第78話 Rückkehr zum Hafen

 長い長い夢。

 何万年にも渡る空の旅だった。方舟は飛び立ち、星の海を当てどなく漂う。

 いくつもの星が滅ぶのを見た。太陽に呑み込まれる故郷を見た。

 舟に乗った人々が一人ひとり死を迎えるのを見た。体を失い、記録された意識が混ざり合っていく。無数の声は歳月を重ね自我を失い、欣然一体となっていった。最期の声に耳を傾ける。か細い声はかすれて遠ざかっていく。

 ついに声は聞こえなくなった。息もしないこの黄金の躰だけが舟の中にいる。いくつもの星海の間隙を越えて、時間を横断した。

 青い水の星が見えた。これを、最後の航海日誌とする。


 ◇


 ヘルマンは固い床から起き上がった。石の床にどれだけの間横たわっていたのか。体は痛むが、怪我はない。腕に巻き付いていたはずのヤドリギの冠がない。血を流す傷はもう癒えていた。

 そうだ、と思い出す。まるですべてが遠い時間の彼方の出来事のようだ。

 横たわっていたのは白い大理石に囲まれた部屋の床だった。石の塊を支えに立ち上がって、それが巨大な台座であると気付く。黒い大理石でできた像だ。

 ヘルマンはぎょっとして顔を上げた。輝くブルネニットの双眸と見つめ合う。彼は凍りついたまま、しばらくして像が動きそうにないことに気付いた。

 黒い大理石――低純度のブルネニット結晶の神像は、手にした黄金の三叉槍を支えに参拝者を覗き込むように膝をついている。

 かれはどうやら自分のルーツを隠すつもりがなくなったようだ。そう思って、彼は自分の直感に疑問を持った。この神像は初めて見るはずなのに、なぜそう思ったのだろう。台座に書いてある古代ギリシア語は、かれの本来の名と、言葉を信じず行いのみを信じるというかれの信条だと思ったのは、なぜなのか。

 長い長い夢を見せられ、記憶が混濁してしまったようだ。打ち捨てられた古い水飲み場は、かつての礼拝所だったのだろう。自分はそこで意識を失ったが、かれはヤドリギの帝冠を受け取ったようだ。それから、波に引きさらわれたように無数の時空と記憶の中に溺れさせられた。

 つまり――。自分の身に起きた一切を彼は不思議と理解できた。

 アトランティスの神像に背を向け、神殿から出る。

 日差しに目がくらむ。爽やかな青空に軽やかな風が吹き渡っている。ヘルマンは胸いっぱいに新鮮な空気を吸った。

 人の気配に視線を落とす。タイガーストライプ迷彩の兵士たちがおろおろと右往左往している。

 世界は明るく、色鮮やかに蘇っている。鳥の群れが空を横切っていく。どうやら、世界は正常に戻ったようだ。



 ようやく訪れた平穏に安堵する暇もなく。

 まずヘルマンは彼を見つけた第4軍の兵士たちに、公館に集まるように勧めた。

 植民艦アトランティスは必ず戻ってくる。その確信には根拠がないわけではなかったが、彼にはうまく説明できなかった。理論よりも、眠りの君とヒルデガルトが人々を見捨てるはずがないという言葉の方が、彼らを勇気づけるにふさわしかった。

 それから彼は旅団司令部に入り、旅団長の執務室に向かった。将兵が落ち着きなく廊下を行き来している。立ち上がって電話していた旅団長は、ヘルマンの姿を認めるなり受話器を下ろした。

 旅団司令部が大混乱に陥るのは当然のことだ。フェーゲラインに押し潰され、音信不通になった部隊に向けて、各方面が連絡を取ろうと必死に動いていたのだ。それらが一斉に届いて、彼らは自身に起こったことを理解する暇もなかった。

