Chapter 06. 山を貪る者
ひとまず洞内が暗闇と無縁であったのは幸いと言えた。唯のタクティカルベストのポーチには懐中電灯も納まっていたが、いかんせん小型に過ぎ、とても隅々まで照らすことはできなかったろう。それほど広大な洞窟であった。
もっとも、
――やはり、何かがいる。
奥に行くにつれて数値が高くなってきている。異変の元凶に迫っているのだという実感があった。洞窟内がいくら逃げ場のない空間だとはいえ、これほどまでの侵食係数の大きさは、この深部に汚染源がある以外には説明のつけようがない。
前を歩く和泉の背中を見る。
潮時かもしれない。
和泉の着ているアカデミー仕様の隊服には正規隊員のものと同様、耐NBC機能が備わっている。それは確かだ。しかし、彼の頭部を守っているのが緊急用の防護マスクとフードに過ぎないことを思えば、長居は避けるべきだった。SSS-Uの最新鋭装備に防護されている自分はともかくとして、和泉がこのまま進んでいくのにはリスクが伴う。
「――なあ、」
声は岩肌への反響を繰り返し、魔物の唸りとなって曲がりくねった穴の底へと消えてゆく。
「白い服の少女とやらは、まだ見えているのか?」
「え」
ひどく意外そうな声、
「わからいでか。君、さっきから立ち止まってはきょろきょろしたり、急に方向を変えたり、何もないところに向かって頷いたり。端から見たら異常だぞ。幽霊とでも会話してるか、そうでなければ頭がおかしい奴にしか見えん」
「……あの。信じてくれてるんですかそれ」
「これでも元警官でな。霊や妖怪は見えなくても、人を観察するのは得意なつもりだ。君は嘘をついてもいなければ、正気をなくしてもいない」
正直なところ、最初に聞いたときはまさかと思いもした。幽霊との接触はさすがに専門外だ。しかし、唯はそういったものの存在を
「まあ、わたしが自分で確かめられないというのは気に食わんが――いや違う、こんな話がしたいんじゃない」
再び計測器を見る。九九・三。
「つまり、その少女は保護対象ではないわけだろう?」
「自分でそう言っていました」
「だったら、」
「戻って準備して再調査とかできるなら、ぜひそっちに乗り換えたいところですけど。そんな猶予はもうないでしょう」
和泉はこちらを一顧だにせず、多くを語ろうともしない。その口ぶりには「この役目は誰にも譲らない」と決めてかかっているような、断固たる響きが備わっている。
唯は、喉まで出かかっていた撤収の提案を飲み込んだ。
「そうだな。君の言う通りだ」
本音を言えば和泉だけでも下山させたい。
が、異変は最終段階を迎えている。汚染源が怪獣であるならばその出現は時間の問題に過ぎず、怪獣について何事かを知っているのは白いワンピースの少女であり、和泉がいなければ少女とコンタクトすることができない。
「――それにしても深い。二キロくらいは歩いたはずだが」
「入口との高低差もけっこうありますよ。
「岩盤が虚素にやられたか、怪獣が直接掘ったか、だな。どちらにせよ怪獣が原因であることには変わりない」
「皆はどこまで退避したと思います?」
「M9を越えた頃だろう。余計なことは考えず目の前に集中しろ」
周防との連絡はもう十分以上前から取れなくなっていた。この深度では衛星からの電波が届かず、ECHOPADの通信機能が使えないためだ。気にならないわけではないが、あちらのことは周防に任せるしかない。
岐路に出た。
和泉が足を止め、目を凝らすような仕草をする。少女の幻が見えたか、和泉は左を選択しようとした。
そして、事態は急激に進行した。
まず、強い縦揺れが洞窟を襲った。唯はたたらを踏んで、しかし
「……っ!」
偶然にも目に入った計測器の表示が「一〇六・四」から「一三四・一」に変わった。
どん、と胸のあたりに衝撃を感じた。
勢いよく尻餅をつき、唯は
「和泉訓練生、どういうつもり――」
そのとき、和泉の体は左側の道にあった。唯を突き飛ばした反動でそちらに流れたのだろう。
唯の手の中で、計測器が「二〇五・七」を刻んだ。
濁流のごとく押し寄せた死の光が、和泉を丸呑みにするのが見えた。
とっさに伸ばした指のすぐ先を、落ちてきた岩が掠めた。
直前、硬い地盤を割って鱗を纏った影がせり上がってきたように思う。震動と粉塵と燃えるような光に遮られて正体を見極めるどころではなく、意思とは関係なく叫びが漏れ、轟音にかき消されて自分の耳にすら届かず萎む。
