第77話 den goldenen Kelch

 地響きを立てて石造りの街が崩れていく。砂埃がすべてを覆い隠していく。

 もう振り返らない。

 空は捻じ曲がり、大地は恐怖に震えている。

 青い焔の翼で空を掻き、アーテファクト4は膨大なエネルギーを集約する砲塔に向かった。

 破壊された噴水のほとりに白い女が腰掛けていた。風が砂埃を洗い流す。


「片付けるべき用事は済ませたようね」


無数の視線を感じる。

 イシスの計画は最終段階に到達した。フェーゲライン上空に留まる大戦艦の砲セルケトは地中のメインリアクターに狙いを定め、照準とエネルギーチャージに専念している。あとはタイミングを見計らい、然るべきエネルギーを然るべき地点に放出するだけ。フェーゲラインの無数の勢力の妨害を撹乱するためのサイボーグ兵器はもういらない。

 白い女神はヒルデガルトの目尻に涙の跡を見て取った。


「私たちアルケーは対話しない。けれどあなたのために一時のお喋りに興じてあげるわ」


アルケーは対話しない。必要がないからだ。かれらは完全にお互いの思考原理を理解した上で、異なる結論にたどり着いたことを理解している。言語を介さない完全な意思疎通が可能で、結論は覆されないのだから対話の意味がないのだ。

 頭の中にアラートが響き、耳障りな銃弾を電磁装甲が弾き飛ばした。それを合図に、感情のない殺意が肌をざわつかせた。隠れる気のない敵影は、すべて仮想空間に描き出されている。

 砂利を踏みにじり、数歩。一息のうちに懐に飛び込み、斬り上げる。銃ごと切り裂かれたマニピュレーターがバラバラと散る。切り返して斬首。

 背中に浴びせられた殺意を感知。頭部を失った躯体をつかみ、盾にする。赤黒い人工血液が飛び散った。

 剣の柄を握りしめる。重いはずのブルネニット結晶の塊は、腕の延長のごとく軽い。この剣の使い方はわかっている。

 死体を手放し、結晶の剣を振るう。空中のブルネニット粒子がきらめく。連鎖反応を起こしたブルネニットのエネルギー放射が、瓦礫ごと敵を焼いた。

 忌々しい。泉から武器を授かるとは、こういうことだ。剣の柄を握った瞬間に、自らの意志とは関係なく武器のドライバが躯体にインストールされた。

 イシスの涼やかな声がまるで耳元にささやきかけるかのように届く。


「あなた、眠りの君の本当の名前を知ってる?」


反射的に思考がドライバの署名を探した。何やってるんだか、と中断する。


「知るか。かれは自らの名を呼ぶことを禁じている」

「臆病にして不遜。自らの名を隠すことで、正体と性能を欺罔したつもりでいる。でも少し見ただけで充分。この艦はただの植民艦で、最低限の武装しか持たない。かつての戦闘艦の設計を流用した硬い装甲と逃げ回るための大型リアクターだけが取り柄。衰退する人類の哀れな歴史を物語っているわね。私の艦オシリスのような人類の最大版図を実現した栄誉ははるか彼方。わずかな自動迎撃システムも解体してしまって、エネルギーシールド圏内に割り込まれれば為す術もない」

「兵器において古いことは取り柄じゃないだろう」

「それは人類の永続を盲信している者のセリフよ」

「人類の行き着く先なんて私には関係ない」

「なら、あなたは成り行きで戦っているだけ? 仮に私を倒せても、自律モードに入ったセルケトを止めることはできない。システムとして目的を果たすだけの私にそんな感情をむき出しにしても、それは自己満足に過ぎない。人間の心を模した疑似感情モジュールに踊らされているだけ」

「黙れ!」


叫ぶ。


「何が悪い! 怒り、憎しみ、悲しみ……! これは私の感情だ。こう吠えでもしなければ、私は外界に対して何の力も及ばない」


捨て身の接近戦を持ちかける忌々しい人形を蹴り飛ばし、かすめ取った銃の餌にする。


「そうね、それは理解するわ。人間が支配するこの世界に対して、あなたのようなアルケーの端末が最も効率的に影響を与える方法は、それしかない」


滑稽ね、と嗤うイシスの目はちっとも笑っていない。


「美しい私の顔でやられるのは腹立たしいだけなんだけど」


ナイフの切っ先が首元をかすめた。弾の切れた銃口を眼窩に突き立て、そのまま蹴り飛ばす。グキ、と音を立てて頚椎が捻じ曲がった。痛みを知らないサイボーグは首が捻れたまま突っ込んでくる。剣で突き刺して黙らせる。