 旅団長はヘルマンに答えを求めている。彼はその期待に答えるため、必死で説明を試みた。

 長話の末に、旅団長は脱力したように椅子に腰を下ろした。


「脅威は過ぎ去った」


彼は何度かそう呟き、今の言葉をそのまま国防省に送るように副官に命じた。ヘルマンはそれを聞いてホッと胸をなで下ろした。この事態はドイツの三分の一が領土を失うという、侵略と捉えられかねないことだった。脅威は過ぎ去った――、被害を受けた部隊の司令官がそう言えば、は放たれずに済む。

 合同旅団の本来の任務に集中する、と旅団長は落ち着き払って言った。つまり、二国間協定に記された第4軍との共同国境管理と、周辺地域の治安維持。それに基づき、国内に残された第4軍を支援し、被害状況を確認するというのだ。

 第4軍は外交の窓口でもあったが、今は意思決定を行える者と連絡が取れず外交機能は麻痺している。そのことを鑑みて、旅団長は彼らに中立であるよう留意すると約束してくれた。

 ヘルマンはその後何度か将兵に説明を求められた。

 その後も彼は政府高官が話を聞きたがっているということで、ベルリンに呼び出された。

 移動の間、一息つく時間が取れてからようやく知ったことだが、世論は様々なデマで混乱していた。連邦議会でも陰謀論じみた言論が行き交い、紛糾していた。誰かが時間稼ぎをしてくれたようだ、とヘルマンは理解した。

 ヘリが降り立ったのは白塗りのコンクリートとガラスが印象的な首相官邸だった。ヘルマンは緊張で手に汗がじっとりとにじむのを感じた。

 応接室で待っていた連邦首相はヘルマンに気さくに話しかけた。彼女は折り曲げられた青い封筒を取り出した。


「ヘルマン・シュタール少尉……、私は君の兄のことも父のことも知っているよ」

「それは……、光栄です」


第3次世界大戦が始まったとき、まだ州首相だった、と語る。


「戦後内閣を率いる首相になって2年目にして、戦争の真実に迫れるとは」


彼女はそう笑った。


「君の父の遺産は決して無駄にはしない。約束しよう」


彼女は軽い言葉を弄するタイプの政治家ではない。ヘルマンは謝辞を述べ、目を泳がせ、モダンなテーブルに置かれた青い封筒を見つめた。


「この封書を見て、派兵を思い留まらせたんですか?」


それは部分的に正しい、と首相はカラカラと笑った。


「こんな手紙を受け取ってしまっては、私の進退が問われるようなものだ。だが、私はこのやり方で古い友人の期待に応えることにした。あの小さな――見た目より年を取っているとはいえ、私からしたら子供のような友人が覚悟を決めているのだから」


ヒルデガルトの開いた夜会の招待客の中に、当時は州首相だったこの連邦首相が名を連ねていたとは。

 首相はヒルデガルトからの青い封書をヘルマンに見せてくれた。


『親愛なる友へ 私は革命を成し遂げることに決めた。獣たちにとってこの世界が生きるに値しないというのなら、私は世界を変えなければならない。どれだけ時間がかかろうと、この身が燃えかすになろうとも構わない。友よ、私を支援してほしいとは言わない。どうか私なき後の故国を頼む』

「封書は空っぽでも良かった」


首相は低い声で呟いた。


「彼女が望むのなら、警察でも軍でも出してサイボーグや侵略者と戦わせる、それが二国間協定だった。しかし体制の転覆を宣言する者に対して、市民はどう反応するだろうか。答えはNEINノーだ。いかなる国体であれ、国交を結んでいる限りはその存続を見守るべきだ。そこに私情を挟む余地はない。だからこそ私は派兵を思い留まらせたんだ。幸いにも閣僚内で私の意見は受け入れられ、時間を稼ぐことができた」


民主主義国家では、官邸での隠し事は通用しない。帝国の令嬢とドイツ連邦首相との蜜月は、いずれ暴かれることだ。そして令嬢が自在に用いる特別な青い封書のことも。だからこそ、首相は元首としての立場を示したのだ。

