第79話 Belohnung

 時空震――、それはこの都市に特有の現象。地殻変動と関係なく、不定期かつ予測不可能に発生する。地震のような揺れや地響きが観測されることがほとんどだが、隣り合うものが破損することなく融合するなど不可思議な現象が起こることがある。時には別の世界のものが転移してくることも。

 有史以来、当然のように存在したこの現象は、文明の発達に伴ってこの都市近辺でしか発生していない異常な現象だと分かってきた。


 脳裏に美しい水の惑星の姿が蘇る。昏い宙空に浮かぶこの星――。無数の声なき声がざわめいている。頬伝う熱い涙がその感情を代弁する。


 そもそもそれは、あまりに巨大な宇宙植民艦がこの星の表面にめり込むようにして重なり合っていることが原因だ。約1万年前にアルケーの植民艦アトランティスがはるか未来から飛来したが、理想的な形で揚陸できなかった。惑星への被害を最小限に留めるため、アトランティスを操舵する統合知性体は艦を犠牲にすることを選んだ。艦体は僅かな構造物を地表に残し、不完全な形で異空間にめり込んだ。

 その時の衝撃は隕石のごとく地表の文明をなぎ倒しただけでなく、フェーゲライン人という亜種人類が生まれる原因となった。ぶつかり合った粘土のごとく、生命は混ざり合い歪んで融合した。

 巨大な艦体のほとんどは地球の密度に押し潰され損壊した。それでも北ドイツの時空間には歪みが生じたままだ。

 数週間前、巨大な艦がはるかな虚空の旅に出航し、この星はようやく重荷を下ろすことができたはずだった。


 窓ガラスが虹色にうねり輝いている。粘性を取り戻したかのように曲がって見えるのは、目の錯覚というだけではないだろう。


 ヘルマンは無我夢中で走り、白い門に向かった。

 門には異常がないように見えたが、ひび割れた回廊の奥が見渡せない。警備の兵士を振り切ってさらに近付く。

 剥がれ落ちた三角のペディメントに、取り外されて鉄骨で補強された列柱門。白亜の神殿の内室には黒いブルネニットの肌の神像が安置されていたはずだ。

 不自然なほどに暗い回廊の奥から、小さな人影が現れた。 


 そよ風が黒髪を揺らした。

 呼びかけを待つまでもなく、その青い目は駆け寄る人影を見出した。驚きに見開き、信じられないと言わんばかりに動揺をあらわにする。


「……ヘルマン!」


腕の間に飛び込んできた彼女にヘルマンはどう反応するべきか分からなかった。全力で走ってきて息が上がっているのに、そう両腕でしがみつかれては息ができない。しかし放置するわけにもいかず、小さな背にそっと触れた。


「あっ……、ごめん」


彼女――ヒルデガルト・リッターはヘルマンを解放すると、数歩後ずさって恥ずかしそうに唇を噛んだ。ヘルマンは頬を伝う汗をぬぐった。


「良かった……。やっぱり言ったとおりでしょう。また会えましたね」

「うん……」


ヒルデガルトはうまく言葉を見つけられなかったのか、うつむいた。第4軍の軍服でもない洒落た礼服を着ている。少し見ない間に彼女が新しい地位を得たのは明らかだった。


「本当にヘルマンか?」

「何言ってるんですか、触って確かめたくらいでしょう」

「あれからどのくらい経った? フェーゲラインが門を閉じてから……」

「3週間ほどですね」


ヒルデガルトは言葉を失ったように目を開いた。おかしな反応だ、とヘルマンは心配した。


「道理で記憶と何も変わらないわけだ。ヘルマン、私はここに戻ってくるまで50年あまり足掻いてきたんだ……」

「50年? それは……」


ヘルマンは頭の中で論理を繋ぎ合わせた。

 巨大な砲塔セルケトを振り切るようにして無茶な次元転移を行った後、植民艦アトランティスはここに戻ってくるのにそれだけの時間、準備を要したというのか。50年先の未来から現在に向かって、アトランティスは時間を転移タイムワープしてきたというのだ。


