Chapter 04. まぼろしの少女

「ひとまず、SSS-Uの人たちに報告してくるよ」


 和泉はそう告げて腰を上げる。短髪が慌てたように、


「いま話すの? 取り合ってもらえる?」


 和泉は肩をすくめる。


「どうかな」


 なにしろ事が事だ。いち訓練生の推測にまともに耳を傾けてくれるかどうかは、正直微妙なところではある。


 しかし、望みがないわけでもない。


 M7で挨拶を交わした女性隊員――桐島唯。彼女は自分と同様、得体の知れない危機感を覚えているふしがあった。信じてくれるかはともかく、最低でも話は聞いてもらえるだろう。


「言うだけ言ってみるさ。後手に回ったら取り返しがつかないんだ」


 どのみち本当に怪獣が現れれば、もはや自分たちの手に負えるスケールの問題ではなくなるのだ。収拾にあたるのがSSS-Uである以上、早いうちから情報を共有しておいて困ることはあるまい。


 唯を捜そうと視線を巡らせた、まさにその瞬間のことだった。


 ぎくり、とひときわ高く心臓が跳ねた。急速に意識が研ぎ澄まされ、踏み出そうとしていた足が唐突に止まった。


 錯覚ではない。視界の隅を何かがよぎった。


 ホルスターのロックを解除し、そっと銃把に手をかける。


 振り返る。


 そして、それを見た。



 ――女の、子?



 眼前には相も変わらず、雪化粧をまとった針葉樹林が広がっている。どの樹も水分とともに吸い上げた虚素にやられて墨を塗ったように黒ずんでいるが、汚染の度合いとしてはまだ軽微なのか、樹皮を覆った苔がしぶとく生き残っている。


 そのうちの一本、和泉らの位置からはやや離れたところの、やはり苔むした幹の陰に、果たしていつからそこにいたのか、女の子が寄り添うようにして佇んでいる。


 白いワンピースを着ている。


 じっとこちらを見つめている。


 まるで状況を呑み込めず、和泉は呆けたようにその場に立ち尽くした。たっぷり五秒はそうしていたように思う。いぶかしんだ短髪が和泉の視線を辿ろうとしたのと、女の子が身を翻したのが同時だった。


 女の子の背中が遠ざかっていくのを、為すすべもなく見送った。


 短髪の気遣わしげな声に、現実へと引き戻された。


「――ねえ、ちょっと和泉くん、聞いてる?」


 曖昧あいまいな返事しかできない。


「どうしたのいきなり。ぼうっとしちゃって、まさか具合でも悪い?」


「いや……それより、見たか?」


 短髪が眉をひそめる。顔に「見たって何を?」と書いてある。


 そこでようやく、和泉の脳ミソが息を吹き返した。


「大変だ」


 体じゅうから血の気が引いた。


「ごめん。やらなきゃならないことができた。さっきの話、俺の代わりに報告しといてくれ」


 和泉はそう言い置いて、木立ちの合間に身を躍らせた。とっくに女の子は見えなくなっているが、走り去った方向は覚えている。


「ちょっと! どこ行くつもり!?」


 短髪の焦った声が後ろから追い縋ってくるが、生憎あいにくと悠長に説明している暇はない。負けじと叫び返す。


「むこうに子供がいたんだ! 保護しないと!」


 何が何だかわからないといった面持ちの友人たちをその場に残し、和泉は全速力で冬の山道を駆け上ってゆく。


 相手は子供の足、しかも決して動きやすい恰好ではなかった。そんなに離されてはいないだろう。追いつけるはずだ。


 こころなしか、頬を叩く冷気が徐々に強まってきている。防寒着の入ったバックパックを置いてきてしまったのは失敗だったかもしれない。が、物を考えるにはちょうどよかった。


 解せないことがいくつもある。


 首から下を一切露出していない自分ですら寒さを覚える気温の中、あの女の子はなぜ平気でノースリーブの服を着ていられるのか。


 日に日に苛烈になりゆくECHOの警備網が一介の少女にかいくぐられ、管理区域の只中まで進入を許したのはなぜか。


 そして、何よりの疑問。女の子を見た瞬間、どこか郷愁めいた衝動が胸裏を灼いたのはなぜなのか。


 左右に目を配る。


 いた。


 右斜め前、三〇メートルばかり先の木の向こうに、ワンピースの白い生地が引っ込んだのが辛うじて見えた。


「待って! ここは危険――」


 ところが、和泉がそこに回り込んだとき、女の子の姿はすでになかった。にわかには信じられず息が震えた。一秒たりとも目は逸らさなかったのだ。幹に遮られていたとはいえ、おかしな動きがあれば間違いなくわかったはずだ。


