Chapter 05. 真昼の夕暮れ
何の抵抗もなかった。女の子の発した言葉は、ぞっとするほど自然に和泉の胃の腑に落ちてきた。
黄昏の訪れ――その意味は、怪獣の出現を知らせる警鐘以外ではあり得ない。
「やっぱりそうなんだな。あれが、また……」
和泉の口元が不意に緩み、多分に諦めの混じった、死刑を言い渡された被告人そのものの笑みが浮かぶ。
推測が当たっていると聞かされて、これっぽっちも嬉しくないのは初めてかもしれなかった。最悪の想像が現実のものになろうとしている。「七・一七」のときと同じ怪獣が出てくるなら、取れる手段はいくつもないのだ。
すぐにでも引き返さなければならない。
SSS-Uの二人には短髪がとっくに報告してくれているだろうが、絶望的に証拠が足りない。女の子が幽霊だろうと異星人だろうと、この際構っている場合ではない。
一緒に来てくれ、と言おうとした。
言いかけたその口が、中途半端に開かれたまま止まった。
雪原が琥珀色に染まっていた。
夕暮れの色をした光が地面から滲み出てくる様がはっきりと見えた。汚染末期における侵食拡大現象。
呑まれたが最後、命はない。
和泉の心が呼吸することをやめ、体が機械のように動いた。ほとんど反射と言ってもよい速さで右手が女の子を引き寄せようとし、左手が腰の後ろに括りつけてある防護マスクへと伸びて、
ぎくりと身を固くした。
違和感。右手が小さな掌に重なっている。氷点下の気温の中、そこだけが人肌の温もりに包まれている感覚はある。
が、まるで霞でも掴んでいるかのように、何の感触も伝わってはこなかった。
そして、空を切ったのは右手だけではなかった。
防護マスクが消えている。
バックパックに入れたまま忘れてきたのではない。万一の事態に備えて計測器と防護マスクは必ず身につけておく規則だったし、出発前に所持していることを確認しさえした。ここに来るまでに落としてしまったのだ。枝に引っかかったか岩にでも擦れたか、括り紐が切れる原因などいくらでも思いつく。
しかし、後悔なら地獄でするべきだ。時間が惜しい。即座に頭を切り替え、改めて女の子に目を留めた、その視線が釘付けになった。
「大丈夫」
女の子が静かに微笑んでいた。
「この程度の瘴気に蝕まれる私ではないわ」
睫毛を伏せたその面持ちは柔らかく、しかしどこか物憂げにも見える。
せいぜい十四か十五ほどであろう年の頃に似合わぬ、ひどく大人びた表情。それがどうしてか胸を衝いた。
――何で、そんな悲しそうな顔をする?
――知りたい。
――いや、俺は知っている……?
うまく言葉にできなかった。不明瞭なことがあまりに多すぎる。和泉の懊悩を見抜いているのかいないのか、女の子は調子の変わらぬ口ぶりで話し続ける。
「あなたも死なない。あなたには――」
「和泉訓練生っ!」
唐突に、鋭い声が割り込んだ。
和泉は背後を振り返る。林から飛び出してきた人物の顔はフルフェイスヘルメットに覆われていて判らなかったが、声には聞き覚えがあった。
「桐島隊員! どうしてここへ?」
やはり、動揺が尾を引いていたと思われる。これほど間の抜けた質問もそうはない。
「君の靴跡を辿ってきたんだ。まったく、君は普段からこうなのか? 勝手な行動は慎んでもらいたい」
唯は一気にまくしたて、和泉の手に黒い物体を押し付けた。防護マスクだった。いかにも雪を払ったあとといった具合の水滴がついている。
和泉は礼を述べようとし、唯の苛立ちの気配を察してやめた。防護マスクを装着して頭を下げると、唯もそれ以上は責めなかった。
深々と溜息をついて一言、
「――で、子供を見たというのは確かか?」
「――は?」
ついまじまじと唯の目を覗き込むが、バイザー越しの眼光に冗談めいた色は微塵もない。
「確かも何も、ここに……」
いるじゃないですか――和泉はそう続けようとして、ある可能性に考え至って口をつぐんだ。
桐島隊員には、女の子が見えていない。
女の子が生身の人間でないとすれば、予想すべきではあったのかもしれない。もちろん好ましいことではなかった。異変の正体を語ってもらう計画はこれで水泡に帰した。仮にこの場で女の子の実在を主張したところで、事態の急変を前に錯乱したと思われるのがオチだろう。
「事実を報告してくれ。捜索するにせよ撤収するにせよ、この状況では一つの認識の誤りが命取りになる」
和泉は唇を引き結ぶ。閉じた口の中で言葉を揉む。背中に注がれる女の子の凝視を感じる。
口を開く。
「間違いありません」
覚悟が決まる。
「女の子です。白いワンピースを着ていました。この山の異変について重要な情報を握っているようでした」
「重要な情報?」
「もうすぐ怪獣が現れる、と」
洗いざらいぶちまけた。心臓が早鐘を打つ。勝算の薄い賭けでしかなかったが、どのみちこれ以外の選択肢は採り得ない。
あの女の子が何者なのか、どうして自分を呼んだのか、彼女を見ると胸が締めつけられるような感傷を覚えるのは何故なのか――知りたいことが山ほどあるのだ。そのためにもここでは引けない。
女の子の言動はいちいち迂遠ではあったが、少なくともデタラメを述べているようには思えなかった。その真摯さに応えられないのなら、謎はこの先もずっと謎のままであるに決まっていた。
見つめ合ったまま一秒が経ち、二秒が過ぎた。
唯が目を逸らし、ECHOPADに連絡を吹き込んだ。
「こちら桐島。和泉訓練生と合流しました。わたしはこのまま捜索を続けますので、副長は訓練生たちを管理区域外まで誘導して下さい。それと麓の自治体に避難勧告を。――いえ、和泉訓練生はわたしに同行させます。この状況で単独行動させる方が危険でしょう」
通信を切り、憮然としたような口調で、
「……これでいいんだな?」
まだ半信半疑といった様子ではある。が、充分だった。こいつの言うことなら試してみる価値はある、くらいには信用してくれていることが、今はひたすらにありがたい。
――これでいいんだろ?
和泉は女の子に視線を投げた。女の子は首肯し、また口元を綻ばせた。
◇ ◇ ◇
導かれる果てに辿り着いたそこは、地下へと続く長い長い洞窟だった。
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