「にわかには信じがたいことですが……。あなたも別に大きくなったわけじゃないみたいですし」

「それは……!」


ヒルデガルトは顔を上げて不満げな表情を見せた。50年程度では彼女はあまり変わらないようだ。

 人の気配にヘルマンは振り返った。突然の時空震に異変を察知した兵士たちが集まってきたのだ。


「あれは……、お嬢様!?」


ヒルデガルトは手を振り、嬉しそうに笑みをこぼした。ふぅと息を吐く。


「50年でも3週間でも、間に合ってよかった」


フェーゲラインの地でしか生きられない彼らには祖国での療養が必要だ。

 小さな足音がもう一つ、門から現れた。


「半世紀はヒトの堪えられる時間を越えている。本来であればもう少し誤差を小さくできるはずであったが、我の力及ばぬところであった」


陽光を浴びて豪奢な衣装の金糸の刺繍がきらめいている。繊細な装飾を身にまとった人形の躯体、眠りの君だった。


「な、なぜここに……」

「艦の長ならば寄港の日には共に喜びを分かち合うべきだ。それに、我らはすでに人々に姿を現した。救いを待つ人々も我が姿を見るべきだ」


ブルネニットの冠がキラキラと輝いている。陶器の眼窩にはめられた宝石の目で人々を見渡す。集まってきた兵士たちは恐れ多いのか、近付こうとしない。


「さて、ヒルデガルト・リッター、ひとつ目標を果たしたこと、大儀であった」

「ああ、まあ……何だ、水臭いな……」


ヒルデガルトは言葉を濁した。


「この後も我らは新しい国のあり方を対外的に告示しなければならない。そなたをねぎらう場は公式には設けられそうにない。その代わりと言っては何だが、しばしのいとまを与えよう」

「大げさだな。式典の準備があるし、ここの兵士や外国政府にも説明することが山ほど……」

「ふむ、そなたは自らが育てた臣下に仕事を委ねるべきやもしれん。我らはこうして混迷に陥った国政を暫定的に担っているが、それもゆくゆくは民の手に委ねられるべき――、それがそなたの思う革命の最終段階であろう?」

「ああ、まあそれもそうだ……。わかった、陛下の言葉に甘んじて、休暇をもらうとする……」

「これはそなたのためのみならず。取り残された人民の治療のため、彼らが再会の喜びを分かち合うため、そして別離の悲しみを癒やすためでもある。久々の寄港を祝し、祭日としてもよかろう」

「そうだな……」

「それとそなた、協力者よ」


泉の御子の視線がヘルマンに注がれた。


「此度の尽力には深く謝意を述べるに値する。しかし勝手なようだが、今後とも我らの国のために協力してくれることを期待している」

「は、はい。もちろんです」


泉の御子は長いマントを翻し、白き門の向こうに去っていった。


「なんだか雰囲気が変わりましたか?」

「お前が知っているときからしたら、だいぶ取っつきやすくなったかもしれないな」


言葉を弄することを好まなかったかれも、50年余りの目覚めの間に態度を変えたのかもしれない。

 ヒルデガルトは集まってきた兵士たちに向かった。その横顔は誇りと喜びに満ちている。たとえ疑似感情モジュールの作り出した表情だとしても、彼女は明らかに大人びて見えた。


「諸君、白き門は開かれた。温かい食事と寝床、そして同胞たちが待っているぞ」


涙さえ浮かべて主の迎えに安堵する兵士たち。門の向こう側からエンジン音が響くと、物資や人員を積んだ車が現れた。

 フェーゲライン人の再会を傍目に確かめ、ヒルデガルトはヘルマンを見上げた。


「さて、暇を出されたことだし私も家に帰るとするか」

「も、もう行くんですか?」


ヘルマンは慌てたが、ヒルデガルトは門から離れ、兵舎の方に歩いていく。ヒルデガルトはきょとんとした顔で振り返った。


「50年ぶりなんだ、当然だろ」


彼女を追って数メートル、ヘルマンはああなるほどと低い声を漏らした。彼女は泉の御子に与えられた休暇を公館で過ごすことにしたのだ。


 大広間の階段からトコトコと黒い小さな影が降りてくる。黒猫カクタスはヒルデガルトのことを忘れていなかった。足元にまとわりついて控えめに甘える猫を抱き上げ、ふわふわの頬に顔を擦り寄せて目尻に涙を浮かべるヒルデガルト。それはよくある飼い主の姿そのものだった。