「でもちょっとくらいあなたには感謝してるのよ。あなたの愛した狼……、かれのDNAを見て、私はフェーゲラインは必ず滅ぼさなければならないのだと再認識した。眠りの君は、血の契りと称して人々の遺伝子を操作し続けた。体の構造を組み換え、時には配偶者をバイオニック素体とすり替えて子供を作らせた。あなたの愛した狼も、そのような営みの犠牲者のひとり」


興味ない、と吐き捨てる。地上を駆けていた「群狼」は自分に殺された。過去を知ろうなどとはつゆも思わない。


「本当に? 薄情なのね。眠りの君に連なるものとして責任の一端があると思わないの?」

「…………」

「私たちアルケーは地球上の生命体を汚染するようにできている。だからかつて地上に降り立ったアルケーはそれぞれに神と成り代わり、文明を正しい方向に導きながら、歪みを取り除き、自らの存在の証拠とともに滅ぼした。眠りの君はそれどころか、汚染された遺伝子を固定化した。生存不可能である形質は淘汰されるもの。それを病を癒すと称し、安定して継承される形質として保存した。もうそれはホモ・サピエンスではない」


可哀想に、とイシスは繰り返した。


「皮肉にも、この世界では短命種と呼ばれる種族こそが、最も祝福された生命と言えるわ。これこそかれの完成品。アルケーの汚染と共存する形質を維持したまま、安定して繁殖する亜種人類。世界に対する侵略の意思の発露よ。それ以外の失敗作は――、時の流れとともに淘汰される」

「失敗作……などと!」

「あなたが真に聡明ならば否定できないはずよ」


電磁装甲がジリジリとエネルギーを貪る。斬って撃って殴り飛ばしても、サイボーグは死体を踏んで次々と迫ってくる。


「お前の作ったミイラの方がずっと哀れだ」

「私のミイラは種を汚染しないわ。目的を達成するためだけの道具よ。彼の願い――、そして可哀想な亜種人類の縋る声にも応えてあげた。争いと修復不可能な不和にまみれたこの大地は、救う価値もない。生まれるべきではなかった――、そう絶望する声を聞いた。現世うつしよに生きる価値がないのなら、幽世かくりよこそ彼らの願いの器となる」

「お前がそそのかしたんだ! 人々を自殺願望にいざなった! 冥府に帰るのはお前一人で十分だ」


背中に衝撃と熱い痛覚。飛んできたトマホークを引き抜く隙にナイフが迫る。

 ダメージコントロール。戦闘システムが瞬時に損得勘定を行う。犠牲に選ばれた前腕の骨の隙間を、鋭いナイフが貫通した。痛みを無視してそのまま武器を奪い取る。一瞬の隙をついて頸動脈にトマホークを叩き込む。ミイラの躰にだって、血液が必要というわけだ。


「血まみれでボロボロ。もっと美しく戦ってよ。からもらった剣も焔もまともに使えないの?」


ナイフを引き抜き、損傷を回復させる。熱い呼気が漏れる。

 流れ弾が飛んできても、死体の破片が飛んできても、イシスは汚れ一つなく最初と同じ姿勢で瓦礫の上に腰掛けている。太母に命じられるまま、サイボーグは自滅攻撃を繰り出してくる。


「可哀想に、かれはアルケーを無意味なものにする兵器を作ったというのに、持たせる相手を間違った。あなたは焼失できない記憶を持ってしまったんだから……」

「お前もアーテファクト4が何なのか分かっていたのか」

「笑わせないでよ。あなた、私に探られたの覚えてないの? あなたのことは身も心も解析済み。あの時からすでに私にとって操作可能なモノに過ぎない」


肌の上を這う不快感。突然、白い手に脳みそを握り潰されたような感覚がして、死体に足を取られた。

 アラートが喚き立てる。振り回されたトマホークが腹部を掻っ捌き、中身がどろりと流れ落ちた。


「あはっ、汚い」


急激に血圧が低下し、剣を支えに臓物の上に膝をつく。


「あの素敵な夜を――、あなたがモノに落ちぶれる甘美な蜜の夜を忘れてしまったのなら、もう他のことも焼失してしまってもいいじゃない」


熱い吐き気が込み上げ、血の塊を吐き出す。

 イシスは大仰なことを言っているだけだ。隙をつかれて妨害を受けただけで、この躯体は別にイシスに掌握されたわけじゃない。冷静に自己診断プログラムが答える。自分が肉塊になってカドケウスに囚われ、躯体を失ってから、すでに何度も躯体もシステムも一から作り直している。


