第76話 Krone aus Mistel

 目覚めはこれまでになく清々しいものだった。夜中に一度目を覚ましたとは思えないくらい深く、夢すら見なかった。エルダ・ジレーネのハーブティーのおかげかもしれない。

 ヘルマンは起き上がって、隣のベッドに横たわるヒルデガルトを揺すった。


「……起きるよ」


明瞭な声にヘルマンは面食らった。普段なら唸って起床を拒むというのに。彼女はあまり眠れていなかったのかもしれない。

 鼻孔をくすぐる麦の香り。ヘルマンは慌ててキッチンに飛んでいった。朝食の支度をしていたエルダは、ヘルマンの寝巻き姿に笑みをこぼした。


「おはようございます、朝食がもうすぐできあがりますよ」

「そ、そんなことしないでください、恐れ多い」

「まあ、私がマダムであれムッシューであれ、厚意に過ぎませんわ。あなた方のお召し物も綺麗にしておきましたから、顔を洗って着替えてくるのですよ」


ヘルマンは顔を真っ赤にした。まさか貴人にそのような身の回りの世話をさせることになるなんて。


「いいから、ヘルマン」


後ろから引っ張られて、ヘルマンは洗面所に引っ込んだ。いくら今の自分は泉の令嬢の付属物だといえ、彼女と同じように敬意を当たり前のこととして受け入れることはできない。

 ヘルマンは丁寧に礼を言いながら食卓についた。

 エルダの用意した朝食をとっている間も、ヒルデガルトは依然として寡黙だった。

 最も泉の祝福に近いところで食事をとることは、外の人間の自分にとって安全なのか。そんな不安が一瞬頭によぎったが、料理の滋味がすぐ忘れさせた。

 窓枠がガタガタと音を立てている。風が強いようだ。木の屋敷は深い森に囲まれているはずだが。


「さあ、英雄を送り出すのはいつも泉の乙女の役目ですわ」


もう乙女ではありませんでした、とエルダは自分の言葉に笑った。これからのことに一切不安を抱いていないといった表情に、ヘルマンは心が救われるような気がした。

 乾いた風が荒々しく貴婦人の髪を乱したが、いっときの風には、一万年もたたえ続けた彼女の笑みを崩すことはできなかった。


 エルダに見送られて屋敷を後にする。外は薄暗く、ぬるい風が吹いて木々がゴウゴウと鳴っている。異様なのは空だった。絵の具を塗りたくって手のひらでこね回したように歪んでいる。


「砲撃準備に入ったんだろう」


ヒルデガルトは淡々と言った。

 森の斜面を足早に駆け上がる。オオガラスの案内はもう必要なかった。置いていかれそうになりながらヒルデガルトの背を追う。彼女を掻き立てるのは殺意、復讐心なのだろうか。

