Chapter 15. 導きの少女・ナエ

 貸しボート屋のオヤジに礼を言われた。


 湖がこんな状態のままでは客の入りなど望めない。県やECHOエコーのお役人さんが借りていってくれるのは助かる――どうやらそんな話らしい。安全が確認されるまでは一般人による航行は禁止だ。それでなくとも魚が浮いてからすでに三日、怖いもの見たさで訪れる者もめっきり少なくなり、周辺はどこもかしこも閑古鳥かんこどりが鳴いていた。


 途中、オヤジは奇妙なことを口走った。


 ――兄ちゃん、鼻上げって言ってわかるか?


 和泉のいた養護施設では金魚を飼っていたので、よく知っていた。水換えや餌やりが和泉の仕事だったからだろう、和泉が水槽に近づくと、金魚たちは水面近くに顔を出して口をぱくつかせたものだ。


 和泉が頷くと、オヤジは遠くを見るような目つきで、ぼやくような口ぶりでこう語る。


 ――先週からだったかね、ちょくちょく見かけるようになってた。てっきり虫でも食ってるんだと思って眺めてたんだけども、今にして思えば、ありゃ苦しがってたんだろうなあ……。


 そのとき、和泉はふと、足元が小刻みに揺れているのを感じて動きを止めた。


 オヤジと顔を見合わせて、即座に二人で身を屈める。揺れは時とともに激しくなった。柱がきしみ、天井からぱらぱらとほこりが落ち、壁に立てかけてあった手漕ぎボート用の木製のかいが甲高い音とともに倒れる。


 振動と轟音が極限に達した瞬間、外で一段と大きな水柱があがった。噴き上がった水があたり一面に滝のごとく降り注ぐ。


「――何だ!?」


 ECHOPADエコーパッドが鳴り、唯の声が響いた。


『和泉隊員っ! 無事か!?』


 負けじと大声で返す。


「もう岸に上がってます!」


『安全距離まで下がって待機しろ!』


 和泉はすぐさまオヤジを立たせ、店を飛び出した。オヤジの背を押しながら走る。ホテルの玄関から従業員が逃げてゆくのが見えた。調査本部に詰めていたのであろう警官たちがそれに続く。


『相手の正体が判った。わたしたちの管轄だ!』


 背後を振り返った和泉は、白い霧を巻き上げて荒れる湖の中心に、塔のごとくにそびえる威容を目の当たりにした。


『敵は植物――怪獣化した植物だ!』


 それは湖底に太く根を張り、幾重にも絡み合う蔓によって水上に編み上げられた、天を衝くほどに巨大なバラであった。




 オヤジを先に逃がし、和泉はひとり巨花を睨む。


 ひときわ大きな真紅の蕾が「頭」にあたるのだとすれば、支える幹は「胴」となる。何十本もの茎や蔓がり合わさって途方もない太さに達した「胴」は、どうやら中心に樹木を内包しているようだった。幹には「手」も生えている。ノコギリ状の縁をもつ、左右一枚ずつの分厚い葉だ。