 背筋をうそ寒い感触が這い上る。


 夢や幻を見ていたのではない、と思う。この程度で参るほどやわではないつもりだったし、虚素に神経をやられたのであればそれこそ幻覚を見るどころでは済むまい。女の子が確かに一人いて、今も林のどこかに隠れているのだという認識に関して、和泉には絶対の自信がある。


 だが、女の子が本当に保護しなければならない対象なのかという点においては、その自信は揺らぎかけていた。


 人間は忽然と消えたりなどしない。だとすれば、あるいは――


 あるいは、冬山をさまよう幽霊の類かもしれない。


 和泉は胸ポケットをまさぐり、さほど期待せずに通信機のスイッチを入れた。おそれは的中した。ノイズまみれの音声が途切れ途切れに聞こえるばかりで、意味のある言葉は到底拾えそうにない。侵食が進んで磁場が攪乱されているためだ。


 通信衛星を介する正隊員のECHOPADは生きているだろうが、ないものをねだっても仕方がない。


 自分がやるしかない。その状況に変わりはなかった。


 あたりを見回す。


 ゆるやかな斜面に立つ樹の、和泉が手を伸ばしてようやく指先が触れるか触れないかという高さから、大きな枝が伸びている。ほとんど真横に張り出したその枝の上に、女の子は腰かけていた。


 こちらが気づいたと見るや、女の子はふわりと浮かぶように飛び降り、まったく体重を感じさせずに着地した。そのままきびすを返して走ってゆく。


 追跡は困難をきわめた。女の子はこちらの目の届く場所に現れては、近づくと幻のように消えてしまう。行けども行けども景色は変わり映えのしないスギ林で、しかし増してゆく雪の深みに一歩ごとに体力を奪われ、それでも和泉は山の奥へ奥へと踏み入ってゆく。


 岩まじりの尾根道を通過した。


 涸れた小川らしき溝をひと跳びで渡った。


 へし折れて横倒しになった太い幹を乗り越えた。


 女の子についていくうち、ひとつはっきりしたことがある。和泉は何度となく女の子を見失ったが、彼女はそのたびに姿を現して居場所を教えてくれた。逃げようと思えばいくらでもできたはずだ。そうしなかったということは、つまり、彼女には逃げ切る気がないのだ。


 ――俺を連れて行こうとしている。


 そのことはもはや疑いようがなかった。どこへ誘われているのかは想像がつかず、深追いは危険かもしれなかったが、不思議とはらは決まっていた。あの女の子は異変について何か知っているのかもしれない。ここまで来たら後には引けない。


 視界が開けた。


 唐突に林が途切れ、雪原が広がっていた。


 女の子は、今度は消えるつもりはないようだった。和泉は雪原の真ん中に進み出ると、小さな背中から三歩ほどの距離を保って立ち止まった。


「君、どうやってここまで来れたんだ?」


 できるだけ穏やかに訊くよう努めながらも、和泉は警戒を解かずに相手を観察した。むき出しの肩は寒さに震えてもいなければ、息切れを起こして上下してもいない。あり得ないことだ。


 もとより明快に答えてもらえるとは思っていなかったが、やはり女の子は黙りこくったままだった。和泉はさらに尋ねる。


「ここに何かあるのか?」


 女の子が初めて反応した。


 一切の音を立てずにこちらを振り返った女の子の、冴え冴えとした双眸と視線が交錯した瞬間、和泉の頭を鋭い衝撃が貫いた。


 既視感、というのが最も近い。最初に女の子を発見したときと同じ感覚。遠い記憶の彼方でかすかに引っかかるものがあったような気もするが、それが何なのかを探り当てることがどうしてもできない。


 ――どこかで、会ったことがある……?


 わずかに残った冷静な部分が、そんなわけがない、と抵抗した。


 淡い輝きを帯びたような白い肌、不規則に揺らめいて見える長い鳶色とびいろの髪――知り合いかどうか以前に、眼前の少女は、やはり浮世と隔絶した存在であるように思えた。


「君は、誰なんだ? どうして俺を……」


「――急いで」


 結局、女の子の口から疑問が晴らされることはなかった。


 彼女は透き通った音色の声で、凛然と宣告した。


「黄昏の訪れは、近い」

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