 息切れしながら森を出て、置き去りの車に飛び乗る。ガソリンはまだある。空を捻じ曲げる大砲に向かって走るだけだ。

 田園地帯といくつかの市街を通り過ぎ、川を渡る。

 石橋を渡りきったその時、ヘルマンは横から伸びてきた手にハンドルを取られた。


「ちょっと!」


石の壁に激突しそうになり、慌てて制御を取り戻す。乱暴者を叱ろうとしたとき、車体が爆風で浮き上がった。


「小癪な人形どもが……!」


着地した車が横滑りする。ヘルマンは咄嗟にハンドルを切り、横転を回避した。河畔の市道は車の渋滞が起きていた。


「サイボーグですか? 迂回路は……」


街中に不吉な叫び声が響き渡った。全身が総毛立ち、歯の根が震える。

 ヒルデガルトは足元に突っ込んでいた剣を掴み、車から飛び出した。ヘルマンも銃を持ち彼女の背を追う。

 逃げ惑う人々の波に逆らい、揺れる黒髪を追う。

 火の粉まじりの熱風が吹いている。世界を呪うおぞましい声が降り注ぐ。


「アーテファクト4! こんなところにどうして……」

「あの鳥頭、やはり皇帝が生きている限り、正気を取り戻せないみたいだな」


轟音と地響きを立て、石造りの塔が崩れ落ちる。石畳の道を曲がり、ヘルマンは建物の屋根に取り付いた凶鳥の姿を見た。

 千年に渡って燃え続けた黒い骨の腕を振りかざし、巨大な剣を地面に叩きつける。路面が波打ち、ヘルマンは転びそうになって地面に膝をついた。

 絶望に満ちた表情の人々が逃げ回っている。真っ二つにされたアーケードの煙の中に立ち上がる人影が見える。


「――――――!!!」


怪鳥は怨嗟の叫び声を上げ、燃え上がる翼を人影に向かって振り下ろした。


「うわっ……」


思わず声を漏らすヘルマン。ヒルデガルトは舌打ちし、剣を引きずって怪鳥に向かって走り出した。

 アーテファクト4の黄金の兜がこちらを見る。振り上げられた大剣から光がほとばしった。ヒルデガルトの剣が熱線をそらし、ヘルマンの頭上を焼いた。

 ヘルマンは崩れ落ちたアーケードに向かったが、数千度の焔に包まれた人影は一瞬にして焼け焦げ、散り散りに無惨な姿になっていた。

 剣を振り回すヒルデガルトにおびき寄せられ、怪鳥の殺意が遠のいていく。ヘルマンは他の人の足音がした気がして、サッと瓦礫の陰に身を隠した。生存者の気配にしてはおかしい。獲物ににじり寄るかのような……。

 アーテファクト4は強力な電磁パルスを発する。たいていの電子機器はそれで正常に動かなくなる。先ほどヒルデガルトはサイボーグの電磁波を感じていたはずだ。ヘルマンはライフルのグリップを握り直した。

 背後で人の気配がして、瞬時に銃を向ける。うめき声を上げながら焼けた骸が起き上がり、ヘルマンは悲鳴を上げそうになった。


「君、ここは危ない」


自分の灰を顔から拭い、剣を支えに立ち上がる紳士。ヘルマンは慌てて彼を押さえた。


「おや君は……」


紳士――フェーゲライン皇帝は、銃を持って警戒するヘルマンの意図をすぐに理解した。


「どうしてこんなところにいらっしゃるんですか!」

「第4軍が走り回って触れている。人々に数か所の避難所に逃げるようにと。人々を見捨てることはできない」

「サイボーグの群れ相手にあなた一人で何ができるというんですか。しかもアーテファクト4まで現れて……」

「怪鳥の狙いは私だけだ。むしろ好都合だろう。君は人々を助けなさい」


立ち去ろうとする皇帝を引き止める。そうは言っても車は立ち往生して人を乗せて走り出せるような状況にない。


 瓦礫の陰から立ち上がった怨敵の気配を、アーテファクト4は敏感に察知した。走り回るヒルデガルトを叩き潰そうとしていたのに、ぐるりとその黄金の兜が振り返る。


「お前の仇はここにいるぞ!」

「ちょっと……!」


声高らかに叫ぶ皇帝。巨大な結晶の剣が振りかざされ、熱線が地面をえぐった。

 地面に伏せたヘルマンは、衝撃が去って顔を上げた。空が閉ざされ、埃と瓦礫しか見えない。運良く瓦礫の下敷きにならず、隙間に閉じ込められたようだ。

 もう一人気配がする。自ら攻撃を招いた皇帝も、どうやら無事のようだ。

 帝冠を奪う絶好の機会じゃないか、とヘルマンは思ったが、一方でためらいの心が体を引き止める。

 彼は無能な王ではない。一人ひとりの民を慈しみ、心を痛め、自ら剣を振るって救おうとしている。彼の手元には支配を裏付けるレガリアが何も残っていないというのに。誰も彼を皇帝だと認めなくなっても、彼のあり方はまさしく人を導く皇帝に違いない。

 気まずい沈黙を破ったのは相手だった。


「君……、よくぞ今までヒルデガルトに付き添ってくれた」

「お褒めに預かるほどでは……。私はただ、私がそうしたかっただけです」


壮年の男は口元にシワを寄せて微笑んだ。


「いや、果たしてそれだけだろうか。君は祝福を受けたからこそ、今の今まで生き延びることができたのだろう」


ヘルマンは顔色を変えて皇帝の薄青の目を見つめた。人を見抜くような透明な眼差しだ。


「祝福……だなんて」

「助けが来るか、あの怪鳥に瓦礫もろとも押し潰されるか……。一つ昔話をしようか。これは血の契りという、フェーゲラインの始原に由来するまじないのことだ」


彼は低い声で語り始めた。

 建国の騎士たちが交わした血の契り。お互いの体の一部、あるいは血を分け与える最も重い誓約。

 血の契りとは元来、人と泉の君との間に交わされたものだった。天星とともに泉の御子が降臨したとき、天地が揺さぶられ、人間も動物も体が混じり合い、元の生き物ではなくなった。自ら招いた窮状に人々を憐れんだ泉の御子は、彼らの病を癒すことを約束した。