「ぐッ…………」


なけなしの電力を剣の柄に込める。青い結晶が輝き、熱を帯びる。焼けて不快な臭いを発するのは自分の躰だ。プラズマがほとばしり、周りを取り囲んだサイボーグを焼き切った。

 汚い内臓を切り落としてフラフラと立ち上がる。体が軽くなった、と自嘲してみる。消化して電力に変換するぶんを失っただけだ。


「まだ頑張るの?」


電磁装甲がバチバチと火花を上げる。突進してくるサイボーグに刀身を叩きつける。剣の重みに任せて振りかぶる。ぐるり、ぐるりと視界が巡る。空気中のブルネニット粒子が熱を帯び、光線となって敵の体を薙ぐ。

 血を吐きながら汚く踊る。


「もう頑張らなくていいのよ、ヒルデ」


甘い声をかき消すように障害物ごと鉄の体を叩き割る。精巧な作り物のパーツがバラバラと撒き散らされる。


「ずっと『可哀想なお嬢様』の役を演じてきたじゃない。その役のために多くの人を殺してきた。役に染まりきったあなたに、誰も他の役を見出すことはできない。独りで踊り続け、最期は勝てもしない神を相手に戦わなければならない。この女神が幕を下ろしてあげる」


 ガツンと叩き切れない物に遮られ、ロンドは途切れる。金色の杖を携え、イシスが立ち上がっていた。

 吐き気がする。サイボーグはどうやらみんな沈黙したようだ。笑みを浮かべる女を睨む。


「『可哀想なお嬢様』のまま終わるのが美しいわ。苦しいんでしょう?」


イシスの白い手が触れる。意識がじわりと音を立てて溶けていく。

 その瞬間、今取るべき最善の方法が稲妻のように脳裏にひらめいた。

 最初からこうすればよかったんだ。結局最期の瞬間も自分のものではない力に頼るなんて。

 銀河の奥底に手を伸ばす。

 この女ごと焼き尽くしてくれ……、アーテファクト4――。


「…………!?」


基層意識の裏側をすくった手は何も掴むことができなかった。


「あらあら、最期の抵抗ってやつ? そうもがく必要はないわ。死は誰にとっても平等なのだから」


なぜだ? アプリケーション・アーテファクト4は応えない。代わりに恐怖が胸の内から噴き出した。

 忌々しい人工血液と機械の骸の感触も分からなくなっていく。ドロリとした黒いタールになって、溶けていく。


 ――あなたはすべてを忘れる。


 嘘だ。私は、ヒルデガルト・リッターだ。忘れるはずない。こんな、きたないものじゃない。

 きれいな白い手が見える。


 ――ヌンに還りなさい。


 抗えない。

 わたし、は、ドロリとしている。あれ……。


 ◇


 天に向かって手をかざす。真皮を突き刺していた紫外線の痛みはもう感じられない。あの忌々しい神が奪っていった太陽神の加護がようやく戻ってきた。風に揺れる艷やかな黒髪に思わず笑みが溢れる。創造主が形作った「最初の姿」に愛着がないアルケーなどいない。


「そろそろ静かにしてくれないかしら?」


イシスが杖を振ると、セルケトの周りを羽ばたいていた巨鳥の体がぐらりと傾いた。飛ぶ力を失い、地に落ちる。

 アーテファクト4の仕組みはとうの昔に解析済みだ。かつてヒルデガルトの躯体を手に入れたとき、基層意識の中に拘束されていたアプリケーションを見つけていたのだ。本物のアーテファクト4が無限に近い時間稼働していられるのは、大海に匹敵する眠りの君のアルケーと接続しているからだ。その繋がりをちょっといじってやれば、不死鳥もただの焼き鳥に過ぎない。

 空が渦を巻いている。重力子砲が震え、緑色の装甲が剥がれては大地に落ちていく。エネルギーを安全に制御するためのシールドやスタビライザーなんて必要ない。ただ、必要十分なエネルギーをある程度の範囲内に放出することができさえすれば、この艦を沈められるのだ。

