラシを咥えて、


「茶々丸のお散歩もしなきゃだし、帰りは夕方になるかな」


「――お散歩っておまえ、茶々丸を学校に連れてく気か?」


「校門の外で待っててもらうから大丈夫だよ。美術室まで画材取りに行くだけだし、その間は友達に見ててもらうから。私、絵は外で描くほうが好きなの」


「よく知らんけど、油絵って外でも描けるもんなのか」


「描けるよ。でも今日は下描きまでにしとく」


 父は「ふうん」と相槌を打つ。こういうときの父はこちらの話をわかったようでわかっていない。


「まあ、あんま無理すんなよ。足まだ治りきってないんだから」


 そう言い置いて、父はシェービング剤を洗い落とし、洗面所を出て行った。


 芽衣子は歯磨きと洗顔と髪のセットを済ませ、ふたたび自分の部屋に戻った。下着を替えて、いつもの学校指定のブラウスとスカートに手を伸ばそうとして思いとどまる。


 創立記念日だから休み、なのだ。


 つまり暦の上ではきょうは平日なのであって、制服で出歩いていては不良と間違えられてしまうかもしれない。


 少し迷って、結局は私服を引っ張り出した。リボンつきのジャケットと膝丈のフレアスカート。去年友人に薦められて買ったまではよかったが、なんとなく着る機会を逸したまま季節が変わってしまい、タンスの肥やしと化していた代物だ。せっかくだからこれで行ってみようか――。


 鏡の前に立ってみる。他人のチョイスであるせいか、やはり見慣れない装いの自分が映る。


 けれど、そんなに悪くはないと思う。


「茶々丸、どうかな?」


 もちろん答えが返るはずもない。わしわしと頭を撫でてやる。


 と、スマートフォンがSNSアプリの通知音を奏でた。


『とーか:起きた? 九時に校門前だからね! ――10秒前』


「……気が早いなぁ」


 約束の時刻まではまだ一時間と半分もある。今日は茶々丸と一緒だから電車には乗れないが、いくら徒歩でもさすがにそこまではかからないし、そもそも寝起きについて言うなら心配なのはむしろ桃華とうかのほうだ。


『芽衣子:今起きたとこ。そっちこそ遅れないでよ? ――現在』


 返信を打つと、間髪入れずに画像が送られてきた。満面の笑顔でサムズアップする人物がコミカルなタッチで描かれている。芽衣子は小さく噴き出してスマホを鞄に収めた。


 あらためて部屋を出る。


 リビングに入ると、母が朝食の準備をしているところだった。スーツに着替えた父がテーブルについて、新聞の一面を眺めている。その正面から片づいた食器を下げながら、エプロン姿の母はこちらに気づいて目を丸くした。


「おはよう。――どうしたのそんな気合入った格好で。デート?」


「もう、違うってば。友達と出かけるだけ」


 思わず苦笑が漏れた。母のこういったからかいは今に始まったことではないので、芽衣子もいちいち大げさに反応したりはしない。とはいえこの服装を「絶対あんたに似合うから!」と薦めてきたのが当の友達――香原かはら桃華であるのも事実で、捉えようによっては母の冗談もあながち見当違いとは言い切れない。


 茶々丸が山盛りのドッグフードと格闘しはじめるのを見届けて、芽衣子も自分の席に座る。


 朝だろうとお構いなしにハイペースで食う父と比べるまでもなく、芽衣子の胃袋は奥ゆかしい。今日も今日とて皿の上にはトーストとハムエッグと少量のサラダだけしか載らず、そんな様子を見た母は「誰に似たのかしらねえ」などとしきりに首を傾げている。


