Chapter 22. 二律背反

 休憩もそこそこに仮設テントを出て、険しい斜面を急ぎ足で上った。深い茂みにためらいなく飛び込み、顔だけを突き出してそっと周囲を窺う。誰の姿もない。


 和泉はほっと息をつき、しばし呼吸を整える。


 手元に目を落とすと、ECHOPADエコーパッドのデジタル数字が「十一時四十八分」を示していた。


 ――いくか。


 インストールしておいたアプリを起動する。


 ECHOPADは人工衛星を介して持ち主の現在位置を基地に知らせる。当然、情報はリアルタイムで更新される――のだが、このダミー情報発信アプリの働きによって当面の間、自分は「ミッションエリア内の高所に陣取っている」ことになる。双眼鏡片手に観測任務のための準備を進めている、とでも思われているはずだ。


「こちら和泉。指定のポイントに到達。しばらくこのまま待機します」


 一方的に伝えて通信を切る。


 嘘である。


 和泉には、悠長に作戦の再開を待つつもりなどなかった。


 周防の策に穴があるとは思わない。しかし、ディゲラスの掘削くっさく速度はどう考えても危険だ。計算に誤りがなければ、攻撃が始まるまでの約一時間の猶予があれば、奴は麓どころか中京圏をも脅かすことができるだろう。


 そうなる前に、キリエスの力でケリをつける。


 危ない橋を渡っている自覚はある。なにしろダミーアプリは昨晩完成したばかりでテストも満足にできていないし、そうでなくともノードリー隊員あたりに怪しまれたらだまし通すことは難しい。


 それでも、やるよりほかに方法はない。変身しているとき、自分のいる場所から馬鹿正直に自分のGPS信号が検出されてしまったら一発でアウトなのだ。


 藪から藪を伝い、林の中を隠れ進んだ。


 ――ここまで来れば大丈夫だろ。


 手近な木陰に入って、最後にもう一度だけあたりを見回して人影がないことを確認するや、短剣を象った物体を懐から引き抜く。


「頼むぞ、キリエス……!」


 その物体――神具バイフレスターを頭上にかざす。


 次の瞬間、青い輝きがあふれ、意識が研ぎ澄まされて自己が薄れていく感覚を得て、和泉は身長四〇メートルの銀色の巨人に変わるはずだった。


 そうはならなかった。



「――だめよ、眞」



 背筋が凍った。


 楽器を奏でたような声が響いて、純白のワンピースがひらりと舞った。


 女の子が――ナエが忽然と現れ、目の前に佇んでいた。


「変身してはいけない」


 ナエは言葉を紡ぎながら、滑るような動きで歩み寄ってきた。足音ひとつ立たない。至近から見上げてくる瞳を覗き返した瞬間、和泉は思わず息を呑んだ――まだあどけなさを残した顔立ちに似合わぬ、ぞっとするほど冷たい理知の光。


「キリエスは下界の問題に干渉しない。為すべきことを見誤らないで」


 和泉の胸中を当惑が駆け巡った。


 彼女が何を言っているのか解らない。干渉しないとはどういう意味だ? キリエスは人類を救うためにやって来たのではないのか?


 混乱する心を見透かしてか、ナエはさらに言い募る。


「大いなる冬を退け、やがて来る黄昏を打ち払う――キリエスの全霊はそのために捧げられるべきもの。あの怪獣と戦うことは、私たちの使命とは関係がないわ」


「大いなる冬……? 前にも言ってたけど、いったい何のことなんだ?」


「瘴気によって自然の調和が崩れ、眠れる獣たちが目を覚まし、人心の乱れがいっそうの混迷をもたらす。それが大いなる冬であり、その行き着く果てに現れるものが、世界を根源的な破滅に陥れる……夜の闇より恐るべき、黄昏」


 要するに、ナエの言う「大いなる冬」とは三つの危難の総称らしい。どこかの地域にそんな伝承があったような気がする。


 大いなる冬はあくまでも前兆であり、真に備えるべき敵は「黄昏」――世界の破滅というわけだ。滅びをもたらす者と相対するまでキリエスは力を温存しておかねばならない。したがって無益な戦いで消耗するわけにはいかない。


 理屈はわかった。


 納得はいかなかった。


「十五年前、俺を助けたのはキリエスだ」


 忌まわしい記憶が蘇生する。慟哭の日。あの場で命を拾われたことが幸いだったと断言することは、年月を経た今でもできそうにない。


 だが、それでも――


 それでも、キリエスは疑いようもなく神様だった。


 人理の及ばぬ聖なるものに触れたと、自分は確かにそう思ったのに。


「あれは、怪獣から人間を守ろうとしたんじゃなかったのか?」


守ろうとしたのよ」


「同じことだ」


「違う。あなたは運命の特異点。だから選ばれた」


 ――また煙に巻くようなことを!