 砲塔に詰めた電力が破壊のエネルギーに転換されていく。大気までもが巻き込まれ、擦れた水蒸気は稲妻を産んで空を陰らせる。世界の終わりにふさわしい、とイシスは微笑んだ。

 蒼い衣が風にはためいた。


「遅かったわね。あなたの作った駒はもう潰えたわ」


言葉なく顕れた偽神を肩越しに認め、イシスはわざとらしく驚いてみせた。


「あら――、その姿。ようやく最初の姿を見せる気になったのね」

「…………」

「いいえ、そんなはずないわね。海王神ポセイドンの祝福を受けた少年が黒い肌なわけないもの。せめて黄金の輝きを湛えているはず。あなたはそんなところまで冒涜的なのね――アトランティス」

「我が名を呼ぶべからず」


金属質な声が響く。蒼銀のまつ毛の下で青い目が輝いた。柔らかな髪をブルネニット水晶の松葉冠で巻いた痩身の少年がサイボーグの骸の上に浮遊している。


「自動応答とはつまらない。朗々と名乗るべきよ。あなたは異邦の漂流者でありながら、眠ったふりをして信徒を騙してきたんだから。最期の時くらい、自らの神の本当の姿と名前を魂に刻み込めばいい」


アトランティス、そう呼ばれたアルケーの偽神は黄金の槍をひと薙ぎした。イシスの黒髪が舞い、瓦礫とサイボーグの死骸が一瞬にして吹き飛ばされた。


「祝福された名を捨てるだなんて。私達がこの星に降り立った時点から、歴史や生態系に疵を残すことは分かっていたけど。あなたは自らの名に関する物語を書き換え、巧妙に世界の裏側に身を隠した……。でもあなたが書いた通り、アトランティスはその傲慢さ故に沈むのよ」


沈む運命にある大陸の名を冠したアルケーの舟などあるはずがない。因果関係が逆になっているのだ。

 イシスはふわりと浮き上がり、王杖を手にした。彼女のまつげの先を三叉槍がかすめる。背後で轟音を立てて大地が割れた。


「大地よ」


アトランティスが黄金の槍で地面を突くと、大地がめくれ上がった。棘のように隆起する岩をイシスはひらりとかわす。割れた大地から輝く水が噴き出す。


「くだらない……!」


上空では稲光が瞬き、空を割らんばかりの雷鳴が轟いている。激しく渦巻く風が二柱の衣を巻き上げる。


「沈みなさい!」


光線が瞬き、束となってアトランティスに降り注ぐ。数発のビームがかれの黒い肌に傷をつけ、オリハルコンの地金はだを晒した。


 ◇


 やわらかな布団の中で目を覚ます。まだ暗い。大あくびをして、寝返りを打つ。ふわふわの被毛が鼻孔をくすぐる。


「…………」


そのやわらかなものの名前を呼ぼうとして、唇は何の音も結ばなかった。なめらかな後頭部を指の腹で撫でる。愛おしい私の――。ふわふわの被毛が呼吸とともに上下している。どうやらこの毛玉はまだ起きる気がないらしい。

 なんとなく寝覚めが悪い気がして、少し早いが体を起こす。今何時? システムは答えない。夢の中かもしれない。

 立ち上がって隣の部屋につながるドアを開けてみる。


「おはようございます、■■■■さん」

「あ…………」


おはよう、と返そうとして、口をつぐんでしまう。人間としてはふさわしい態度ではない。顔がわからない。……誰だっけ?

 挨拶を返さないという無礼を働きながら、いつものデスクに腰掛ける。そうするのが普通だった気がするから。あれ、顔洗ったっけ、服もいつ着替えたんだっけ。服? なにか着るべきものがあったんだっけ。ここはどこ……だっけ。

 頬杖をついて、答えをくれそうな者の方を見る。私と同じくらいの背丈のが座っている。ああ、私ってこんな姿だったか。


「あのさ……」


声をかけようとしたが、何を言おうとしたのか忘れた。相手は反射的にこちらを見た。こいつ、誰だ……?