「もうちょっと食べられればもう少しは大きく……」


「よけいなお世話」


 牛乳を飲み干した芽衣子の手元で、空になった瓶がわざとらしい音をたてた。


 そのとき、さっきから黙々と新聞をめくっていた父が顔を上げて、


「――そうだ母さん、きょう帰り遅くなるの言ってたっけか」


「ええ?」


 母はふきんで手を拭きながら、


「初耳ですよ。どうしたんです、まだ忙しい時期じゃないんでしょう?」


「や、うちの常務が定年でな。送迎会があるんだ」


 みるみるうちに母が表情を曇らせ、その理由に心当たりのある芽衣子も自ずと語調を強める。


「また飲み会ですか。ほどほどにしてくださいよ、あなたお酒そんなに強くないんだから」


「お父さん、この前も酔って終電逃してお母さんに迎えに来てもらったでしょ。お母さんだって朝早いんだからダメだよああいうの」


 一気に肩身の狭くなった父は唇をへの字に曲げて、


「だって出席して飲まないわけにいかんだろ。――まあ、今日は気をつける」


 飲みかけだったコーヒーを啜ってカップを置き、


「じゃあ行ってくる」


 言うが早いか席を立ち、そそくさと逃げるように出勤していった。


 玄関のむこうに消える背中に「いってらっしゃい」と声をかけ、ふと芽衣子はテレビの時刻表示に目をやる。七時五十五分。


「私もそろそろ出ようかな。――茶々丸、行くよ」


 芽衣子がトーストの最後のひときれを口に放り込むのと同時、茶々丸も自分の食事を平らげたようだった。口の端についた食べかすを舐め取って、芽衣子の足元に駆け寄ってくる。


「――あ、芽衣子!」


 ブーツを履いたところで、背後から母の声が追いかけてきた。


「なに?」


「ついでにお隣に回覧板回してきてちょうだい!」


 下駄箱に立てかけてあった回覧板をつかんで外に出る。茶々丸の首輪にリードを取りつけ、歩調をそろえて足を踏み出す。


 この頃は暖かくなってきた。頭上を仰げばどこまでも青が広がっている。月初めに梅雨入りしたのが嘘だと思えるような、雲ひとつない晴れ空だ。今年の夏もきっと暑くなるのだろう。


 うーん、と芽衣子は青天に向かって伸びをする。


 左手には町内会の回覧板。紺色をしたバインダーに挟まった紙には、素っ気ない字体でこんな見出しがプリントされている。


『深夜徘徊への注意喚起について』




 街道に出ると、せわしく行き交う車の音が芽衣子を迎えた。


 慣れ親しんだいつもの町だ。


 十日経てばどんな騒ぎも過去になるのか、界隈はすっかり日々の営みを取り戻していた。瓦礫が山と積みあがっていることもなければ、壁のように密集した野次馬の群れが道を詰まらせていたりもしない。大規模電波障害もUFO墜落も最初からなかったかのように、コンクリートの臭いが立ちのぼってきそうな真新しい路面の上を、ビジネススーツや学生服に身を包んだ男女がそしらぬ顔で歩き過ぎてゆく。


 ウゥ、と足元から小さな唸り声。


 芽衣子は茶々丸に目を向けようとして、自分の顔がこわばっていることに初めて気づいた。


 頬に手を当てて無理やりにほぐす。


 失敗だった。騒動に巻き込まれた次の日からは別の道を選んでいたのに、つい馴染みの通学ルートを来てしまった。茶々丸と一緒だから気が緩んでいたのだろうか。もちろん茶々丸は何も悪くないし、あんな事件はそうそう何度も起こるものじゃないのだろうけど。


 気にしすぎだと分かっていても、一度意識してしまうと駄目だった。


 今にも空がかげって、彼方から宇宙船が突っ込んでくるのではないかと妄想した。


 するり、と手の内側を擦る感触。


 リードが抜けたと気づいたときには遅かった。茶々丸が勢いよく駆け出し、そのこと自体にも意表をつかれて後を追うのがさらに遅れた。


 茶々丸が芽衣子のそばを離れようとすることは滅多にない。犬に綱をつけるのは単純にそれがお散歩のマナーだからで、本当のところを言えば茶々丸はどこにも行ったりしないし、ましてや見知らぬ誰かに吠えかかったりなど絶対にしない――芽衣子はそう信じていた。


 ところが今、まさにそのようなことが起きている。


 プレハブ造りになってしまったラジオ局の駐車場の植え込みの前で、茶々丸はあろうことか何の関係もない青年を困らせはじめた。いったい何が面白いのか、駐車場と歩道との境目に立っていた青年のまわりをきゃんきゃん吠えながら飛び跳ねる。


 右足のケガのことなど一瞬で頭から蒸発した。芽衣子は血相を変えて走り寄ると、ほとんどしがみつくようにして茶々丸を青年から引き離した。


「ごめんなさい! 私が目を離したばっかりに……!」


 茶々丸が再び逃げないようしっかり両腕で抱きしめながら、芽衣子は深々と頭を下げる。相手のジャケットの黒とシャツの白、デニムの深い青――色だけが視界を順番に流れていった。慌てすぎていて、顔などろくに見てもいなかった。