 降臨した泉の君は生贄を禁じたが、対価としてひとしずくの血を求めた。かれの救いを求める者は清浄な泉の中にひとしずくの血をこぼし、君は輝く泉の水を飲ませた。異形の病に苦しむ者たちは次第に癒やされ、当初の恨みを次第に忘れていった。清き泉とともに生きることになった人々は、その尊き契りを祝福と呼んだ。

 この地の人々が泉の君を受け入れて一万年、いまやかれの祝福を受けていない者はない。

 皇帝はキリストへの信仰を捨てた際、眠りの君への帰依を示すため、この血の契りの伝統を継承したのだ。


「輝く泉の水を口にすること、それは神のからだむこと。それは多かれ少なかれ神の祝福を身に宿すことなのだ」


オデットは致命傷を受けたヘルマンの命を救うため、自らの真躯を彼の傷口に流し入れた。外の世界の人間にとって、アルケーの真躯やブルネニットは代謝できない有害なものだ。それなのに、ヘルマンはそれによって命を救われた。


「ヒルデは君に死んでほしくないようだ」


皇帝はひとりごちる。ヘルマンはそのことを重く受け止めた。

 真躯を使ってそのようなことができるなら、なぜ彼女は他のもっと大切な存在の死に直面したとき、救おうとしなかったのだろう。それはきっと彼女にとって禁忌なのだ。一面に広がる星空の下、ヘルマンは彼女の意識に踏み込むことを拒まれたのを思い出した。彼女は自分の永遠を、他の誰とも共有しない。


「君はまだ迷っているようだ」


ヘルマンはドキリと心臓が跳ねるのを感じた。


「自分の命を狙う者と会うのは一度や二度ではないからね」

「そのようなつもりは……」

「この身は永遠を宿命付けられたただの人間。神の承認なしには時の流れに逆らいようがない。逆に言えば、この黄金の冠が失われれば、この身はたちまちに本来の時の流れを思い出すだろう」


永遠の帝冠を失えば、彼の体は死を迎える。ヘルマンは達観した眼差しの皇帝を見つめた。不意にその姿が歪み、恐ろしく乾いたむくろに見えた気がした。彼は目を疑い、何度かまばたきを繰り返した。


「どうやら君には資格があるようだ」

「資格?」


欲する者にしか視えぬ黄金のヤドリギの冠。

 恐ろしい真実を垣間見た気がして、ヘルマンは慌てて目を伏せた。まさか彼は千年もこの枯れ果てた姿で生きてきたのだろうか。ヘルマンの目の前にいるのは、くすみ一つなく輝く黄金のヤドリギを頭に戴いたミイラだった。そんな状態で人が生きていられるはずがない。冠を失えば、すぐにでも崩れ去ってしまうような体だ。


「あの狼はどうした?」

「ヴェルフ少佐なら……すでに亡くなられました」


そうか、と彼は感慨深いため息を漏らした。


「確かに彼の存在はヒルデガルトを大きく変えた。もっとも彼女は、生まれたての雛鳥のように誰にでも従い、疑うことを知らない存在だった。彼女は主を失ったと言えるだろう」


彼にはそう見えていたのだろうか。それじゃまるで逆だ、とヘルマンは思った。


「主も失い、友も失えば、彼女は危険な存在になりかねない」

「……私は死にません」


ヘルマンは老いさらばえた皇帝を見つめた。


「そうか……」


彼は受け入れたように目を閉じた。


「教えていただきたいのですが。

グンヒルドさん……、あなたのお嬢様の名前を知ったとき、そんな事があっていいものかと耳を疑いました。なぜあなたはリッターさんに、実の子にちなんだ名を与えたんです?」

「子として愛してはならないのだと分かっていても、彼女には我が子の未来であってほしいと願った……、しかしこれは建前だ。本当は、彼女の名を呼ぶたびに、自らの過ちを思い出すためだ」

「リッターさんは彼女のことを知っていたんですか」

「戦乱の中、多くの史料や記録が失われた。私はもはや私しか知らない事実を書き記し、空の家の書斎に置いている。彼女は蔵書をすべて読破した。私のすべての経験は彼女に引き継がれたと言っても過言ではないだろう」