 霧に包まれた湖と、奇怪な薔薇。眼前の光景にはあまりにも現実感がなく、まるで幻想の世界に迷い込んだかのような錯覚すら起こしそうになる。


『――液肥のアンプル?』


 ECHOPADからの声で我に返った。


『盗まれたバラに使われていたもの、という意味かね?』


『はい。わずかですが中身も残っていました』


 周防と唯だった。個別の直通回線ではない、隊のメンバー全員に繋がる共通チャンネルで話している。


『最近売り出された製品と同じものだそうです』


『同じ、とは?』


『試供品なんです。メーカーと直接つき合いがあるとのことで、市場に流通する前に回してもらったんだとか』


 町内のバラ園が十日前に盗難届を出していたという情報をサクラが掴み、唯が赴いて手がかりを回収した――つまりはそんな話らしい。


「バラ園……」


 十日前に忽然と消えたバラ。


 先週から見られたという魚の鼻上げ。


 三日前の朝に湖面を埋め尽くした大量の死骸。


 そして今、異変の正体としてついに屹立きつりつした巨大植物。


 すべての出来事がパズルのピースのように連結されてゆく。この地で何が起こったのかは、もはや考えるまでもなく明らかだ。


 和泉の答えを肯定するかのように、唯は緊迫した声音で告げた。


虚素レキウム反応が出ました。〇・八二ノルダル』


 やっぱりそうか――和泉は苦虫を噛み潰す。


 盲点だった。そもそも湖水が汚染されていたわけではないのなら、いくら水質を調べたところで原因がわかるはずもない。


 こみあげる徒労感を堪えながら、二人の会話に割り込んだ。


「虚素を溜め込んだバラが集まって一個の生命単位を作った……それが湖の養分を吸って成長したのが、奴の正体ってことですか」


『湖底では光合成もできんだろうからな。あれほど巨大な植物が呼吸をしていたのでは、酸素が減って当然だ』


 こちらに負けず劣らずの仏頂面で唯が応じる。


『肥料のメーカーの西湘アグリは、このあたりでは有力な会社だと聞くが……事実を知っていて隠蔽を図ったのなら、とんでもないことだ!』


 憤懣ふんまんやるかたないといった様子で吐き捨てる唯に、和泉は深い共感を覚えた。


 液肥のメーカーが不祥事の発覚を恐れたことと、最終的に調査委が工作を行ったこと。途中いかなるルートを経由したのであれ、この二点はもう覆るまい。


 こんなものを怪獣災害とは呼べない。紛れもなく人災だ。


『まあ、たしかにカネの流れを追ってみたくはあるね』


 周防だけが熱量のない口ぶりを保っていた。


『でも、桐島くんの読みが正しければ、警察に圧力がかかっているわけじゃないんだろう? そちらの捜査は彼らに任せてしまっても良いのではないかな』


 唯がむっと言葉に詰まる。震える息づかいに込められた怒りがECHOPAD越しにも伝わってくる。


 唯に味方したい心情は大いにある。しかし周防の言うとおり、ここは割り切らねばならない場面だった。責任の所在は後でいかようにでも追及できるが、怪植物を放置して生じる損失は物理的にも経済的にも計り知れない。


 もっとも、和泉が口をはさむ必要はなかった。


『無論、それが筋でしょう。帰ったら文書にまとめます』


 事も無げに、とまではいかない。それでも唯はたぎる義憤を嚥下えんかして、浅い溜め息とともに自ら軌道を修正してみせた。


 ――見習わなきゃなあ。


 山吹隊員との口論が思い起こされ、和泉はひそかに恥じ入る。唯に比べれば自分などまだまだ青い。


『で、作戦の方針は?』


『馬鹿げたサイズとはいえ植物は植物だ。火器が有効だろうね』


『相手は湖から水分を吸い上げているんですよ?』


『いくらなんでもナパーム弾と機雷で燃やせないってことはなかろう。まさかそんなところで除草剤を撒くわけにもいかんし』


 楽観的なようでいて理に適った見立てだ。幸いにしてと言うべきか、怪植物は湖のど真ん中にいる。ピンポイントで攻撃を仕掛ければ、四方を囲む山々への被害は抑えられるかもしれない。


『決まりだな』


 画面の向こう、周防の後ろで藤代隊長が腰を上げるのが見えた


『第四種警戒態勢を発令する! これより怪植物をバミューと呼称。SSS-Uトライエス・ユニットの戦力をもって殲滅にあたる!』




 藤代の語った作戦の概要はこうだ。


 まず、山吹隊員が戦闘機からナパームと自走爆雷を投下し、怪植物――コードネーム「バミュー」を焼却する。


 山林への飛び火には最大限注意を払うが、万一の際には輸送機で出撃した周防副長が消火剤を散布して延焼を食い止めるものとされた。いずれにせよ、バミューの全焼が確認された後には消火活動を行わねばならない。


 周防にはもう一つ、特殊潜航艇ウェイバー9を運ぶという任務が課せられた。怪異の存在が明るみに出た今、もはや藤代に遠慮はない。事態の収束を長引かせるつもりはないとばかりに、使えるマシンをフルに使いきる構えである。


 もっとも、ウェイバー9は攻撃のために投入するのではない。敵を倒しても虚素が消滅するわけではないからだ。汚染の拡散を防ぐため、バミューの残骸を回収するのがウェイバー9の役目だった。