土くれに全身をもみくちゃにされ、何度も体が回転した。上下がどちらで自分がどんな姿勢でいるのかもわからない。途絶えそうになる意識を繋ぎ止めるだけで精一杯だった。
やがて静かになった。
唯は慎重に手足を動かす。どこにも痛みはない。装備にも致命的な損傷はなく、侵食症の心配もせずに済みそうだ。
安堵しかけたとき、落盤の寸前に目に焼き付いた光景がフラッシュバックした。
「――和泉っ!?」
弾かれたように左右を見回す。夕方の日陰くらいの明るさに満たされた空間。そこで初めて、崩れた岩の隙間に閉じ込められているのだとわかった。
和泉はいない。
「そんな……」
唯の顔から表情が抜け落ちてゆく。
状況を把握すると同時に、冷徹な現実認識がもたらされていた。
自分が生きているのは、洞窟が崩れたとき、たまたま周囲よりほんの少し頑丈な場所にいたというだけに過ぎない。まさに紙一重だった。その紙一重を隔てたところに和泉はいたのだ。
しかも、和泉は黄昏の爆圧を直接浴びてしまった。いかに耐NBC処理を施された装備といえど、あれほどのレキウムを完全に遮断できたかは怪しい。
どう楽観的に見ても、和泉が助かっているとは考えにくい。
「わたしを、
虚無感に支配された。うつむき、額に手を当てようとしてヘルメットに阻まれ、途端に湧き上がった後悔に駆られて唇をきつく噛み締める。
――なんて軽率な! わたしが死なせたも同然だ!
引き返すチャンスならあった。訓練生のやるべきことなどとっくにやり終えていたはずだ。和泉の優秀さと実直さを認めるなら尚更、権限を振りかざしてでも彼を危険から遠ざけなければいけなかった。それができたのはわたしだけだったのに!
――すまない、和泉……!
自分への怒りが燃料になった。
いつまでもこうしてはいられない。一刻も早く異変を収束させなければ、和泉にも、和泉が見たという少女にも申し訳が立たない。
ECHOPADを取り出してみると、位置情報の表示が復活していた。スピーカーが壊れたのか通信機能は沈黙したままだが、電波を拾えているということは、今いるのはそう深いところではない。洞窟を崩れさせた何者かは下から移動してきたようだから、巻き込まれたときに周囲の岩盤ごと引っ張り上げられたのかもしれない。
内側から掘り返せそうな柔らかい場所は、
あった。
岩と岩に挟まれた土をどけてみると、唯ならばぎりぎり通り抜けられそうな亀裂が生じていた。
強引に体を突っ込み、外界へと転がり出る。
相変わらずの真昼の夕焼け。
しかし、大地が歪んでいた。唯が転がり出たそこは、巨大なクレーターの外縁部であった。地の底から這いだしてきた何者かの大きさのぶん地盤が陥没しているのだ。
目線を動かした先に、そいつがいた。
竜だった。
むかし恐竜図鑑でこんな奴見たな――唯はそんなことをまず思い、すぐに打ち消す。
長い首を伸ばし、四足を地につけた体型は確かに竜脚目の恐竜に似る。だが、
――あいつが異変の元凶か!
竜は麓に向かって移動しているようだった。麓には町がある。とうに避難勧告は出ているはずだが、すべての住民が怪獣の足から逃げ切れるとも思えない。
戦闘機が一機、高空から竜にアプローチをかけるのが見えた。主翼下に懸架していた短射程ミサイル四発を順番に解き放つ。ミサイルは赤外線ホーミングで竜めがけて殺到、二発が首に、一発が前肢に、一発が胴に命中した。いくつもの炎の花が咲く。
ばらばらに吹き飛んでもおかしくない衝撃だったはずだ。しかし、黒煙を割って現れた竜はまったくの無傷。何事もなかったかのように平然と行進を再開する。
「和泉の言った通りになったか……」
竜の動きは緩慢なように見えるが、なにしろ歩幅が広い。十数分もあれば町に進入するだろう。その先を想像して唯の背筋は凍った。立川を経由し、吉祥寺を横断、新宿のビル群を倒壊させながら移動し、市ヶ谷を通過……皇居へ至る。
このまま竜の進撃を許せば、東京にレキウム汚染が蔓延することになる。そうなれば何百万人もの人間が死ぬのだ。
「くそっ! 化物め!」
唯は銃を抜き、斜面を滑り降りて竜を追った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます