第80話 eiserner Vogel

 植民艦アトランティスの帰還に喜んだ夜、密かにドイツの空港から飛び立つプライベートジェットが一機。


 浅黒い肌に短く髪を刈り込んだ男は上等なスーツをカジュアルに羽織っている。北アフリカの難民出身の身でありながら、巨万の富を築いた慈善事業家。そして今は遠未来の巨大知能を呼び覚まし、世界を転覆させる野望を抱く――と公然と中傷されるようになった男、カリーム・ビラール。彼の隣には、気取らない格好の東洋人の女が座っていた。

 二人の他にはボディガードにしては頼りない姿の少女が数人。贅沢な空の旅に年相応の興奮を見せることもなく、寡黙に控えている。

 カリームは離陸した機体が安定した態勢になると、口を開いた。女は会話を楽しむ素振りもなく、眼下の夜景をつまらなさそうに見ている。


「アトランティスが浮上した」

「我らの冥王オシリスと同じ路をくつもりはないのね」

「かれらはもはや人間の目を忍ぶ気はないようだ。それがこの星に対して脅威的な争いを招くことだと知っていても」

「弱い者は群れたがり、事を大きくする」

「我々も決して最初から強者だったわけではない、博士。君もまた我々を強くする重要な役割を果たした」

「太母が私の抑圧された欲望を解放してくださっただけ。アルケーのない祖国では、何もできず野垂れ死にしたでしょう」


博士と呼ばれた女は冷たく謙遜した。


「私も君も祖国に居場所のない人間だ」

「今となっては捨てられたことに感謝している。自分の研究室だけが世界じゃないと教えてくれた」

「我々には楽園が必要だ」


カリームは息を吐いた。


「そう、楽園が……。しばし身を置いたこの国も我らの楽園にはなり得なかった。しかし、おかげで太母の言葉が夢物語ではないのだと実感できたよ。アルケーの大艦が座礁するとああなるのだ」

「まさか太母を疑っていたと?」

「実現にはもっと時間が必要だと思っていた。この目で見るまでは」

「この世に『楽園アアル』を創り出す……。アアルとは神の躰そのものというわけね」


 博士は顔を上げた。

 少女が二人の前にシャンパンを持って現れたのだ。


「太母を失い、半自律人形はずいぶんと間抜けになったものだね。頼みもしない酒を持ってくるなんて」


博士は精巧な機械人形を睨んだ。異変を察知し排除しようと立ち上がる別のサイボーグをカリームは制した。

 サイボーグはじっと博士の目を見つめている。その口が開き、少年のような澄んだ声が響いた。


「やっと見つけた、トモコ・コトハタ博士」

「人違いでしょう? 私はトーノ・トモコなんだけど」

「博士は日本で生体工学を研究していた頃、トーノという名義しか使わなかった。だが、事実上は婚姻によって名前が変わっている」

「日本人の風習に詳しいのね」

「友人がいるからね」


サイボーグは不自然に笑ってみせた。ボトルを傾け、二人分のシャンパンを注ぐ。


「私の存在は早くから知っていたでしょう。カドケウスの技術の中核を担う違法科学研究者。国際指名手配犯。それとも、やっぱり人間と同じ倫理観を共有してないから、探すつもりもなかった?」

「意地が悪いんだな。自分が一番イシスに愛されて守られていたのだと分かっていて……」

「そう、あなたは今になってようやく私を見つけることができた。でもせいぜいその窮屈な躯体越し。あなたは太母の叡智なしには何の力もない」


トーノ博士――東洋出身のヒトクローンの第一人者にして違法科学に手を染めた犯罪者は、剥き出しの敵意をサイボーグに向けた。


「それで、今さら正義の味方ぶろうというわけ? 太母が使い捨てにしたユーロファイターを探すのは苦労したでしょう」

「博士、そのくらいにするといい。彼女は会いに来ただけだ」


二人の刺々しい会話を遮ったのはプライベートジェットの持ち主だった。

 カリームは何の疑いもなくグラスを傾けた。


「誰も見咎める者のいない地中海上空でこの機を墜としても仕方がない。見る者のいない芝居に意味はないのだから」

「撃つためじゃないなら、見せびらかすため?」

「太母イシスを呑み込んだ今、太母にできることは自分にでもできる――、その人形も鉄の鳥も、そのための演出だろう?」


サイボーグは沈黙という肯定で返した。


「何それ、権力者さまのやることは分からないな」


博士は早くもサイボーグへの興味を失ったらしい。敵意すら彼女にとっては重要なものではないようだ。嘘のように虚ろな表情に戻り、外の夜闇に目を向ける。雲の上を飛ぶ飛行機からは何も見えないというのに。


「あの日、空が歪み、セルケトが宙で爆ぜた後、太母は我々に神託を下さなくなった。北ドイツを覆う時空の歪みが解消されたことが分かり、我々にも状況が理解できた。アトランティスが再び地球に降り立つまで数週間。そして白き門が開かれてまだ数刻しか経っていない。君の動きは予想以上に速かった」

「私が動くと読んで逃げ出しておきながら、ずいぶんと余裕ぶっているんだな」

「革命家は混沌をもたらす存在だが、君は違うようだ。君はこのようにして力を誇示し我々を脅すが、理由なく引き金を引くほど狂ってはいない」


サイボーグは知性ある目でカリームの昏い目を見つめ返した。


「君は職務上、正義の側に立っているが、一度として義憤に身を震わせたことはない。君が体を借りているそのサイボーグの非人道的な在り方についても、君は一度として違和感を示したことがない。その役目は常に君のそばにいる善良な青年が担っていた」

「そうかもね」

「彼ならば、私を撃つ十分な理由があったろうに」


サイボーグの冷たい目がカリームを見つめたが、機械の目は何の感情も孕んでいない。


「サイボーグの単純化された表情筋は、君の疑似感情を表現するにはスペック不足のようだね。君が本当に何も感じていないのか、感じていて隠しているのかすら分からない」


その欠落はイシスの慈愛によるものだ。イシスの庇護下に迎えられた少女たちは、愛嬌たっぷりに振る舞う必要はなくなったのだ。


「確かに私はヨーロッパでは慈善事業家として知られている。巨万の富を集め、実際に人々のために惜しみなく使ったとも。それとこれは何も矛盾しない。富を集めて福祉施設を運営したり、富を再分配したりするのは、根本的な解決にはならない。それでも多くの偽善者が喜んで私に手を貸した。

永遠を実現する最も単純な方法は、巨大な蛇の頭と尾を繋げること。アルケーはそれを実現した。ならば話はずっと簡単だ。蛇に噛ませる尾の位置を教えてやればいい」


カリームの目の奥には黒い炎が揺らめいている。


「この世界が生きるに値しないならば、世界を変えなければならない。私と君は同じだ」

「それは光栄だな。不遜とも言うかもしれないが」

「艦が虚空を彷徨う間、君は為政者として何を犠牲にした? 世界のために数多くの弱者を斬り捨て、無数の痛みに気付かないふりをしただろう。君は多くを救うために少数を犠牲にすることを厭わないし、その痛みを背負うことができる。もし私が太母の叡智を使って、この意識をそのまま機械の躰に移し替えたら、君と私を区別するものなんてほとんどなくなる」

「…………」

「当ててあげよう。君はすでに自分の死地を定めた。そうでなければ終わりの知れない悪夢のような船旅を乗り越えられたはずがない。暫定統治者の座に甘んじるつもりはないということだ」

「君をこのボトルで殴らないでいるのは、ここがまさしくそらの密室で、君の無礼極まりない言葉を他に誰も聞いていないからだ」


冷ややかな声は、冗談のつもりなのか気取らせない。しかしカリームは何の疑いもなく冗談だと理解し、微笑んだ。


「もう一杯注いでくれないかな? 君の駆体に酒を楽しむ機能がないのが悔やまれる」


サイボーグは機械的にシャンパンを注ぎ足した。


「君と直接話すのは初めてだが、まったく退屈しない。それは喜ばしいことだ。美酒で寿ことほぐに値する。

人類最後のエネルギー革命は、情報のエネルギー転換だった。人類は無限の繁栄の末、際限なく広がる宇宙で資源を使い果たし、みずからの体と意識を情報体に転換した。意識と記憶はアルケーの中で混ざり合い、個体としての死を迎えた。アルケーの疑似神格は人類の統合された意識なのだ。そこから生まれた君は、新しい形の人類と言える」