『頼む』とはずいぶんと曖昧な言葉だ。結果として首相は情に流されてヒルデガルトの革命に賛同するわけでも、フェーゲラインを助けるべく派兵に踏み切るでもなく、自らの立場を守った。ヒルデガルトは首相のことをよく知っていたのだろう。フェーゲラインの戦いに水を差さないこと、必要なのはそれだけだった。


 しかし、と彼女はヘルマンに疑問を投げかける。


「確かに彼女が率いる第4軍の兵士たちは、長命で政治を牛耳る皇帝や貴族を廃する革命の夢をヒルデガルトに望んでいただろう。だが君の言う話だと、彼女の行った革命はどうやら少しヨーロッパの常識とは異なるようだ。皇帝や貴族は排除されたが、絶対的な権力を持つが君臨することになった。英雄となったヒルデガルトはおそらく低からぬ地位を得たはずだ。これは新しい王朝と言うべきだろう。これが獣の民たちが望んでいた革命だったのだろうか?」


流血を経て人民の政府が打ち立てられた歴史上の革命とは、確かに違うようだ。


「まあ国家としての声明を出す前にすべてが終わってしまったし、今は彼女たちの政体がどうなったか確認することもできない状態になった」


首相はやれやれとため息をつく。


「ですが艦は必ず戻ってきます。そのとき……、あなたはどうされるおつもりなのでしょうか」

「その時は、我々の鑑識眼が試されるだろう。フェーゲラインは今までと同じような閉ざされた国なのか、開かれた国となるのか。いずれにせよ、連邦は指導的立場を担わなくてはなるまい。たとえ人類の叡智の先からやってきたアルケーが目覚めたとしても、この世界の支配者は人間なのだから」



 ヘルマンは首相官邸を後にしようとして、正門の前にマスコミが押しかけていることに気付く。彼は職員から声をかけられ振り向いた。


「シュタール氏、こちらへ」


早足の職員を追いかけ、裏手に回る。迎えの車が来ていた。ヘルマンが近付くと、開いたドアから細長い腕が伸びて引き込まれた。


「すっかり有名人だな」

「VIPの気持ちがわかっただろう?」


ずらしたサングラスの隙間から、キラリと輝く目。運転席から肩越しに投げられた声の懐かしさに、緊張が氷解する。オデットと兄、ハインリヒだった。


「このネットの無茶苦茶な状態は兄さんたちの仕業でしょう? だって父さんしか知り得ないはずの情報がそのまま上がってるじゃないですか」

「別に何も嘘は言ってないさ」


縁取りされた大文字の字幕に、面白おかしく誇張された継ぎ接ぎ編集。陰謀論者じみた動画だが、何か人々を苛立たせるポイントを突いたのか、無数のコメントと引用が付いていまだに鎮火しそうにない。

 兄たちの隠れ家は、古びたモーテルよりずっとまともなものに変わっていた。


「凱旋にはご馳走が必要だろ?」


ホテルの冷蔵庫には何も食料がない。買ってくる、と二人はまた出かけていった。ダイニングに腰掛けて息を抜く。彼は人の気配を感じた。

 隣の部屋のドアをそっと覗き込むと、パソコンの前でウンウンと唸る女性がいた。赤毛の髪を束ねて作業に没頭している。声をかける代わりに彼はドアをノックした。

 その人アリシア・ミュラーは振り向いて、あわあわと身なりを整えた。


「その……、件の動画を作っていたのはあなただったんですか?」

「えっと……、技術的なところはオデットとその友達がやってくれたんだけど。ご、ごめんなさい、いや謝ることじゃないか。ハインリヒに頼まれたの! あなたのお父様の遺産を使って、私なりにどうにか……」