 怒鳴られても仕方ないと思っていた。


 意外にも、穏やかな調子の声が降ってきた。


「――顔上げて。俺なら大丈夫だから」


 聞き覚えのある声だった。


 顔を上げた。


「ええっと……柚木さん、だったよね。また会うなんて奇遇だね」


 パスケースと右足の恩人は、そう言ってにこりと笑う。




 さして幅広でもない歩道で立ち話はよくない。そういう理由で場所を移した先は、ほんの二、三分ばかり歩いたところに佇む小さな公園であった。


 途中立ち寄った自動販売機の前で、青年は何か奢ろうかと提案してきたが、そればかりは好意と知りつつも断固として拒否した。迷惑をかけてしまったうえに飲み物まで奢ってもらうというのは、芽衣子の常識ではあってはならないことだ。


 結局、彼は無糖の缶コーヒーを、自分はオレンジジュースを各々の小銭で買った。


 十日前と同じベンチに、今度はふたりと一匹で並んで座る。


 公園は静かなものだった。自分たちのほかには誰の姿もなく、街道を走る車の音も実際の距離以上に遠く感じる。気の早いセミの「じじじ」という鳴き声だけが、ぽっかりと空いた町の隙間を埋めるかのように響いている。


 芽衣子はジュースの缶に口をつけたまま、密かに目だけを動かして青年を見た。


「――あの、本当にすみません。いつもはおとなしい子なんですけど……」


 青年はコーヒーを持っていないほうの手を振って、


「いいって。そりゃまあびっくりはしたけど、珍しいものも見れたし」


「珍しいもの?」


「いや、こっちの話」


 思い出し笑いを噛み殺すような表情を浮かべて、青年は茶々丸にむかって手を差し伸ばす。また茶々丸が吠えだすのではないかと芽衣子は気が気でなかったが、幸いなことに茶々丸は嫌がるそぶりを見せなかった。青年の掌に鼻をごしごし擦りつけ、どういう心境の変化があったのか、くいっと顎を持ち上げてみせる。


怖くないってわかってくれたみたいだ。賢い犬だね」


 青年が茶々丸の喉を撫でるのを、芽衣子は安心半分拍子抜け半分で見つめる。


「この子の名前は?」


「茶々丸です。毛が茶色いから」


「なるほど、わかりやすいな。――やっぱり犬っていいもんだね。俺、動物っていえば金魚くらいしか飼ったことなくてさあ、こうやって触ったり抱いたりできる生き物に昔から憧れてたんだ。お手」


 よろしくな茶々丸くん、と青年は馬鹿丁寧にあいさつをする。よその犬を相手にしているとは思えない真剣な口ぶりと、褐色の毛並みを撫でまわす無邪気な仕草とのギャップがおかしくて、芽衣子はこらえきれずに小さく笑みをこぼす。


 ジュースを口に含み、ふたたび青年へと視線を戻した。


 目が合った。


「――っ」


 発作でも起こしたかのように、芽衣子はものすごい勢いで目を逸らした。


 自らの心臓の音を感じる。


 こころの中にいるもう一人の自分が、ふだんの私ではあり得ない行動だな、と囁きかけてくる。自分は人見知りをするほうだと思っていた。男の人と隣り合って言葉を交わしているだけでも信じられないのに、その相手が名前も知らない大人だなんて気が遠くなる。なんだかとてもいけないことをしているような、


「足、もう平気?」


 思考が泡のように弾けた。


「あ――はい、おかげさまで。応急処置が良かったんだって整形外科の先生が言ってました」


「そっか、ならいいんだ。さっき走ってたからちょっと心配になってさ」


「大丈夫です。また痛み出したりもしてないので」


 ふしぎな人だった。


 初めて会ったときから、年上らしい余裕を見せる男ではあった。落ち着いていると言い換えてもいいのだろうが、その一方で彼の気遣いの裏側にはまるで壊れ物でも扱うかのような、ある種の陰のようなものが見え隠れする。実はナイーブな性格なのかと思えば、茶々丸とのスキンシップを楽しむ表情は青空のように晴れやかで、見た目より子供っぽい人なのかも、という気もする。


 唐突に疑問が湧いた。


「隊員さん、今日はどうしてこちらに?」


 今日の彼は私服を着ている。


 しかし、こんな住宅地に私用で訪れたはずはなかった。知り合いがいるのであれば話は別だが、青年がこのあたりの地理に詳しくないことは以前家まで送ってもらったときに確認済みだ。


 あの日UFOが落ちた現場の前で、彼は何をしていたのだろう。


「詳しくは話せない」と青年は言う。「でも、君にも訊きたいことがある」


 どこかからセミの声が聴こえ続けている。


「それはもちろん、わかることなら答えます、けど」


「最近、この町で変わったことはない?」

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