第三話 ECHO出撃す

原始怪獣 ディゲラス 登場

Chapter 17. 真夜中の惨劇

 最初の惨劇は深い木立ちの中で起こった。


 おんたけひのきの森公園は、名が示すとおり、御嶽山おんたけさんを仰ぐ場所に拓かれたキャンプ場である。いくつかあった候補の中から柿崎かきざき荘太そうたがここを選んだ理由は、ひとえに「空いていたから」という一点に尽きる。他の予約が入っておらず、実質的な貸し切り状態になるかもしれないと聞いて、一も二もなく週末の利用を申し込んだ。大型連休が終わったとはいえ、こんな穴場はそうそう見つかるものではない。


 キャンプには三人の友人を誘った。いずれも大学のサークルの仲間だ。そのうちの一人、ひとつ下の後輩にあたる綿貫わたぬき千絵ちえは柿崎の交際相手でもある。


 柿崎はこのキャンプの間に、千絵にペアリングを贈るつもりでいた――というよりもむしろ、そのためにキャンプの計画を立てたと言い表すほうが実情に近い。彼女の誕生日は半年ほども先であり、他にうまい口実もなかった。とにかく日常から切り離された状況が欲しかったのだ。慕ってくれている年下の子に対して何を臆病な、とは自分でも思うのだが、こういうことには慎重なくらいがちょうどいい、というのもまた柿崎の持論なのだった。


 結果的に、策を弄したことが奏効した。千絵の右手の薬指では今、自分がしているのと同じ指輪が光っている。


 星明かりを映した川辺で二人きり。砂利の上に並んで座り、とりとめのない話に花を咲かせていたとき、それは唐突に始まった。


「いたっ」


 千絵が両耳を押さえて呻いた。


「どうした?」


「嫌な音……キーンって、聞こえません?」


 何も聞こえてなどこない。


 ただの耳鳴りじゃないのか――まずその可能性を疑ったが、高校までバンドをやっていたという千絵が音に対して人一倍敏感であることを柿崎はよく知っている。そういやおれ最近耳かきしてないな、そんなことを思い、


 突き上げるような振動が来た。


 今度の音は柿崎にもはっきりと聞こえた。そう遠くない距離で何かが爆ぜた音だった。


 半ば茫然自失の体で、音のした方角へと向き直る。


 いかんせん夜の山である。光源と呼べるものはわずかに欠けた月しかなく、密度の濃い林冠に遮られて肝心なものは何も見えない。それでも必死に目を凝らすと、濛々もうもうたる煙が舞い上がっていることと、どうやら火が燃えているわけではなく砂埃や土煙の類らしいことが見て取れた。


「あれ、テント張ったあたりじゃないですか……?」


 そのひと言を理解するのにしばらくかかった。


 怯えた表情を浮かべる千絵を引き寄せ、早足で森の中を戻る。一歩行くごとに胸のざわつきが音量を増し、まるで繋いだ手から不安が伝染してくるかのような錯覚すら感じて、彼女を置き去りにして走り出さないだけのこらえ性が備わっていたことに自分でも驚く。


 そして、戻ったそこには、あるべきものがなかった。


 テントが消えている。


 二人の仲間の姿も見当たらない。


 いや――まったく痕跡がないわけではない。掘り返されたように荒れ果てた地面と、巨大な陥没。柿崎は千絵から離れて陥没のふちへとにじり寄り、おそるおそる覗き込んだ。


松田まつだぁ! 栗原くりはらーっ!」


 陥没の内部は真っ黒な闇に閉ざされ、深さを推し測ることはできない。ここに落ちることは即ち死ぬことだ。二人は穴の底に横たわってなどいない、そう信じるしかない。


「――先輩、こっち来てっ……」


 渇いた喉から振り絞ったような千絵の声、


「何か見つかったか!?」


「こんなの、」


 千絵が土をかき分けて摘まみ上げたそれは、一見して用途を想像できない布切れであった。どちらかと言えば薄手で、色は辺りの暗さのために判然としない。断面のほつれが激しく、大きな力によって無理やり引きちぎられた痕だろうと窺えた。


 受け取ろうと右手を伸ばし、生地を掴み取った柿崎の指に、ぐしゃりと濡れそぼった感触が走った。


「わっ」


 思わず取り落とす。目の高さに持ち上げた手を広げてみると、透明な液体が指の間で糸を引いた。


「きったねえ。なんて臭いだ……」


 あまりに悪臭が強いせいで、それがどんな臭いであるのか、嗅いだ瞬間にはわからなかった。十秒おいていわゆる獣臭さだと気付く。水洗いする前の肉の臭いを何倍にも濃縮すれば、ちょうどこんな感じになるかもしれない。


 石鹸で洗っても取れるかどうか。


 顔をしかめつつ、足元の布切れへと目を戻す。


 落とした際にひっくり返ったのだろう、先ほどまでは見えていなかった面がこちらに表を向けていた。その面に模様が入っている。よく知っている模様だった。途中から破れてしまってはいるが、見紛うはずはなかった。


 松田のパーカーにプリントされていた、スポーツブランド「alynxアリンクス」のロゴマークに違いなかった。


 木々の合間から吹き込む風の音に、震えるほどの恐怖を感じた。


「――今すぐ山を下りよう」


 途端、千絵の視線が非難めいた色合いを帯びた。二人を置き去りにするのか。険しい顔にそう書いてある。


 そのとおりだよ、と柿崎は胸の内で居直る。言い出しっぺとしての責任があるのは自分とて百も承知だ。しかし、それを投げ出すのが薄情だとも異常だとも思わない。普通でないのはこの状況のほうなのだ。


「麓に交番があったろ。あそこに相談して、」


 ちゃんとした捜索隊を出してもらった方がいい。そう口にしようとした、まさに寸前のことだった。


 突然、目の前の地面が噴き上がった。


 隆起した土砂に持ち上げられ、柿崎はひとたまりもなくバランスを崩した。一〇メートル近くも滑り落ち、樹にぶつかってようやく止まる。打った背中をさすりながら、かぶりを振って視界の霞を払おうとする。


 鼻先に、ペットボトルほどの大きさの白い何かが降ってくる。


 重く湿った音をたてて土の上を転がったその白い何かに、どうにか明瞭さを取り戻した両目を向ける。


 手だった。


 人間の、手だった。


 夜に閉ざされた森の中にあって、人膚ひとはだの白さはひどく目立った。手首から後ろが無くなっている。五本の指が虚空を掻くように開かれている。


 薬指の根元に、見覚えのあるリングがまっている。


「……千絵?」


 枝葉の隙間から差し込む月が、いっそうかげったように思う。


 遥かな高みから風が吹きつけてくる。掌にこびりついた液体と同じ臭いをしている。いやに生温い。五月の山に吹く風は、もっと冷たくなければおかしい。


 柿崎は、そっと背後を振り仰いだ。


 牙の並んだ口が、頭上から凄まじい速さで迫ってきた。

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