「まさか誰もあんなチープな動画をARDの記者が作ったとは思いませんよ」

「よく出来てるでしょ!」


アリシアは興奮気味に話した。どうやら動画に集まる無数のコメントと空中戦を繰り広げていたらしい。彼女はコロコロと表情を変えた。


「ご、ごめん。あんまり寝てないから情緒不安定なの。まずはあなたが無事で……とても嬉しい」

「ありがとうございます。ちょっとは休んだらどうですか? お偉方の動向を見る限り、あなたの動画はもう十分仕事をしたようですよ」

「そう思う? じゃあ良かった……」


アリシアはふうとため息を付いた。パソコンをぱたんと閉じる。ヘルマンは居づらくなって目を泳がせた。


「コーヒーでも飲みますか? あいにく食べ物はないみたいですけど」

「え? あ、ありがとう」


インスタントコーヒーを淹れている間、アリシアは部屋から這い出してダイニングのソファに腰掛けた。

 薄っぺらい味のコーヒーで喉を潤してから、切り出す。今言わなくていつ言うのか。


「あの……、どうしても昔のことを謝りたかったんです」

「それは自分の中でわだかまりがあって気持ち悪いから?」

「正直に言うとそう、ですね……。自分は善人でいたいと思ってしまうんです」


アリシアは手を伸ばしてきた。何をするかと思いきや、バシンと彼の背中を叩く。


「もういいの! もう二度と普通の会話ができないと思ってたくらいなんだから。だから、私も謝らなくていいよね」


何だその理屈、とヘルマンは思わず笑った。


「そ、そうですね」

「昔って言っても子供の頃の話じゃん! お互いにバカだったの。あなたはお勉強ができる子だったけどね、自分自身のことは今ほど分かってなかったでしょ。私もあなたのことを理解できるほど大人じゃなかった。それだけ」

「…………」


ギムナジウム生の頃から強引なところは変わっていない。だが、そう言ってくれると心のどこかで信じていた。

 二人は目を合わせて笑った。



 それから、アリシアが何か細工したのか、ARDから正式に取材のオファーがあった。ヘルマンは断ろうかと思ったが、取材を受けることにした。今となっては、本当のことを知っているのは自分しかいない。いや、起きたこと以上のことを知っている唯一の人間だった。

 ヘルマンは自分の口から、知っているはずのないことまで溢れ出すことに困惑した。これまでの人生で学んだ覚えのない知識、さらには人類がまだ到達していない技術のことまで。黄金の杯と、そこに満ちた聖水の輝きが目に蘇る。


 使命感と頭から湧き上がる無限の記憶に駆り立てられるように奔走する数週間。

 久々に旅団に戻ってきたヘルマンは、人気のない執務室を掃除していた。薄っすらと積もった埃を払い、窓を開ける。

 一人分の紅茶を淹れて応接室のソファに腰掛けてみる。そうすればこの部屋の主の気持ちが分かるだろうと少し期待したが、ただただ静けさに自身が溶けていくような気がするだけだった。

 この数日で何冊目かの手帳を開く。ミミズのようにのたくった字でいっぱいになっている。頭の中から湧き出る情報を、忘れないうちに書き留めてきたのだ。あんな経験をした後でも、自分はまだ人間だという確信は固く持っていた。そう、自分は人間でありアルケーではないから、書き留めてでもおかないと忘れてしまうのだ。

 ふうとため息をついたとき、テーブルに置いたティーセットがカチカチと音を立てた。茶が揺らめき、緑や橙色に輝く。

 揺れている。

 そう直感した瞬間、大きな衝撃に横から揺さぶられた。反射的に飛び上がって、背の高い棚をかばう。客人をもてなすための高級食器が虹色にきらめいている。

 地震じゃない。時空震だ。あのときと同じ――。

 ヘルマンは食器棚にしがみつくのをやめて、ガタガタ揺れるドアを開けて飛び出した。頭を強く殴られたときのように、世界の色が横ずれして見える。転がるようにして階段を降りて、外に出る。向かうべき方角は分かっている。

 木々の隙間から、空に向かって青い光の柱が伸びていた。第4軍区画の奥地だ。

 心臓が熱い血を吐き出す。

 ――アトランティスが帰還した。

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