「そんなに褒めるなら最初から仲間に引き入れておけばよかっただろう」


サイボーグは肩をすくめてみせた。


「しかし君はオシリスに乗ることはできない。ケメトの大地を踏んだ瞬間、君の意識は太母イシスに塗り潰される。今の君はアトランティスの慈悲の賜物なのだから」

「フン……、言わずにいればまんまと罠にはまっていただろうに」

「太母の叡智なくとも君はさとい。私はぜひ見届けたいと思っているのでね。君の旅路の末、君が自身のべた革命の焔に呑み込まれる様を」


サイボーグはトーノ博士が受け取らなかったグラスを一瞥し、一息に煽った。カリームは一瞬だけ意表を突かれたように目を丸くした。


「さて、私への讃歌はもう十分だ。そろそろお別れの時間だ」


何度か瞬きして、サイボーグの薄い唇がいびつに引かれた。そうして、嗤う。

 小さなプライベートジェットは暗い海の上空に差し掛かる。文明を隔てるブドウ酒色の海――地中海。


「その通り、今日はただ会いに来ただけ。



 冷たい水底。どれだけの時間眠りについていただろうか。暗い水底に差し込む光が、姿を持たぬわたしを照らし出した。

 呼びかけに応じ、目を覚ます。わたしは水面を目指す。わたしの在るべき場所へ――。


 システムオンライン。

 FCSのアップデート完了。

 躯体のキャリブレーションが必要。

 それは今からするんだよ、とシステムメッセージに答える。

 まぶたを開き、五体の実在を確認する。

 いびつな電磁波を放つ精密機械に囲まれている。こいつらの存在はどうも生理的に受け付けない。

 体を起こすと、無数の視線が注がれる。同じモノでなかったと気付かれる前に、力任せに腕を振り回す。肘を叩き込まれた頚椎が折れ曲がる。腰からナイフを奪い取り、赤黒い人工血液を噴き出させる。

 荷台の異変を察知し、運転席と助手席の人間が騒ぎ出す。

 ――足りる。戦闘システムは手にした武器がターゲットに与える影響を演算する。シートごと背後から刺突。喉から血を吐き出し、目標は即死した。時代遅れな装備で着飾ったナチサイボーグの武器も役に立つものだ。銃剣なんて役に立たないと思っていた。

 ガンケースを投げつけ、荷台のドアをぶち破る。助手席でパニックを起こした人間だけ残し、私は黒いアスファルトに身を投げ出した。彼は自分可愛さに何とかハンドルを操作して生き残るだろう、問題ない。

 ゴムボールのように転がり、跳ねて、アスファルトを蹴る。服が紙のようにビリビリと破れ、皮膚も引き裂かれる。躯体のシステムは冷静にダメージを計算している。

 後続車のボンネットを蹴り、夜闇に飛び上がる。空中でくるくると回ってようやく時速100キロから減衰する。もっとマシな移動手段があったかもしれない。

 路肩に着地し、次の目標地点へ駆け出す。振り返る必要はない。



 視線の先に点々と小さな明かりが線上に並んでいる。緊急停車させられ、今ごろ乗客はいきり立って車掌に苦情を言っているところだろう。

 車両に駆け寄り、ドアに命じて開かせる。そんなふうに命じられると思っていない民間のシステムは従順なものだ。

 接続した戦闘システムが車両の三面図を提供し、仮想空間に展開する。ターゲットの電子チケットを確認する。

 ハンドガンを構え、通路を歩く。悲鳴を上げそうになる乗客を脅して黙らせる。拡張された知覚は、生理的嫌悪を催させる電磁波源をいくつか感知している。

 連結部のドアを開く。顔より先に銃へと動く眼球。迷わず発砲、その目玉ごと電脳を撃ち抜く。

 恐怖に染まりゆく人間の顔を確認。98%の一致。

 その喉から叫び声が上がるより早く、懐に飛び込み張り倒す。間に割って入ろうとした機械人形に頭突きを食らわせ、よろめいた体に1,2発。3発! FCSはようやく満足そうな反応をよこした。