「……あなたはひどい親ですね」

「『こうあってほしい』と理想を押し付ける存在は、第一には親というものだよ」


第二には……、とヘルマンは胸の内で続けた。

 枯れ果てた皇帝の頭のぐるりに、金色のヤドリギの枝が巻き付いている。まるで持ち主の魂に寄生し、栄養を吸い尽くしたような。

 ヘルマンは黄金の冠に手を伸ばした。ヤドリギの枝がたわみ、彼の指に絡みつく。


「痛ッ……」


解けた枝が意思を持ったように皇帝の頭蓋から離れ、ヘルマンの手に、腕に食い込んだ。血が溢れ滴り落ちる。

 枯れ枝のような皇帝はその様子を静かに見つめ、そして魔法が解けた古衣のように姿が崩れ始めた。

 その瞬間、天井が崩れ落ち、彼の目の前で皇帝は瓦礫に押し潰された。

 日差しに目がくらむ。瞬きのうちに全身に殺意が降り注いだ。黄金の兜の隙間から焔の塊が見ていた。


「ほら、アーテファクト4。あなたの皇女の仇はもう死にました」


ヘルマンは痛みにうめきながら怪鳥に白い歯を見せた。怪鳥は上顎が欠けた首の空洞から、ため息ともうめき声とも付かない音を発した。体を苛む熱が少し和らいだように感じられた。


「……ヘルマン」


瓦礫を乗り越えて近付いてきたヒルデガルトの視線は、彼の腕に注がれていた。彼女はすぐに状況を理解したらしい。

 ヒルデガルトの白い顔がいびつに歪んだ。笑みとも泣き顔とも取れる表情。


「……そうか、これでいいんだ」


ヘルマンは彼女が何を理解したのか察知して、顔色を変えた。

 背を向けるヒルデガルトにすがりつくようにして、後ろから捕まえる。


「違うんです、リッターさん……!」


彼女の服が血に染まる。腕の間にすっぽり収まる小柄な彼女は、どんな顔をしているのかもう分からない。


「これはあなたが戴くべき冠です」


サラサラと髪が触れた。


「いらない」

「どうして……!」


ヘルマンは彼女を捕まえたまま、腕に食い込んだ枝をむしり取ろうとしたが、痛みが増すばかりだ。


「私が止めてもあなたは行ってしまう。でもこれがあれば、あなたは死なずに済む。ヴェルフ少佐との約束をもう破るつもりですか」


早口でまくしたてる。


「先に約束を破ったのはあいつだ」

「約束……?」

「私の血と、自分の左目にかけて誓ったんだ。私の最期を見届けるって……、それをあいつは……」

「そんなの約束でも誓約でもありません。だって、最初から叶えられっこないんですから」


ヘルマンは彼女の声を遮って続けた。


「なんて残酷な。あなたは自分勝手で残酷だ。自分より弱い獣に、永遠の命を生まれながらに持つ主の死を看取ることを誓わせるなんて。かれがどんな気持ちでいたか、思いやったことはありますか? 尽くすべき主への最大の忠義が、おめおめ主の死を受け入れることだなんて。血筋だか呪いだか知りませんが、そんなの私だって全力で抗いますよ。

かれは全力を尽くし、あなたが死なずに済む世界を作り出した。それによってあなたが苦しむのも、自分が恨まれるのも承知の上で。でもあなたは実際、死すべき定めになかった。かれは最後の最後まで、あなたが生きるための道を敷いていた。あなたはそれに報いたことがありましたか?」

「………………」

「あなたは恵まれた方だ。生まれながらにして永遠の命を持ち、世界を変える力も持ち、神と対等に話す立場もある。それでいて、人の苦楽を解する心を持っている。あなたは望みもしなかった無為な生によって無数の傷を負いましたが、それらは全部あなたの美徳となった。あなたは生まれ落ちたときよりずっと前に進んでいて、輝いている。

それを一時の感情に駆られ、全て投げ出してしまうなんて。そんなのかれが死んだ意味がありません。かれが生きた意味、死んだ意味はあなたが示すんです。それがあなたのために命を投げ出した忠臣への主の報いでしょう……」

「一時の……一時の感情だって?」

「ええ! あなたがこれから生きる時間に比べたら、一瞬でしかない。これはあなたが乗り越えるべき痛みです。あなたは決して忘れられないかもしれない。でも喪うことも乗り越えて、傷を抱えて生きていくんです」