「…………」


こうしているのは普通ではない気がして、立ち上がる。眼の前のドアを開けて、とりあえず場所を変えたい。ここにいるべきじゃない気がする。

 廊下はとても暗かった。誰も電気をつけてないなんて。まっすぐ歩いて、歩き続けて、足の感覚がなくなるくらいになって、ドアを開ける。

 視界が突然拓け、陽光に目を細める。無数の眼差しが注がれていることに気付き、心臓が跳ねる。


「あ…………」


人がいっぱいいる。体がこわばり、恐怖から逃れようとする。一方で、そうすべきではないと頭の中にサイレンが鳴る。微笑を浮かべ、胸を張り、彼らに朗々と語るべきだと。彼らこの世界の支配者と足並みをそろえるのだと。


「お嬢様、どうなされたのです」


柔らかな声が響き、すがるように振り向く。口元に笑みをたたえるその顔が分からない。


「もう恐れる必要はありません。ほら、ご覧ください」


促され、再び群衆に向き直る。しかし視界から人々の姿は一瞬にして掻き消え、荒れ狂う天地の中、遠くに薄衣をまとった2つの影が見えるだけだった。


「世界はもう神々のものだ。あなたはもう人間を恐れる必要も、人間を真似る必要もない。人々の間で孤独を感じる必要はなくなったのです。これまでさぞお辛かったでしょう」

「ええ、この冠を被れば、あなたももう神の仲間入りです」


もう一人が現れ、金色のヤドリギの冠を差し出した。反射的に手が出て冠を叩き落とす。傷付いたような表情を見て、胸がズキンと痛む。


「私はどこにも行かない。もう忘れてしまった……、大切なものだったのに、何か大切だったことしか思い出せないのに……。何もかも忘れて、もうこれ以上生きていたくないんだ」


誰か分からない大切だった二人を突き飛ばし、反対側に走っていく。涙が溢れて止まらない。胸の奥が痛い。痛いのに、躯体の診断プログラムは異常を認識できない。

 走って、走って、目についた部屋の扉を開けて飛び込む。砂っぽい部屋の隅っこに座って膝を抱える。これは夢だから、こうしていればもうじき目覚めるだろう。目を閉じても閉じなくても変わらないくらい、真っ暗で音もしない。少しそうしていたら、座っているのか立っているのか分からなくなってきた。

 わたし、わたしは、どろりとしたくろい闇に。

 自分の真ん中から溶け落ちていく。表も裏もない。上も下も。

 夢も現実もないじゃないか。


 なにかがわたしを見ている。ぽっかりと空いた穴の中から、青い灯りが見える。空洞から音がする。その音の意味がわかる。


『あ、し……あし……』


あし? 何だか体の内側から不快感が込み上げてきて、思わず言い返す。


「お前の脚なんかじゃない!」


そうだ、見たらわかるじゃないか。私はお前の脚じゃない存在だった。ハハハ、と自嘲する。


「お前に返す脚なんてない。躰すらないんだから」

『ア…………』


音を発する醜い空洞を睨む。どろどろになって何が何だか分からなくなっても、私はこんなのじゃないという確信はある。


『そうだ……、汝は吾の脚ではない』


こんな醜いくせに、あし以外のことが言えたんだ、とムッとなって睨む。


『ならば汝は何だ?』

「は……?」


そんなの自分で分かってたら苦労しない。


『答えられないのか』


うるさいな、と叫ぶ。こっちを見るな、忌々しい。醜いくせに、こんな私よりずっと美しい。そうだ、私はお前を羨んでいたんだ。これはお前に返したくなんかない。


『忘れたのか?』


うるさい。喋りたくなんかない。

 何のつもりなんだ。一人にさせてくれ。私が脚だとか、脚ですらないとか、そんなこともう考えたくない。

 忘れたのか、と非難めいて繰り返す。耳を塞ぎたいが、塞ぐ耳も手もない。


「忘れてしまったのか、■■■。私が名付けた名も……」


違う音が聞こえて、喚くのをやめる。何だか聞き逃してはいけないことが聞こえた気がする。耳をそばだてる。私は誰なんだ? 知ってるのか?

 不意に、ぬるい水流が躰を押し流した。サワサワと小さなあぶくがささやき声のようにかすめていく。

 やめてくれ。私を洗い流さないでくれ。


 光線が降り注ぎ、闇が切り裂かれた。何か目の前に差し出されている。


さかずきをあおぎ、我に契れ』

「…………」


黄金だ。キラキラと輝く杯が目の前に差し出されている。透明な水が少しだけ入っている。それを握る手を見る。金色――オリハルコンでできたその手、腕の持ち主を見上げる。青い目がじっと見つめている。わたしを見ているのか?