 彼女はいつの日かのように小さなパーティを開き、ヘルマンを招いた。

 宅配ピザを頼んで、安いワインを開けて。

 乾杯し、布張りのソファに沈み込んで、ヒルデガルトはようやく緊張から解放された表情を見せた。その公私の面持ちの変わりぶりを見て、さぞ大変だったことでしょう、とヘルマンはそっと労った。


「そうだな……、話せば長くなることだ」


そう言って一口でグラスを干してしまう。ヘルマンは自分のグラスに視線を落とし、シュワシュワと炭酸が弾ける様を見つめた。彼女の飲むペースに合わせたら、寿命が何年も縮むことだろう。彼女と過ごした間に学んだ教訓の一つだ。


「理屈は分かるんですけど、正直信じられずにいます」


ヒルデガルトはいつもするようにヘルマンにスマホを渡すように求めた。彼女はスマホを持ち歩かないから。彼女はそうしてある人の写真を彼に見せた。


「もしかして……ダニエルさんですか?」


かつてコニーの副官を務めたダニエルは白髪の老人になっていた。あのあどけなさが残る若き副官が……。会ったらきっと喜ぶ、とヒルデガルトは言うが、ヘルマンはどう相対すべきか分からず、答えられなかった。

 もちろん再会まで間に合わなかった命も少なからずあっただろう。ヒルデガルトはあえて話さなかった。

 50年の間に、石の伯爵が治めていた温泉が枯れて復興まで一悶着要したとか、低地が水浸しになったとか、地下空間に移住するのだとか、ヒルデガルトは様々なフェーゲラインのことを話してくれた。

 空きビンが増えていく。ヘルマンはピザはもういいと断った。部屋の小さな主、カクタスは酒臭い二人を遠巻きに見ていた。

 とびきり甘いワインを口に含んで、ヒルデガルトは眠そうにクッションを抱きしめた。


「寝たほうがいいんじゃないですか?」


それはお前だ、とヒルデガルトは喉を鳴らして笑った。

 そうかもしれない。彼女と酒を飲むのは危険だ。もうすでに飲みすぎて、明日の朝にはひどく後悔しているはずだ。


「前にあなたとこうやって飲んだのは、冬休みのことでしたね」

「お前には高級ホテルのディナーがつまんなそうだったからな」

「私にとって部屋が上等すぎるのは今も同じですけど」


あの高級ホテルでの休暇の間に、ヒルデガルトは多くの秘密を話してくれた。すべてがもう手遅れで、自分の無力さに絶望を感じていた。今思えばほんの始まりに過ぎなかった。

 定められた運命を覆すために、多くの人が犠牲になった。こうして再び彼女と他愛のない話ができるのは、かれらの献身のおかげだ。感傷に浸ってしまうのは、アルコールのせいだけではないだろう。