 作戦開始は一三時〇〇分ヒトサンマルマル


 その時が来たら、和泉は唯とともにウェイバー9に乗り込み、水中へと潜っていくことになる。


 ――操縦訓練は受けたけど、本物を動かすのは初めてだな。


 若干の緊張を覚えながらも「了解」と返して通信を切る。顔を上げ、霧の奥にそびえ立つ奇樹に目を戻した。


 目を戻そうとした。


 桟橋さんばしの上に、女の子がいた。


 白いワンピース姿の華奢な背中。見紛うはずがなかった。奥多摩の山中で出会った、あの幽霊のような女の子だった。


 キャンバスに描かれた絵画のようだった。


 あるいは、本当に別の世界に迷い込んだのかもしれなかった。


 網膜の裏に燃え立つような黄昏たそがれがちらつく。それは「七・一七」の空の色であり、冬の奥多摩を染め抜いた光の色であり、和泉の夢に幾度となく現れた、壮絶なまでの激情の色だ。


 我に返ったときには、女の子のそばまで歩み寄っていた。


「逃げないと危ないぞ。……といっても、君は承知の上なんだろうな」


 鳶色とびいろの髪を揺らし、女の子が振り返る。


「私は戦うために来た」


 それだけで、和泉の訊きたかったことが一つ消えた。


 ――やっぱり、君があの銀色の巨人なんだな。


 そんな気がしてはいた。女の子の浮世離れした雰囲気は、記憶の中の巨人にどこか通じるものがあったから。


 女の子は少し首を傾げて、


「キリエスの意思こそが、私の存在そのものだから」


「キリエス……? 巨人の名前か」


 相対する全てを断ち切るような鋭利さを持ちながら、限りなく澄みわたるような清らかさをも感じさせる、なんとも不思議な響きだ。あの巨人のイメージにはよく馴染む気もする。


「今、世界は大いなる冬の只中にあるわ」


 唐突に、女の子はそう口にした。


「やがては黄昏に沈みゆく運命……それを覆すのがキリエスの使命。けれど、成し遂げるためには協力者が要る」


「それが俺だって?」


 こくり、


「眞、あなたは選ばれたの」


 どう反応すればいいのか掴みかねた。


 ――大いなる冬とは何だ?


 ――黄昏とは、世界が滅ぶという意味か?


 新たな疑問が渦を巻く。とはいえ、晴らしたいのはそんな謎ではなかった。他の何をおいても聞いておかねばならないことを、和泉は正面からぶつけた。


「どうして俺なんだ?」


「それは――」


 ほんの一瞬、女の子は狼狽うろたえるようなそぶりを見せた。人形のように整った顔立ちに、儚げな憂いが去来したのがわかった。


 女の子は、それ以上の弱みを見せなかった。


 怜悧な眼差しが和泉を射抜く。形のよい唇が動いて、



「あなたが、死を恐れないからよ」



 急所に刺さる一言だった。


 心の底から納得した。


 女の子の語り口は相変わらずいちいち遠回しで、正直、とっさには意図を理解しづらい。だが最後の言葉だけは――銀色の巨人が自分を選んだ理由だけは、一片の曇りなしに信じられる。


 不意に、女の子が湖へと視線を戻す。


「――あれは、あなたたちが考えているような大きいだけの花ではないわ。瘴気によって生まれたものはキリエスが討つ。そのためにも……」


 和泉は、先回りして告げた。


「協力するよ」


 女の子は、驚かなかった。


 あなたの中には私がいる――奥多摩で死の淵に立ったとき、和泉は女の子の囁きを確かに聴いた。彼女がキリエスであるというのなら、和泉の選択などとうに知っていたのだろう。


 答えは出ているのだ。十五年も前に。


「どうすれば君を手伝える?」


「幻視したとおり、バイフレスターを天にかざして」


 ――バイフレスター?


 聞き慣れない名詞に眉をひそめたが、幻視という単語には心当たりがある。夢の中の自分はどうやって変身していたのだったか。


 懐から短剣状の物体を取り出す。


 柄を握る右手に力をこめ、はたと気づいて、


「もう一つだけ、いいかな」


「なに?」


「君のことは何て呼んだらいいんだ? キリエスっていうのは、あくまで巨人の名前なんだろ」


 女の子は、思いがけないことを訊かれたといったふうに目を瞬かせた。


 ほんのわずかな間があって、


「ナエ……とでも名乗っておこうかしら」


「わかった。よろしく、ナエ」


 和泉は今度こそバイフレスターを掲げた。


 叫ぶ。


「キリエス――――ッ!」


 バイフレスターから解き放たれた光が、和泉の視界を染め抜いた。

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