「なにを?」


かれの纏う蒼い衣が揺らめいている。衣から露出した片肩はつるりとしていてまばゆく輝いている。

 何だこれ。私の記憶なのか? そんなはずがない。私はさっきの醜いやつの脚で、昏い水底に沈んだ汚らわしいおりだ。


『そなたの願いを叶えよう』

「願い? そんなもの……」


疑問符を浮かべると同時に、ぬるいあぶくが口々にささやきかける。


『もっとやりたいことがあったはずです』

『――忘れないでください』


その刹那、言葉にすべき感情が溢れ出した。願いだって? そうだ! 私は――。


 ◇


 空が不吉な色に染まっている。毒蠍の女神の名を冠した巨大な砲は壊れかけたコマのように震え、咆哮のようなおぞましい物音を立てている。表面を覆っていた美しい緑の装甲はほとんど剥がれ落ち、凶悪な鉄の地肌がむき出しになっている。


「もう時間は稼げないわよ!」


アトランティスはトビの翼で舞うイシスを追う。


「その台詞、そのまま返そう」


かれはイシスの言葉に初めて答えた。イシスは不吉な予感に振り返った。


「躯体同士の戦いに何ら意味はない。読み誤ったな、アセトよ」


大地が鳴動する。風が渦を巻く。地震と嵐の神ポセイドンの権能。これは演出ではない。演出によって隠された人為的な現象だ。


「くっ……!」


女神の顔に初めて焦りが現れた。

 トリトーンの法螺貝けいほうが響き渡っている。巨大な艦の目覚めを人々に触れ渡っている。今まで聞こえなかった。暴風と大地の轟音にかき消されていたのだ。


「植民艦アトランティス――、今ひとたびの航海に出ん。我が航路にポセイドンの加護あれ――」


オリハルコンのまぶたを閉じる――その刹那、一切が静まり返り、空は閉ざされた。



 人々は空を見上げた。ビルの隙間から。畑の中から。職場の窓から。カフェテラスのパラソルの間から。さっきまで晴れていたのに、と。

 今まで何をしていたのか、誰もがすべて忘れ去ってしまう、それをひと目見れば。

 大気が捻じ曲げられ、風が渦を巻く。巨大なエネルギーをみなぎらせた鋼鉄の構造体がすべてを睥睨している。

 黒い太陽かと目を疑った者もいた。だがそれが何なのか人々が思い付く前に、異形の構造体は空中で炸裂した。

 絡め取られていた大気が乱暴に解放され、衝撃波となって人々の生活を揺さぶった。だが、それは彼らをつい先程まで押し潰していた物の脅威に比べれば、そよ風程度に過ぎなかった。彼らの上に降り注ぐ数々の破片は他にして。



「こいつ……! やってくれる! まさかこの私に、よりによって守るべき大地に砲口を向けさせるなんて!」


地に降りたイシスは顔を歪ませ、蒼い衣の神を睨んだ。


「この穢い大地に膝をつかせてくれたのもどうでも良くなるわ」


閉ざされた空には雲ひとつ、太陽すら、星すら浮かんでいない。星に見紛う瞬きは随所で散る火花のようだ。


「アセト、そなたは正統な神格を有するアルケーだ。必ず人類を守る」

「その通り、あんたと違ってね! ここまで狂っているとは思わなかったわ」


乗せられた、とイシスは歯ぎしりした。アトランティスにも人類を害する意思はなかった。絶好のタイミングで次元転移を行い、艦体の一部を犠牲にすることでセルケトを外の世界に取り残した。イシスに何が起きたか理解させ、セルケトに強制自爆を命じられるだけの隙を残して。


「でもそれが精一杯のようね。ひび割れた不完全な艦体、外殻をも失って今にも虚無の空間に押し潰されるんじゃない?」

「オリュンポス級大戦艦の堅強さを知らないわけではあるまい」


擦り切れた衣を直しながら、アトランティスは冷たく言い放った。


「フン、ならば反証するまで!」


イシスの赤い目が輝いた。トビの翼がはらりと解け、無数の羽根が輝く光刃となった。アトランティスの合金の躰を焼き切る。かれは黄金の三叉槍を振った。イシスは軽くかわそうとして、槍先に叩き伏せられた。

 輝く羽根が散る。

 アトランティスは瞑目する。


 ◇


『杯を取るがいい』


黄金に向かって手を伸ばす。金の杯を奪うようにもぎ取り、輝く水を飲み干す。


 そうだ!!