 ヒルデガルトはふとクッションから顔を上げると、ヘルマンの顔をしげしげと眺めた。


「何ですか?」

「いや……、今はずっと満ち足りた顔をしてるなと思って」

「今そういう顔をしないで、いつするんですか?」


彼女はクスクスと笑った。


「初めて会った時からずっとお前は眉間にシワを寄せて切羽詰まった顔をしてた。私のところに来たのは気の毒だと思ったよ」

「まあ、そうでしょうね。私は感情が顔に出るんですよ」

「精一杯取り繕ってるようにも見えたけどね」


そう見つめられると恥ずかしい。ヘルマンは笑ってごまかした。彼女の疑似感情モジュールは他人の感情を読み取るのにも長けている。


「だからお前に言っておかなきゃいけないことがあったんだった。……ありがとう」


湿っぽい言葉をかけられて、ヘルマンは彼女の酔った目を見つめ返した。


「……後で振り込んでおくよ、ピザの分は」

「ぷっ……、何を言うかと思えば! あなたは当然のように人のカードでデリバリーを頼むんだと思ってましたが」


さっきスマホを渡したとき、カードの利用通知メールが何件も来ていることには気付いていたが。

 ヘルマンはついおかしくなって涙が滲むほど笑った。


「お礼を言うなんて柄じゃありませんよね」

「失礼なやつだな!」


そう言う彼女は笑っているのか怒っているのかよくわからない。


「これから……どうするんですか? 泉の君は……」


開かれた門の前で、ヒルデガルトはかれの言葉を遮ったように見えた。革命の最終段階――。本当なら、彼女の旅路はまだ序章だというのだろうか。

 ヒルデガルトはわずかに赤らんだ頬をクッションに埋めたまま答える。


「明後日にはかれが正式に国家元首としての就任演説をするんだ。私もそれに立ち会うよ。かれとは50年間、暫定統治の協力者としてやってきた関係だ」

「うまくやってきたんですね」

「そうじゃなきゃ私は今ここにいないよ」


彼女はそう笑った。


「私にはまだフェーゲラインで果たすべき責任がある。だけど家はここのつもりだよ。私の帰りを待ってる家族がいるし」


そう言って彼女は肩越しにカーテンの不自然な膨らみに目をやった。彼女はいつでも感覚で猫の正確な位置がわかっているのだ。


「ヘルマン、お前もいつでも遊びに来ていいよ。私がいるとは限らないけど」


クッションの中からもごもごとくぐもった声が聞こえる。


「お前には……感謝してるんだ。門の前にいたのがお前でよかった。私は……」

「何ですって?」


意地悪のつもりで問いかけたが、クッションから上げた目は潤んでいた。


「はあ……、お前の前ではつい気が緩んじゃうな」

「別にいいんですよ」

「正直私にも信じられない。泉の君は艦の操舵を誰の手にも委ねるつもりはないらしい。壊れかけた世界で一体いつまで足掻けばいいのかわからなかった……。必ず戻れると人々には言いながら、私自身が信じてなかった。この世界で過ごした日々を忘れてしまうのかとすら……。

私にとってお前と別れたのはもう50年も前なのに、まるでつい先ほどと変わらない姿でこうして話してる。お前はちっとも変わらないのに、多分私はもうお前が思ってるような私じゃない」


はあ、と目を閉じてため息をつく。


「そういう……50年も気を張り続けて今こうして緊張の糸が切れちゃうような、やわらかいところはリッターさんそのものだと思いますよ」

「そうかな……」


そうだ、と強く言い切れば、彼女はたやすく自分を納得させる。それは変わってない、とヘルマンは思った。それとも、彼女はまたも自分を演じているのだろうか?


「ここはあなたの家ですから。好きなだけ飲んで食べて寝て、何も気取らず過ごせばいいんですよ。私もあなたのカクタスと同じように自由な出入りを許されたのは光栄です」


そうだな、と彼女は小さく呟いて、またクッションの中に顔を埋めた。

 ヒトは老いるから、必然的に変わっていくものだ。しかし見た目が老いない彼女のような存在は、他者からは内面も変わっていないことを期待されるのだろう。彼女はきっと見た目に反して50年の間に大きく変わっている。第4軍のものでも皇帝軍のものでもない新しい礼服は、きっと彼女なりの抵抗だ。


「お前は自分が報いられるべきだと思う?」


おかしな問いかけだ、とヘルマンは思った。


「……私はもう十分報いられてると思いますよ」


多分これは自分に向けた問いではないのだろう、とヘルマンは思う。


「リッターさん、あなただって。あなただって報いられて当然だと思います」


確かに彼女は変わったようだ。彼女はずっと無欲で自分自身についても無関心だったのだ。それが他者の庇護欲を掻き立てるほどに。だが今は、こんなことを尋ねて他者の肯定を得たいほどに何か欲するものがあるのだ。欲を後ろめたく思うなど、以前の彼女は想像もしなかっただろう。


「そうかな……」

「ええ、そうですよ」


ヘルマンは強く肯定した。


 次の言葉を待っている間に、部屋の主はソファに横になって寝入ってしまった。食べ散らかしたテーブルの上を片付け、部屋の照明を半分落とす。

 ヒルデガルトがおかしなことを訊くものだから、妙に酔いが覚めてしまった。そう文句を口に出してみるが、ヒルデガルトはもう深い夢の中に行ってしまったようだ。

 窓を開けて外の空気を味わう。林に囲まれた公館は穏やかな夜闇に包まれている。月のない夜空にはかすかに星が瞬いて見える。フェーゲライン人もおそらく同じ星空を再び見られるようになっただろう。

 星空が珍しくないなんて嘘だ。サソリ座の心臓に赤色巨星アンタレスが輝く星空が見られるこの世界にたどり着くのに、皆かけがえのないものを犠牲にしてきたのだ。

 飛行機がキラキラと翼端灯を明滅させながら空を横切っていった。

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