 和泉は半ば辟易へきえきしながら、ナエの説明を翻訳しようと努める。こんな遠回りをしている場合か――焦りを感じる一方で、彼女の謎かけじみた口ぶりに慣れてきている自分もいる。


「あなたの目に見える私の存在は、キリエスがこの宇宙へと投げかける影にすぎないの。キリエスは何万年もの間、高次元領域から世界のありようを見守ってきた。それはすなわち、眼に時間を映すということ」


「過去や未来がわかるってことか? でも、俺にどんな関係が……」


「世界の調和を保つのがキリエスの本来の役目よ。幾通りもの未来の中から望ましい一つを選定することで、キリエスは可能性の揺らぎを排除し、辿るべき道を固定してきた。そして今、その選定者の眼が最悪の運命を視ている」


 ほんの一秒にも満たない間、


「あなたたちが『七・一七』と名づけたあの災い……あれを経験した後のあなたは、どんな道筋を歩んでも必ず黄昏へと辿り着く。途中で命を落としさえしなければね。だから私はあなたを守る」


「……なんだって?」


 聞き咎めた。心の底から己の思考を呪った。


 気づきたくなどなかった――ナエの言葉に秘められた、恐るべき意味に。


「村が焼かれるのを知っていて見過ごしたのか?」


「……あの地が瘴気に包まれるのは避けられなかった。未来への希望を残すには、あの日あの時に介入するしかキリエスには手段がなかったのよ……残念だけれど」


 もはや和泉は言葉もない。


「今は受け入れられなくても仕方ない。けれど、私の答えは変わらないわ。特定の星や種族を保護するために力を使うことは、キリエスにはできない」


 最後にそう言い残して、ナエの姿はかき消えた。



 その直後だった。



     ◇ ◇ ◇



「ディゲラス、活動を再開っ!」


 サクラ・ノードリーの報告が稲妻となってコマンドルームを打った。スピーカーの向こうで誰かが怒鳴ったのはそのすぐ後だ。ECHOPADを用いた共通回線。あまりにも語調が激しすぎて、それが周防の声であると気づくのに一拍の間を要した。


『第二次攻撃を開始する! 総員、ただちに追撃戦に移行せよ! 山吹くんは離陸後、ディゲラスの進行方向に回り込んで降雨弾を投下! 戦車各隊は陣形を維持しつつ追走、敵が地上に出たところを砲撃!』


 コマンドルームに詰めている全員が見守るなか、山吹のレーベンが降雨弾をばら撒いた。空中で破裂した弾から化学物質が散布され、人工の雲となって水滴を降り注がせる。


 周防の目論見どおりに事が運べば、ディゲラスは再び地上に出ようとし、震源の深さの変化として記録されるはずだ。


 フギン‐δから最新のデータが送られてきた。


 震源は、深さを保ったままだった。


 藤代は即座に叫んだ。


「――ディゲラスの予想進路を作成、並行して移動速度を算出! 十秒間隔で震源の座標をマップ上に記録しろ!」


 コマンドルームが騒然としはじめる。ノードリー隊員がいち早く作業に取り掛かり、他のオペレーターがそれに倣う。


 乱れ飛ぶ通信と報告をBGMにして藤代はさらに、


「周防副長ッ!」


『言われなくとも! ――山吹くん、降雨弾はやめだ。そのままディゲラスの直上につけ、地中探査レーダーを最大出力で浴びせ続けろ!』


『いや、つってもレーダーはもう……』


『嫌がらせ程度の意味はあろう。少しでも進行を遅らせることができればいい!』


 藤代はモニターを見つめて考える。


 せまい日本だ。どう動いてもいずれは人口密集地にぶち当たる。ここで仕留められなかった以上、被害を食い止めるためには怪獣警報を出すしかない。


 十秒ごとに増えていく光点は、南西へと伸びている。


 藤代は決断した。矢継ぎ早に指示を出す。


「愛知県全域に警報、岐阜県内に注意報を発令する! ただちに気象庁と国交省へ通達! それと自衛隊だ! 名古屋を中心に警戒するよう伝えろ!」

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