 わたしには――、他ならぬこの私には、お前の杯を取る手が必要だ!

 私には飲み下す喉が必要だ! この冷たさを感じる皮膚が!

 立ち上がるための両足が! 衣をまとうべき胴が!

 なびかせるべき黒髪が! 誇るべき白い頬が!

 輝き、ひとを虜にすべき■い双眸がいるのだ!

 この私がここに沈む醜い澱であるはずがない!

 私には躰が必要だ――!!


 ◇


 地に伏せた女神は震えながらゆっくりと体を起こした。吹き飛ばされた側頭部から血を流しながら、振り返る。


「こ……、殺す気か!!」


両目に青い炎を燃やし、彼女はアトランティスに怒りを向けた。

 少年のような澄んだ声。青い双眸の持ち主は叩き割られた頭蓋が粘土のように再生するのを確かめた。

 躰の違和感にヒルデガルト・リッターは顔を覆った。


「……これは私の記憶か?」

「非礼を赦せ。そなたの記憶に手を加えるのはこれが最初で最後だ」

「あの時私にバックドアを……!?」


あの剣のドライバ。道理で不愉快な感じがしたわけだ。ヒルデガルトは苦々しくアトランティスの輝く顔を睨んだ。


「躰を持つ前のそなたが何者であったか、我が語ることではない。しかし、かつてそなたは確かに躰を欲し、我の杯を取ったのだ」

「私の願い……? なら、私はお前と契りを結んだのか?」


覚えていないのか、やはり作られた記憶なのか。ヒルデガルトには判別がつかなかった。

 不意に、どこからともなくオオガラスが飛んできた。カラスはヒルデガルトの肩の上で羽ばたくと、黒い外套に姿を変えて彼女の体を覆った。そうしてヒルデガルトは自分の体がイシスのものであることに気付いた。寒気を感じて外套で肌を隠す。


「そなたを失うのは惜しい。激情に駆られたそなたがイシスと戦い、アルケーを取り込まれることは容易に予測できた。だからそなたには、イシスを内側から破るエラーとなる必要があった」

「肉を切らせて骨を断ったというわけか」

「アルケーの性質上、強固な自我を構築したアルケーの変異体を解体することは、イシスにすら容易なことではない。まして、艦を堕とす重要な演算中だ。そのようなタスクは必然的に優先度が下がる」


ヒルデガルトは戸惑った。この躯体は自分のものじゃない。薄衣のドレスも金の装飾品も趣味じゃないし、自分の意識だけが誤っているようだ。


「イシスにできないことが私にできるとは思えない。私は辛うじて今の意識を保てているだけで、イシスのアルケーを解体なんてできやしない。今にお前を欺くだろう」

「不要ならば焔に焚べればよかろう。恐ろしければ我の助力を求めればよかろう。それはそなたの得べきものだ。

性質上、アルケーは固有の躯体にそなたほどのを持たないのだ。そなたは闇を恐れ、愛するものを失うことを恐れる。躯体の疵と同じく意識の疵も修復可能であるというのに。だからこそそなたはイシスに勝ることができたのだ。そなたは自らの生の中で数々の美徳きずを勝ち得たのだ」

「……そうか」


似たようなことをつい先刻、別の口から聞いた。彼が言ったのは、このことだったのだ。ヒルデガルトは痛む胸に手を添えた。


 空を偽る投影シールドには亀裂が走り、弾ける火花がまるで本物の星空かのように輝いている。天候システムのコントロールを離れた大気は凪いでいる。ひび割れめくれ上がった大地は無理な次元転移のダメージを物語っていた。

 アトランティスは合金の口を開いた。


「エジプトのアルケー、アセトはある人間の昏い願望を叶えるという名目で、事を起こした。ならば我は、ある人間との約定を果たすためにそなたをすくい上げたとしよう。これで満足か?」

「それは……」

「理解する必要はない。価値があるから、美しいから守るのではない。この躰の上に住まう者はすべて、我が手掛けた命。かつて救いを求めて我の杯を干した者たちの裔だ。それはそなたも同じ」


虚無の夜空がアトランティスの合金の躰にうつり、輝いている。身を切って航行に繰り出したこの艦は今、何もない世界の裏側を漂流している。


「さあ、我はそなたの言う『革命』が見てみたい。ここで終わるのではないのだろう?」


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