「こんなに……苦しいのに? ずっと心が空っぽになったまま永遠に生きろと言うのか?」

「……そうです」


ヘルマンはそう答えて、奥歯を食いしばった。痛みを訴えているのは腕だけではない。


「できれば、こんなことは言いたくありません。あなたの望むことは何でも肯定してあげたい。でも残念ながら、これが私の本心です」


自分もまた、彼女に「こうあってほしい」という望みを押し付ける、3番目以降の人間だ。


「私を振りほどいて行ってしまうなら、帝冠も受け取らないなら、せめて私のお願いごとの一つくらい叶えてくれてもいいんじゃないですか」

「…………」

「リッターさん……、残念ながら私はあなたが喜んだようにはなりませんから。この冠はあなたがいらないのなら私だっていりません」

「お前さえ喪うことになる……」


ヘルマンは乾いた笑い声を上げた。


「私はあなたの『同じ部屋で働いていた同僚』でしかありませんから」


虚勢を張ってみたが、彼にはもう腕の感覚がなかった。ずるりと血が滑って、ヒルデガルトは腕の間をすり抜けた。


「…………」


振り返り、数歩後ずさったヒルデガルトは取り繕いきれていない顔をしていた。今にも泣き出しそうに歪んでいる。


「リッターさん、あなたは大丈夫です」


息切れしながら一つひとつの言葉を確かめながら紡ぐ。私は言葉の力を信じている。


「あなたは死んだりしません。必ずまた会えます」


一つひとつの言葉に込める。この言葉は呪いだ。

 何か言おうとした言葉を押し留めて、ヒルデガルトは背を向け駆け出していった。


 ……これでいい。

 ヘルマンは血を流す腕をかばいながら、力を振り絞って立ち上がった。彼女は思い通りになんかならない。冠を渡せないのなら、最後の手段に出るだけだ。

 千鳥足で駆け、車を走らせる。ハンドルが血で滑る。

 自分が約束したから。いや、眠りの君に約束を果たさせるために。

 彼は街道を通って人々が逃げていくのを見た。第4軍の車両が人々を運んでいる。

 空は不吉な色に染まり、雲が渦巻いている。イシスは撃つつもりだ。

 腕に食い込んだ帝冠は命を蝕んでいく。帝冠は神から授けられたもの。そのアーテファクトは祝福された者に永遠の命を与える。だが、簒奪者を許しはしない。

 視界が狭まり、道が歪んで見える。自分を叱咤し、ハンドルを握りなおす。何としてももう一度あの森にたどり着くんだ。


「――――!」


突然目の前に現れた小屋に、ヘルマンは慌ててハンドルを切った。車体が浮き上がり、制御できない。ヘルマンはなすすべなく衝撃に備えるしかなかった。

 横倒しになって滑った車は避けた小屋にぶつかって停止した。

 レンタカー店に多額の賠償を払わないと、と彼は場違いなことを思った。もう腕だけでなく全身がズキズキと痛む。シートベルトを外すと反対側の席に体がぶつかった。砕け散ったフロントガラスから這い出して、視界に飛び出してきた小屋を睨む。

 小屋が動くはずがないだろう。意識が朦朧として視界が狭くなり、集落の端にあった小屋が見えていなかっただけだ。

 事故のショックに心臓が早鐘を打っている。柱を車に吹っ飛ばされ、屋根が傾いた小屋にふらふらと立ち入った。

 湿っぽい水汲み場だった。石造りの水場は苔むして手入れが行き届いていなかったが、清らかな水がこんこんと湧き出していた。ヘルマンは冷たい水に腕を浸し、痛みをしばし忘れようとした。

 もう森にたどり着くことはできない。命を蝕むヤドリギに身を任せて死ぬか、永遠の命を得るか。死んだほうがマシだ、とヘルマンは思った。そして、きっと彼女も同じように思っただろうと気付いて自嘲する。無数の痛みを抱えて永遠を生きるなど――。


「みんな、無責任ですよ。ひとは自分の責任しか負えないものですからね……」


言葉は誰にも届かなかったはずが、彼のそばに誰かの気配が近付いてきた。


「どなたですか……。早く、避難しないと」


ヘルマンは通じるか分からないドイツ語で声を振り絞った。小さな人影は彼の前に跪き、水で満たされた杯を差し出した。ヘルマンは黙って杯を取り、口をつけた。美しい金細工の装飾が輝く古びた杯だった。


「…………たい――?」


深海に沈んだように、耳の中にぼうっと耳鳴りが響いている。誰かの声はよく聞こえなかった。


「私は、行かないと。あの方にこれを返さないと……」


手の感覚がない。腕に絡みついたヤドリギの枝は水に濡れてキラキラと輝いている。

 ヘルマンは差し伸べられた手を反射的に握った。小さな手が存外に硬く滑らかで、彼はぎょっとして顔を上げた。まばゆい。黄金の輝きが彼の視界を奪った。

 ――輝ける、泉の――。

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