Chapter 16. 重なる心、そして
意識が蒼に溶けてゆく。
小さな温もりが自分に寄り添い、指を絡めてくる感触があった。ナエだと感覚的に理解する。自我の境界が混ざりあい、自分が「和泉眞」なのか「ナエ」であるのか区別できなくなってゆく。
虹の橋を駆け上がり、人智の及ばぬ神聖へと至り――
刹那、頭蓋の内側で苦痛が暴れた。
耳元で怒鳴られたときの痺れにも似ていたが、そんな生易しいものではなかった。身体的な息苦しさすら覚えて思考の乱れを抑えることができず、
(なんだ、これ!)
答えは頭の中から聞こえた。
ナエの声であった。
(この場所で命を絶たれた生き物たちの思念よ。キリエスの霊感は
つまり、魚たちの霊魂の声なき悲鳴であるらしい。まるで言語の形を成していないことも、物理的な音なのかどうかさえ判然としないことも、それならば確かに説明はつくのかもしれない。
しかし、これでは戦うどころではあるまいと思う。
(どうしたらいい!?)
(心を鎮めて、キリエスと同調しなさい)
(そんなこと言われても――)
(変質を受け入れるの。今のあなたは和泉眞ではなく、キリエスなのだから)
ナエの穏やかな声音に
もとより固執するような己など持ち合わせていない。和泉眞をやめる。そんなことで克服できるなら、何者に変わることだって受け入れられると思った。
――俺は、俺でなくていい。
そして、決定的な変容が起こった。
視覚聴覚嗅覚触覚味覚、どれにも当てはまらないまったく未知の感覚がひらく。
これがキリエスの霊感なのか。
形の合わないものを強引に捻じ込まれるような痛みは失せ、魂を魂として、まるで生まれたときからそうしていたかのような自然さをもって知覚する。
両の
空と地上が視界いっぱいに映し出される。
一瞬の浮遊感に包まれ、直後、落ちる勢いのままに着水した。爆発めいた大音響。衝撃が湖を揺るがせる。生じた高波が桟橋を砕き、岸壁に繋ぎ止められていたレンタルボートの群れを呑み込んだ。
(もっと集中して)
手足の指の先にまで思念を伸ばす。
意識が完全なる覚醒を迎え、五体のすべてに制御が及んだ。
豪雨のような
「――ZeeYaah!」
立ち込める白い霧の中、二つの影が対峙する。
(……でかいな)
遠目から眺めていたときはいまひとつわかりにくかったが、こうして相対してみると、バミューの大きさがよく理解できた。樹高は身長四〇メートルとなったこちらが首を反らして見上げるほどもあり、横幅は両腕を広げても抱えきれないほど太い。水面下がどうなっているのかは想像するのもおぞましかった。これほどの巨花だ、湖全域に根を張って養分を吸い上げているに違いない。
と、バミューに動きがあった。
血のように赤い蕾が、意思を持つかのごとく開いては閉じる。その色が紫がかった淡紅色に変化する。花弁の内側には乱杭歯のような棘がびっしりと並んでいて、さながら獲物に食らいつかんとするワニの顎を思わせた。
(食虫植物みたいだな。魚の残骸はあいつの食べ滓だったわけだ)
(来るわ)
迫ってきた顎を辛うじてかわし、キリエスは前に出た。
そのまま幹に拳を見舞う。しかし、樹皮の堅い守りに阻まれたのか、バミューに効いた様子はなかった。
(手に光を纏わせて打つの。心臓から送り出された血が、動脈を通って流れ込むのをイメージして)
(――こうか!)
胸の結晶体がひときわ強く輝きを放つ。体の青い紋様をなぞって光が走り、篭手のように発達した手首の器官へと集束した。
キリエスはふたたび拳を固め、力の限りに突き出した。
「ZeeAa!」
打ち据えた箇所で光が爆ぜた。
衝撃に幹が、枝葉がぎしぎしと震え、バミューが激しく体を揺らす。まるで神経が通っているかのような動物じみた反応だ。なるほどナエの言うとおり、ただ大きいだけの植物ではない。
決着を急ごうとキリエスが手刀を構えたとき、
(いけない!)
頭上で花弁が口を広げた。
マッチを擦ったような臭気が漂ったかと思うと、キリエスの顔面めがけて粉塵が吹きつけられた。
(花粉!? 硫黄ガスに乗せて噴射したのか!)
視界が黄色く塗り潰された。キリエスは怯み、水に足を取られながら後ずさる。
花粉の色はもっぱら硫黄によるものらしく、侵食係数はさほどでもない。だが、バミューの狙いは別のところにあった。
突如として水面が爆ぜ、蔓が飛び出した。
「Mu――!?」
左右の腕が、胴が、首が、蛇のごとく絡みついてきた蔓に絞め上げられた。水の底では隆起した根に足をとられる。引きちぎろうともがいたが、変異した植物組織は存外に強靭で、多少の抵抗ではびくともしない。
蔓の先端が一斉に割れ開く。
何だ? ――
「GuAah!」
粘液に触れた箇所で炙られるような熱感が弾ける。
(強酸の……溶解樹液……!)
