Chapter 03. 死せる森の中で

 猛獣に出くわすことも、怪植物に行く手を阻まれることもなかった。


 日が中天を過ぎる頃、一行は観測点M10での作業を済ませた。この後は小休止をはさみ、夜が来るまでに七合目の地点まで回り終える予定だ。


 調査した観測点は現時点で四つ。どこも似たような状態であった。ここに至って土壌の変質を疑う声が同期生の中からも聞こえはじめたので、和泉は彼らと情報を交換しつつ、一度考えをまとめることにした。


 人垣に見守られながら、和泉は採取した土に計測器を近づける。侵食係数三二・四ノルダル。どよめきが起こった。


「なんだこりゃ! こんな高い数値初めて見るぞ」


「草がしおれるわけだな。このままじゃ残った樹も全滅だ」


「そんなことより、まず私たちは大丈夫なの? 防護マスクをつけた方がいいんじゃない?」


 皆が動揺するのも無理はない。明らかに異常な測定値が出ていた。もしこれが大気中から検出された数値であったなら、防護マスクなしでの活動はたしかに自殺行為と言えるだろう。


「大気中の反応はいくつだった?」


「二・六だけど……」


「それなら二、三日過ごすくらいは問題ないはずだ。だいいち、必要ならつけろって指示が出てるさ」


 そもそも侵食症において最も注意すべきは呼吸ではなく、汚染物質が肌や衣服に付着することの方である。今回の場合は地面だが、和泉らが着込んでいる隊服は耐NBCコーティングされた化学繊維で作られているし、グローブやブーツの合成皮革にも同様の処理が施されている。長期にわたって山中さんちゅうに留まりさえしなければ人体への影響は抑えられるはずで、現にSSS-Uトライエス・ユニットの二人が何も言ってこない以上まだ心配すべき水準ではないのだ、と事も無げに和泉は語る。


 半分は周囲の不安をかき消すためだが、もう半分は自分に落ち着けと言い聞かせるためだ。この場の誰よりも悪い想定をしているという感覚があった――おそらくは周防副長や桐島隊員よりも。


 踏み固めた雪の上にブルーシートを敷いて座り、慎重な手つきでビンを傾ける。バックパックからルーペを取り出し、シートにこぼれた土を覗き込む。


「おい、眞……よせって」


 汚染の塊を外に出したことで非難めいた声があがるが、足元すべてに侵食が広がっているのでは今更気を付けたところで仕方がないし、直接触りでもしない限りはすぐにどうなるという話でもない。和泉はダニの死骸と枯れ草の切れ端が混じっているのを発見するや、おもむろに顔を上げて、


「――誰か、森に入ってから生き物を見たか? 直接じゃなくても、足跡とか糞とか」


 全員、すぐには答えを返すことができなかった。誰もが言葉に詰まった一瞬、葉擦れの音すら聞こえないほどの静寂が訪れ、ただでさえ低い気温がさらに下がったように感じられた。


「……いや、言われてみりゃあ、見てねえが……」


 一人が恐る恐るといった体で声をあげた。沈黙に耐えかねてのことであるのは誰の耳にも明らかだったが、それを指摘する余裕のある者はいなかった。


 ――他は? 和泉が視線で促すと、思案げに腕組みしていた髭面の訓練生がぴくりと反応した。ゆっくりと噛み砕くような調子で、


「……まず、気配がしないんだよな。冬だからヘビやカエルなんかを見ないのは分かるとしても、鳥の鳴き声ひとつ聞こえてこないってのは流石におかしいだろ? で、いろいろ探してみたんだが――」


 髭面はそこで言葉を切り、和泉に向かって標本袋を投げてよこした。入っていたのはスギの球果で、落ちていたものを拾ったのか湿り気のある土で汚れている。


「ついばんだような痕があるよな? それは雪の下から掘り出したもんだ。他にも……こっちはたぶん鹿の仕業だと思うんだが、幹をかじった痕とか、枝が踏み折られてるところが何箇所かあった」


「雪に足跡は?」


「なかった。というか、どの傷も昨日今日でついた感じじゃなかったしな。ありゃ少なくともひと月は経ってる」


 奥多摩で雪が積もり始めたのは先月の初旬だ。髭面の話は、その時点で既に土壌汚染の影響が地上に及んでいたことを意味する。


「私たちも、静かすぎるって気はしてた」


 代わって口を開いたのは眼鏡をかけた短髪の女生徒。彼女を中心とするグループはM9地点の調査途中から視点を変えたらしく、樹のうろを覗き込んだり石をひっくり返したりしている様子を和泉も度々目にしていた。


「最初は餌が減ってるのかもって思った。でも、そんな単純な話じゃなさそう。虫でもいないか探してみたんだけど――ああ、思い出しただけで気味が悪い」


 短髪の目にいかなる感情が表れているかは偏光レンズに遮られて読めないが、その顔は心なしか青い。彼女と組んでいた数名も表情を硬く強張らせている。不穏な想像が現実味を増していくのを自覚しつつ、和泉は尋ねた。


「何かいたのか?」


「クモとかダンゴムシ、クワガタやらカミキリムシやらの幼虫に……まあ、いたことはいたよ。ただ……」


「ただ?」


「みんな死んでたの。異様なのは、どの死骸もやけにきれいで、まるでついさっき死んだみたいだったけど……だけど、死んだのはきっと何日も前。そのくらい干からびてて……」


 ――やっぱりか。


「ありがとう。大体わかった」


 和泉はうつむき、ぶちまけた土をかき集めてビンに詰め直してゆく。想像はもう確信に変わっていた。


「微生物が全滅してるんだ。だから死骸や落ち葉が分解されないし、養分が足りなくなって植物も弱る。そうしてる間にもどんどん発生する虚素レキウムに蝕まれていくから、鳥や獣が住めない環境になるまでには二ヶ月とかからない。雪が積もってきた頃には、山はとっくにもぬけの殻だったんだと思う」


 これとよく似た状態を目にしたことが過去に一度だけある。じわりと嫌な汗が滲み、鼓動が乱れるのを感じた。きつく瞑目し、あふれ返りそうになる灼熱の記憶を抑え込もうとしたが、努力は実を結ばなかった。


 あのときもそうだった。


 花がしおれ、木々の葉が色を失い、動物たちは何処かへと去り、気づけば村を囲む山々は死に絶えていた。そして最後には、すべてが炎に呑まれて消えていったのだ。


 再び髭面の声、


「眞、どう見る? おまえの考えを聞かせてくれ。原因は何で、ここでいったい何が起ころうとしてるんだ?」


 言うべきか否か。和泉は長くは迷わなかった。


 呼吸を整え、顔を上げる。


「――『七・一七』」


 その名前には、時間を止める魔力があった。


「もし今日起これば、『一・一六』だ」


 誰も二の句を継げない。愕然とした表情のまま凍りついている。尋ねた髭面とて、よもや和泉がそこまでの事態を思い描いているとは予想だにしていなかったに違いない。


 全員の頭の中で、漠然としていた不安がはっきりとした恐怖に形を変えようとしていた。

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