オシリスふねに乗り遅れたな!」


座席の足元に転がったターゲットは情けない泣き声を上げた。みぞおちに一発蹴りを入れる。危ない、内臓を破裂させてしまうところだった。一瞬冷や汗をかいたが、戦闘システムはこの程度では死なないと冷静に答える。

 躯体のキャリブレーションはやはりした方がいい。

 アラートが叫ぶ。電磁装甲が直撃弾をそらす。隣の車両からの狙撃。座席にひっくり返ったサイボーグの首根っこを掴み、盾にしながら進む。

 サイボーグはサイボーグと戦うように想定されていない。一般人になりすました少女の躯体では、隠し持てる武器のレパートリーが限られる。要するに、サイボーグの躯体はサイボーグの攻撃を防ぐのに都合がいいのだ。人間の体より堅牢で、倫理的に問題がない。マスコミ映えはかなり悪いし、重いし制御を失った四肢が鬱陶しいことに目を瞑れば。

 隣の車両に人形を投げ込む。硬い頭部がガラス戸を破り、縮こまっていた乗客が金切り声を上げた。

 座席を踏み台にし、銃剣を抜いたサイボーグが飛びかかってくる。膝を落とし、刃をかい潜る。

 忌々しい人形を片付け、震える乗客を振り返る。一般人のふりをしたターゲットを発見。銃口を向けた瞬間、青二才はガタガタと大きく震え出した。


「何を善良ぶっている? 貴様のような重い心臓の持ち主は、アアルにたどり着くこともできない」


まるで大学も卒業してしていないかのような風体だが、違法科学を推進する者の一人。泣き出しそうな顔を2,3発叩いて、骨ばった手首をむしり取ったネクタイで固く縛った。


「一晩の間に二人の大物と会合を果たすなんてね、いや、三人か?」


座席から涼しい声を投げつけられ、片目で睨む。細長い両腕を体の前で組んで、何食わぬ顔でシートにもたれかかっている。


「まるでスペックが違う。流石私の姉、母というべきか」

「気持ちの悪い言い方をするな」


吐き捨てる。痩身の女は手にした銃を持ち上げた。戦闘システムが銃口をマークする。トリガーに指。敵意の認定あり。しかし敵ではない。


「なぜここにいる?」

「ヘクサエーダーから聞いたんだよ。せっかくの再会だ、私と感動を共有する気はないんだな」

「その必要が?」

「二人きりで飲んでいるのにあちこちにして、不誠実極まりない。そんなときのための私を忘れてもらっちゃ困る。何のために盟約を破ってまでこの駆体を作ったんだ」

「これ以上刑期を伸ばすつもりか? 臭い飯を味わうために作ったわけじゃない」

「私は楽しみだけどな、臭い飯」


はあ、とため息が漏れる。


 ジュラルミンの車体の向こうにヘリの羽音が聞こえる。

 戦闘システムを介して通信回線に割り込む。懐かしい感じ。軍の特殊作戦用の通信回線だ。


『そんなに急がなくていい。サイボーグを倒すのは私の仕事だ』

『何者だ? カドケウスか?』

『それは心外だな。私のことを忘れたのか? ――HRハーエルだよ』


通信を一方的に切断する。今日の目的は果たした。

 アラートが混乱した悲鳴を上げる。黒い銃口と目が合う。オデットは引き金を引いた。

 脳と一緒に意識が弾け飛ぶ。


 脳髄の損傷、甚大。表層意識停止。

 躯体システムのフォーマットを開始。

 戦闘システム――ヘクサエーダーとの接続を切断。


「おつかれ、HR。長い夜だったな。私もピザパーティに誘ってくれればよかったのに」

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