皮膚を溶かされているのだと気づいて、本能的な危険を感じた。痛みと嫌悪に身をよじるが、拘束が緩む気配はいっこうになく、焦りばかりが募ってゆく。
――ドクン。
体の奥底で何かが跳ねた。
胸の中心の結晶体が点滅を繰り返していた。
(まずいわね)
ナエの念話にも切迫した調子が滲む。
(活動限界が近いわ。高次元存在であるキリエスがこの世界に
その先は聞くまでもなかった。
体感でわかる。約三分という限界を超過したが最後、キリエスは二度と再び立ち上がる力を失ってしまうかもしれない。
戦いはじめてから二分は経過しているはずだ。猶予はない。
(ちょっと荒っぽくなるけど、いいか?)
(あなたに任せる)
賭けに出る覚悟を、決めた。
「KoOooooh……」
精神力をかき集めて血流のイメージを作る。
四肢に光を送り込み、臨界まで凝縮し、
「Zee、Yaaaaaah――――!」
咆哮とともに、一気にエネルギーを逆流させた。
滑らかな銀色の肌を蒼いスパークが走り抜け、身体の至るところで火花と衝撃が炸裂する。粘液が蒸発し、蔓や根がバラバラにちぎれ飛び、破片が水音を立てて沈んでいった。
煙と蒸気を昇らせながら、キリエスがゆっくりと構え直す。荒々しく上下する肩と、明滅を続ける胸の結晶体がエネルギーの減衰を訴えかけてはいたが、
一方、手足の大半を失ったバミューの傷は深刻だった。くの字に折った巨体から血のような樹液を撒き散らし、切れ切れに花粉を吐き出している。
それでもバミューはあがこうとした。残った蔓をかき集めて水面から持ち上げ、身を守るように壁を作る。
致命の隙だった。
キリエスは両腕を突き出した。
撃ち放たれた光線がバミューめがけて殺到し、緑の防壁をあっさりと貫通した。蒼い奔流はバミューの穢れた体組織を浸透して行き渡り、湖底に張った根までもを粉々に吹き飛ばした。
瀑布を逆さまにしたような水柱がキリエスの姿を覆い隠す。湖がもとの静けさを取り戻す頃、銀色の巨躯は跡形もなく消えていた。
変身が解けるや否や、和泉は湖に放り出された。息も絶え絶えに岸まで泳ぎ、文句の一つも言ってやろうと周囲を見回したが、ナエの姿はどこにもなかった。
「ったく……もうちょっと親切に下ろしてくれたって」
思わず悪態をついたとき、目の前にハウンドが停車した。
フロントガラス越しにもこちらが濡れていることは見て取れたらしい。唯はぴくりと顔を引きつらせ、乗れ、とジェスチャーで示す。
助手席に座った和泉を
「GPSの反応が湖の上だったから、もしかしてとは思ったが……」
「投げ出されたんですよ」
まだ少し機嫌を損ねていた和泉はむっつりと返し、岸壁の方を指差して、
「桟橋が壊れてるでしょう?」
それで納得したのか、唯は追及してはこなかった。
和泉は空を見る。輸送機の影はない。
このまましばらく待機か――そう思ったのも束の間、唯は
「いいんですか? バミューの残骸は……」
「副長が回収するそうだ。無駄足はつまらないとさ」
「あー……」
いかにも言いそうなことだと思う。
「キリエスの光線、きれいにバミューだけ爆発させましたからね。そりゃ消火剤の出番はないか」
途端、唯が眉根を寄せた。
「キリエス?」
――しまった!
冷や汗が噴き出た。
「例の巨人のコードネームか? いつの間に決まったんだ?」
「いや、決まったというか……」
必死に考えを巡らせる。自分の身に起こったことをありのままに説明するのはさすがに
「つまり、その……聞いたんです」
「誰に」
「白い服を着た女の子ですよ。ほら、前にも話したじゃないですか」
「君が奥多摩で見たという幽霊か。また現れたのか?」
「バミューと戦いに来たと言っていました。彼女が消えた後、巨人――キリエスが現れたんです」
ふむ、と唯は唸った。
「その少女が巨人の正体なのかもしれんな」
和泉は相槌を打とうとしたが、出てきたのは派手なくしゃみだった。
唯が呆れたように笑って、エアコンの温度を上げる。
◇ ◇ ◇
後日、西湘アグリの役員と県議員とが贈収賄の容疑で逮捕された。便宜を失った会社を多額の損害賠償が吹き飛ばしたが、それはまた別の話である。
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